第2話 猫シンドローム ……穴川泉美
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昔から、逆境に燃えるタチだった。
逆境、なんていうと大袈裟かもしれないけど、要は手に入らないんじゃないか、って私に思わせるようなものがとにかく好きだった。このチャンスを逃したら手が届かないかもしれない、って思った瞬間、火がついた私は全力でぐいぐい手を伸ばす。バーゲンセールと似たような心理だと思う。限定デザインのこのバッグは残り一つ! これがホントに最後のチャンス、もう二度と手に入りませんよぉ! なんて言葉にほだされてしまうのと。
ということで、私は学生時代、友だちの彼氏を奪ったことが二度ほどある。今ならそこまでバカなことはしないし悪かったって思ってるけど、でもあの頃、隣の芝生が青く見えてしょーがなかったんだ。おかげで、今でも連絡を取り合うような学生時代の友人はほとんどいない。
そうして社会人になって会社に入って、男性社員の半分近くが既婚者なわけで。私が不倫に走らなかったの、自分でこんな風に言っちゃうの身も蓋もないけど、まさに奇跡に近い。同期の子が私よりも先に妻子持ちと関係を持って、あっさり周囲にバレて会社を去ったおかげで、理性がブレーキをかけたのが大きかった。リスキーすぎる。と同時に、私も少しは大人になったんだなと思ったものだった。これくらいの理性が私にも芽生えたんだっって。
こんな趣味嗜好のおかげで、私は自分とは距離があったり、私に無関心だったりするものを探し当てる嗅覚が人並み以上に発達してる。まったくもって人に自慢できる能力じゃないけど仕方ない。私には必要だったし、それはそれなりに機能しているはずだった、のに。
私の能力にも、盲点はあるんだってこと、気づかされてしまった。
彼の存在に気づくのは、私にしては少々遅かった。
足音が近づいてきて、私は臨戦態勢に入った。
来る、来る、来る……来た!
ドアが開いて、ダイニングに悟が入ってきた。私は悟の行く手を阻むように立ち上がり、冷蔵庫からお茶のボトルを取り出して中身をグラスに注ぐ。はい、と完璧な笑顔で手渡した。我ながら、一連の動作はスムーズ。向けた笑顔も微妙に右に傾けて、一番かわいく見える角度を意識してる。
「ありがとう」
ラフなジャージ姿の悟は、あいかわらずの人の良い笑みを私に向けた。首からタオルを下げて全身から石けんと湯気の匂いを漂わせてるくせに、その髪はさらさらと流れる。悟は、風呂上がりには髪を完璧に乾かすのだ。いつも滴が垂れそうなくらいの濡れ髪でリビングにやってくるいろはとは大違い。
悟が受け取ったグラスの表面には、もううっすらと水滴が浮かんでた。暖房のきいたリビングダイニングは暖かい。私も自分のグラスにお茶を注ぎ、ダイニングの定位置に腰を落ちつけた。悟もいつもの流れで彼の定位置、私の前の椅子に腰かける。
風呂上がりに冷たいお茶を一杯。それは悟が欠かさない習慣の一つ。それがわかってから、私はチャンスさえあれば、彼に積極的にお茶を渡すようになった。あくまで自然に、私も飲みたいからついでにって感じで。悟は特に私を意識した様子もなく、グラスの向きを半周分変えてから無言でお茶に口をつける。
悟には、彼独自のルールがたくさんある。靴を履くときは必ず靴べらを使って踵を二回打ちつけ、コートは必ず玄関から廊下に上がったすぐのところで一番下のボタンから外して脱ぎ、リビングを掃除するときは必ずハンディワイパーでソファやサイドボードなどを左から右へきっちりと拭いた上で、ベランダ側のすみから掃除機をかける。彼の毎日は何をやっても規則正しく、ルールに則っていて正確で間違いがない。
その丁寧さは、彼の普段のふるまいにも表れていた。彼が粗雑な物言いをしたり、怒ったりしているのをいまだかつて見たことがない。疲れた顔は見せても、話しかければすぐに朗らかな表情を見せる。さっきだって、チャンスさえあれば風呂上がりの悟に必ずお茶を用意する私に対して、いつも変わらない笑顔で礼を述べる。ありがとう、というその声は、穏やかだけど余計な感情など微塵も含まずさらりと響く。この数ヶ月間、悟を観察し続けてるけど、いまだに何を考えているのかよくわからない。まぁ、そこにまたそそられるんだけどさ。
悟は黙り、静かにお茶を飲む。瞑想しているようにすら見える。そんな悟を、私もお茶を飲みながら、グラスの影から垣間見る。
悟は、しゃべらないと少し怖そうにも見えた。怖そう、というか暗そう、か。メガネの奥の瞳の表情はよくわからず、ガリ勉っぽいといえばそんな感じ。けど、口を開けばいつだってにこやかで、そしてそして、これが何よりも重要なポイントなんだけど、眼鏡を取ると鼻筋が通って目元もキリっとしてて、その第一印象とはかけ離れた整った顔立ちなのだった。私に一切興味がない切れ長の目は、いつだって猫を思わせる。
それに気づいたのは、このハウスに越してきて二ヶ月が経った頃だった。気づくのに遅れた自分に愕然とした。私の嗅覚すらすり抜けたこの男に、私が興味を持たない理由がない。
そして、草食系か肉食系かと訊かれたら、もちろん肉食系と答える。もちろん私の話だ。
