4-4

 翌朝の朝食には泉美ちゃんが復活して、代わりにレイがいなかった。

「夜中までなんかやってたらしくて、まだ寝てるって」

 キッチンに立ちつつ、保護者みたいな口調で説明したのはいろはちゃんだった。悟くんがそんないろはちゃんににこやかに訊く。

「今夜、久しぶりに飲もうかと思うんだけど、レイもどうかな?」

 訊いておくよ、といろはちゃんはみそ汁をよそう。飲み会の言いだしっぺは、泉美ちゃんじゃなくて悟くんの方だったらしい。

 悟くんから飲もうなんて、珍しい。

 悟くんは飲みの場にはちゃんと顔を出すけど、下戸でお酒はほとんど、というかまったく飲めないはずなのに。

 買い出しは悟くんと泉美ちゃんがしておいてくれるらしい。いつの間に二人はこんなに仲良しになったんだろうっていう疑問はおいておいて。

「泉美ちゃん、仕事は?」

 って訊いたら、今日は土曜日だよと笑われた。アルバイト生活をしてると、曜日の感覚がどうにもなくなりがちな気がする。いかんなぁ。

 それにしても、お酒が飲めない悟くんと病み上がりの泉美ちゃんが買い出しだなんて、なんだか悪い気がする。でも、今日もバイトが二件入ってるし手伝えそうにないし。いろはちゃんはお手伝いするのかなって思ったけど、なんだかぼんやりした顔で椅子に座ったところだった。

 まぁ、しょーがないか。これ以上、私が考えても何もできないし。



 コンビニに到着し、休憩室のドアを開けた瞬間。その張り詰めた空気に気がついて腰が引けた。

 クマ野郎が休憩室を陣取っていた。

 っていうのは、いつものことだけど。私の顔を見た瞬間、立ち上がったクマ野郎が私の胸倉を掴んだ。

「ちょっと来い」

 返事なんてする間もなく、店の外に引きずり出されてしまった。裏口は店の入り口の正反対、ビルの裏手にある。ビルとビルの隙間に当たるその場所は昼間でも薄暗くてじめじめしてて、生ごみの臭いがいつでも漂ってて、それからこれが一番のポイントなんだけど、人通りが見事にないのだった。

 思いきり突き飛ばされた。

 転がるように地面に倒れ、拍子で束ねていた髪がバラバラになった。頬が少しひりひりする。アスファルトで擦ったのかもしれない。

「イライラするんだよ。お前を見てると特にな」

 出勤してきていきなりこれで、その上なんなんだその理由。

 あまりに理不尽で開いた口が塞がらなかった。まさにポカンとするってヤツですよ。地面に座り込んだままクマ野郎を見上げる。この数日、いつもに増して機嫌が悪いことはわかってたけど。なんだ。何が起こってるんだ。

 地面を転がったときに打ったのか、肩が鈍く痛み始めた。モッズコートの腕の部分が擦れて布がよれちゃってる。今年買ったばかりなのに! ……理不尽だ。ほんと、理不尽。

 なのに、なんで、憎悪みたいな怒りが湧かないんだろう。

 私はいつだって、お気楽に生きる努力をしてる。ちょっとやそっとのことで怒ったりイライラしたりしないように心がけてはいる。でも、違う。クマ野郎に対しては何かが違う。面倒だなって思うけど、クマ野郎が私に対して理不尽な苛立ちをぶつけてくることに対して、怖いとか理不尽とか思っても、「怒り」って感情をこれっぽっちも抱けないでいる。

 殴られたら、痛い。突き飛ばされても、痛い。罵声を浴びせられれば、もちろんイヤな気持ちになる。

 でも、腹が立つのとは別。

「なんだよ、その目は」

 何をこの人はこんなに焦ってるんだろう。無尽蔵の苛立ちをどこで発生させてるんだろう。

 もっともっと、気楽に生きればいいのに。

 ぼぅっとしていたら、腹部に蹴りが飛んできた。一瞬視界が白くなって、次の瞬間には体がくの字に折れて倒れてた。頬に直接触れるアスファルトは冷たく、すえた臭いが鼻をつく。

 ――どうして。

 クマ野郎の声が降ってきて、目だけでそちらを見た。肩を踏まれた。

「どうしてお前は、何も言わない?」

 リフレイン。

 ふいに理解、できたような気がした。体の大きさも声も顔も全然違う。けど。

 こいつは似ているんだ、親父に。

 私に勝手に期待して、裏切られたような顔をした親父に。

 クマ野郎が私に何を期待したのかなんて想像もしたくなかった。クマ野郎が苛ついている原因は別にあって、私は単なるその吐き出し先ってだけかもしれない。事情なんか知らない。知りたくもない。

 けど、だから。

「あの」

 私の声に、クマ野郎が足をどかして眉間を寄せた。

「後悔しないうちに、やめた方がいいよ」

 言いきった直後にまたしても蹴り飛ばされて、今度は額を地面で擦った。熱い。遅れてじんわりと痛みが広がる。もう自分が何を言いたかったのかもよくわからなくなった。多分、私は余計なことを言っちゃったんだろう。お気楽バンザイの私なのに。余計なことなんて言わなきゃいいのに。

 こいつは――こいつは……。

 クマ野郎の次の蹴りが来るのを察知して、体を強張らせたときだった。

「ちょっ……何やってるんスか!」

 三つ下のフリーターくんだった。時間になっても現れない私を探しに来たに違いない。

 彼はクマ野郎の存在に全身でビビリながらも、駆け寄ってきてくれて私を助け起こし、大丈夫ですか!? とモッズコートについた砂利を払ってくれた。なんていい同僚なんだろうって心の底から感謝した。

「うわっ、顔から血が出てるじゃないっスか!」

「あぁ、大丈夫大丈夫」

 血を見てさらに青い顔になったフリーターくんを安心させようと笑んだら、こめかみを流れるものに気づいた。フリーターくんがひえぇっとさらなる悲鳴を上げる。

「……そのうち、お前もぶっ殺してやる」

 クマ野郎はまっすぐに私を見て、捨てセリフとともにいなくなった。こえー、とフリーターくんは文字どおり震え上がる。

 クマ野郎は、フリーターくんではなく私に向かって「お前も」って吐き捨てた。その違和感がなんとなく気になった。今のセリフなら、フリーターくんに向かって言う方が自然なのに。

 フリーターくんの手を借りて立ち上がると、体のあちこちが軋むように痛んで顔が歪んでしまう。こういうのは、ちょっと久しぶりだった。

「助かったよ」

 心からの礼をフリーターくんに述べる。

「今日のバイト大丈夫っスか? 店長に相談しましょうよ」

 クマ野郎のことをいたくかわいがってる、事なかれ主義の店長のことを思い出した。

「まぁ、それはまた今度で」

「でも――」

「絆創膏貼っときゃ大丈夫だしさ」

 かくいう私も、お気楽モットーだからね。事なかれ主義大賛成。

 フリーターくんと一緒に店に戻りつつ、考える。私の言葉は、クマ野郎に一パーセントくらいは伝わったんだろうか。

 ……まぁ、余計なお世話でしかないし? それが伝わっても伝わらなくても、私には関係ないことなんだけどさ。



 額とほっぺたに絆創膏を貼ると、どうにも目立って仕方がない。フリーターくんの計らいで、今日はレジじゃなくて商品の陳列や掃除を主にやらせてもらった。午前と午後、二件のアルバイトを終えて帰宅したのは、泉美ちゃんに予告したとおりの午後九時前になった。

「おかえりマスミンー」

 いろはちゃんが玄関まで迎えに来てくれて、ようやく心が癒やされた。と思ったのは私だけだったみたいで、いろはちゃんはぎょっとして目を見開いた。

「どうしたのその絆創膏?」

 誰かに襲われたの? なんて、物騒なことをかわいらしい口調で訊いてくる。

「またドジしちゃって」

 てへっと笑ったら、ぐりっと頭を撫でられた。

「痛いの飛んでくといいね」

 いろはちゃんの手は小さくて、でも温かくてほっとする。これがレイのものになっていたなんて、なんかやっぱり改めてショックかも。

 一緒にダイニングに向かうと、宴会の準備は整ってた。というか、宴会はすでに始まってた。

「おぉ、マスミン!」

 レイが大袈裟なくらいぶんぶんと手を振ってくれる。その隣の空席が、きっといろはちゃんの席だろう。レイと向かい合うように悟くんと泉美ちゃんが座ってて、二人はウーロン茶を飲んでるみたい。