私はすぐさま行動を開始した。思い立ったら即行動。当時、良いなと思う男性がほかにいなかったことも私の背中を押した。私はいろはやマスミに隠れて弁当を作って、悟にこっそりと渡してみた。
――自分の分、作りすぎちゃったから。
べたな物言いだったけど、恋愛ごとにはうとそうな悟には、これくらいわかりやすい方がいいって計算してのことだった。悟は純粋に驚いたような顔をして、ありがとう、といつもの穏やかな笑みを浮かべて受け取ってくれた。この頃、悟のことをよく知らなかった私は、笑ってくれたくらいで、やったやったって内心小躍りした。
けど、弁当箱はなぜかマスミから私に返却されたのだった。
――悟くんからもらったんだ。大学の研究室でまとめて弁当を注文してあるからって。
弁当作戦は失敗に終わった。
が、その後もめげずに話しかけた。私の美点は立ち直りが早いことだ。しつこいくらいに風呂上がりのお茶出しをし、思い切って二人で出かけないかって誘ったこともある。悟はいつだってにこやかだ。にこにこ穏やかな微笑をたたえたまま、ごめん、今研究室が忙しいから、とばっさりと私を斬り捨てる。また誘って、とか、暇になったら、とか、そういう希望を持てるような一言はない。敵は思ったよりも手強かった。だけどそれがまた、悪くない。私に火をつけまくる。手を伸ばしたい。触れたい。この人の本音をさらけ出させたい。
「訊いてもいいかな?」
ふいに目が合って、ぼうっと悟を眺めていた私は慌てて姿勢を正してテーブルにグラスを置いた。
「私でよければなんでもどうぞ」
勢い込んで答えると、別に大したことじゃないんだけど、と悟は苦笑する。
「友だちの見舞いに行く予定なんだけど、何を持っていったらいいと思う?」
友だち。見舞い。少し考えた。
「こっちも一つ訊いてもいい?」
「どうぞ」
「友だちって、女の子?」
私の質問の裏の意図なんて、きっとわかってないに違いない。悟は少々きょとんとし、質問の意図を考えた様子もなく、いや、と答えてメガネをくいと上げた。
「同じゼミの男」
一応の確認を済ませられて内心ほっとした。私は何事もなかったように話を戻す。えっとね、と人差し指を唇に当てて考える。
「起き上がれるようなら、本とかいいんじゃないかな。病院って暇だっていうし。男友だちならマンガ雑誌とかいいんじゃない?」
「なるほど。でも、マンガは僕が読まないからよくわからないな」
悟らしい。悟とマンガの組み合わせは、確かにピンとこない。
「じゃあ、物を食べられるなら、果物とかはどうかな。その友だち、なんで入院してるの?」
何気なく訊いたつもりだった。けど、にわかに悟の表情が曇ったのに気づいた。
「ごめん……まずいこと訊いた?」
あ、そうじゃないよ。悟の表情はすぐに穏やかなものに戻る。
「ひき逃げにあったんだ。足の骨が折れて、ちょっと前に手術が終わって。それで、明日見舞いに行こうと思って」
「ひき逃げなんてひどい」
本当にね、と悟も神妙な面持ちになって頷いた。しかも話を聞くと、予想外にこの近くでだった。犯人はまだ捕まっていないらしい。
「私もその辺で人にぶつかって転びかけたことあるよ。道路側に倒れそうになってびっくりしちゃった。あの辺の道路、四車線だしどの車も飛ばしてるから、ちょっと怖いよね」
「ケガがなくてよかったね」
悟がお茶のグラスを傾けた。残っていた薄緑色の液体が、たぷんと揺れてなくなった。
悟の風呂上がりに、こうやってここで二人で話をするのは、何も今日に限ったことではない。前述のとおり、私はこの機会を可能な限り狙ってる。が、私の散々のアプローチにもかかわらず、悟は特に態度を変えることもなく、私の淹れたお茶を当たり前のもののように受け取るのだった。こうやって取りとめもない会話を日常的に交わしてても、なんの感触も手応えない。何を考えてるのか、考えてないのかさっぱりわからない。暖簾に腕押しとはまさにこのこと。
攻略は、過去にないくらい難航してる。
勉強が好きだったことなんて、過去に一度もない。学生時代から、部活とか趣味とか、何かに思いきり打ち込んだ記憶もあんまりない。なので、二回も大学に通う、というのが私にはいまいちピンとこなかった。それも、遊ぶ時間がある文系学科ではなく、何かと忙しい理系だっていうのだから、未知の世界もいいところだ。
満員電車に揺られて会社に行って、ルーチンワークをこなして、お昼は食堂で同期の女の子たちと互いの上司の愚痴をこぼし合って、アフターファイブのことだけを考えながらまたルーチンワークをこなして、午後五時半になったら即座に退社。そのあとは一人で街をぶらぶらしてもいいし、同期とお茶をしても、たまには合コンに顔を出すのもいい。それで、最低限暮らしていけるだけのお給料はもらえる。そういう人生の方が、私には楽に思えてしょーがない。
定時に会社を出て、少しショッピングモールをぶらついてから帰路につくと、悟と駅前で遭遇することが多かった。悟は理系といっても、まだ二年生で本格的にゼミだの研究だのが始まるのはこの春から、三年生になってからなんだという。
――時間にゆとりがあるのはあと少しなんだ。
そう話してくれた悟の横顔に、私は心の中で問いかけた。
そうしたら、こうやって私と一緒にハウスに帰ることもなくなっちゃうかもしれないけど、そのことについてはどう思う?