「荷物置いてくるね」

 私は一人ダイニングを突っ切って、暗くて冷たい階段を上った。

 部屋に到着し、電気もつけないまま脱いだモッズコートをベッドの上に放った。このままダイニングに向かうつもりだったけど、携帯電話がぶるるっと震えた。メールだ。

『ホームページ見てくれた? またスミと一緒に演奏できたら嬉しいな♪』

 中野佳苗からだった。メアド教えたっけ。……あぁ、成人式で地元で会ったときか。あの頃から、私はメアドを変えてないんだった。

 真っ暗な部屋。その奥にあるクローゼットを見つめた。

 あの中には、フルートケースがしまってある。

 フルートには、確かにずっと触ってなかった。ケースも開けてない。でも、私は引っ越しのたびにそのケースを持ってきた。捨てることだってできたはずなのに、でもできなかった。

 吹奏楽部でフルートを吹くことになった。そう話したら、フルートなんて貴族のモンをお前がやんのか! と親父はなんだかよくわからない喜び方をして、母の反対を押し切って、安物だったけどフルートを買ってくれた。

 吹奏楽部にいる頃は、ちょっと今じゃ考えられないけど、信じられないくらい真剣に、一生懸命練習した。与えられた基礎練も課題曲も、繰り返し繰り返し練習した。

 けど、そこそこしかうまくならなかった。

 フルートなんて洒落たモンをやるなんて、真澄は大物になるに違いない。なんて親父が管を巻いてたのは始めだけで、実際に私の演奏を聴いてからは何も言わなくなった。現実を見たんだろう。そういうのなんていうか私は知ってる、「カエルの子はカエル」だ。

 それでも、演奏会があるたびに、親父は会場に来てくれた。下手くそな私の演奏を聴いて、最前列でこれでもかって拍手してくれた。

 あの頃。誰が、こんなことになるなんて予想してただろう。

 意に反して、足は勝手にクローゼットに向かってた。ドアを開け、そして引っ越し当時のまま積まれた段ボールの上に置いてある、細長い、皮張りのケースを引っ張り出した。

「マスミン?」

 いろはちゃんが開け放したままだった部屋の入り口に立ってた。廊下の明かりの逆光になってて、表情は見えない。

「そんな暗いところで何やってんの?」

 フルートのケースをとっさに背中の後ろに隠した。

「ちょっと、探し物してて」

「なかなか降りてこないから様子見に来ちゃった。準備できたら下に来てね」

 ぱたぱたっと飛び跳ねるようにいろはちゃんが階段を下りてく。そのうち階段から落ちなきゃいいけど、っていつも心配。

 静かに息を吐き出し、ドアを閉めて部屋の電気をつけた。眩しい。目を細めたままその場にしゃがんでフルートケースを床に置いた。少し埃をかぶってて、黒かったはずのケースの表面はうっすらと白っぽくなってる。金具の部分も銀色だったのに錆びてて白い。固くなってる止め具を外した。蓋をゆっくりと開いてく。

 フルートは、白銀の輝きを失ってはいなかった。

 中学時代の思い出が、走馬灯のように蘇る。汗水垂らしながら必死に楽譜を追った日々。仲間たちとコンクールっていう一つの目標に向かってた日々。あの頃は、いつだって血が熱かった。あの頃の私も今の私も、私だ。だったら、何が違うっていうんだろう。何が。どうして今の私は――

 その白銀のボディに、絆創膏の指で触れようとしていた。手を伸ばしかけた姿勢のままでも硬直してしまい、そして――噴き出した。

 必死にこらえたけど、最後には声を上げて笑ってしまった。

 笑い声が聞こえたら、いろはちゃんがまた様子を見に来ちゃうかもしれないって、わかってるのに。

 ケースから取り出さなくてもわかるくらい、それにはびっしりカビが生えてた。吹き口の周りなんか、もう見るも無残。青銅色に変わっちゃってる。

 なぁんだ。

 声に出してみたらまた笑えた。

 なぁんだ。

 ケースを閉じて、クローゼットに戻した。それから、中野佳苗のメールを消去した。ついでに着信拒否。

 今の私は今の私であって、昔の私じゃない。親父みたいに過去に、何かに固執して、自分で自分の人生を終わらせちゃうなんて、私はまっぴらだ。

 私はお気楽な人生を歩むって、そう決めたんだ。

 気にすることなんてなんにもない。

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