なぁんて。これは訊かなくても答えがわかる。どうも思わないに違いない。
その日、会社帰りに一緒にお茶をした同期の女の子は、所属してるフットサル・サークルの話をしてた。運動なんて高校卒業以来してなかったんだけど、始めたら意外とはまっちゃってさぁ。なんて、その言葉には嘘偽りなど微塵もなさそうで、彼女はなんとも満ち足りた表情で淀みなく話し続ける。
――へぇ。
ケーキをつまみながら、だから私もにこやかに相槌を打つ。始めてみてよかったね、なんて期待されてるとおりの言葉を返してあげながら。すると、彼女は少し身を乗り出した。
――でしょ? 泉美も一緒にやってみない? メンバー募集中なんだ。
繕っていた表情が崩れかけた。けど、ははっと笑いながら顔の前で手を振った。
――私、運動苦手だし、土日もなんだかんだで予定が入ることが多いから。
なんてもちろん嘘だ。土日は暇なことの方が多かったけど、必死に汗水流すなんて考えられないだけ。何が楽しいんだか理解できない。
周囲の人を見てると、ときどきふっと不安になることがある。同期の子だけじゃない。絵を描くことに夢中になってるいろはや、大学に入り直してまで勉強をしたいっていう悟もそう。みんな、必死に何かに夢中になってる。やりたいことをやって。でも私にはそういうものがない。怒られない程度に手を抜きながらルーチンワークをこなして、自活できるくらいのお給料をもらって、目的意識もなく気ままに時間を消費して。私が夢中なことっていったら、せいぜい猫グッズを集めることぐらい。って、なんの労力もいらないし。
帰宅した。今日は帰りに悟に会えなくてとっても残念。三階に上がると、いろはが部屋でしゃべっているのがドア越しに聞こえた。珍しい。電話でもしてるのかな。ま、詮索する気はない。そのまま自分の部屋に入って電気をつけた。
たくさんの猫が私を迎えてくれる。
いろはみたいに、キャラクターグッズが好きだっていうわけじゃない。特にひいきしてる猫キャラがあるわけでもない。もちろん、語尾に「にゃん」とかつける趣味もない。
なのに私は、目につくと猫グッズを買ってしまう。
いつからかは覚えてないけど、多分、一線を越えたのは、お金が自由になる社会人になってから。猫柄のポーチ、猫がプリントされたシャープペンシル、猫が刺繍されたお財布、猫のマスコット。部屋のラグもカーテンも、もちろん猫のシルエットがプリントされたもの。猫ならなんでもいい。三毛猫でも、黒猫でも、ペルシャ猫でも。私の持ち物の九割といっても過言じゃないくらいに猫がいた。部屋の中は猫だらけ。
そして、最近ではそれらの猫グッズを見るたびに、猫みたいなつれない目をした悟を私は思い出す。部屋の中に悟がどんどん増殖してくみたいで、それはそれでちょっと落ち着かない。本物の悟は、同じハウスの一つ下の階、こんなに近くにいるのに。
なんて考える私は思い知らされる。悟は近くにいるけど、私には遠い存在なんだって。猫と同じ。
悟は帰ってきてるかな。一つ下の部屋が悟の部屋。ついつい耳をそば立てちゃうけど、聞こえるわけなんてないって思い直してテレビをつけた。
ニュース番組。殺人事件のニュースだ。今日も誰かが殺された。
ニュースを読み上げるアナウンサーの声がなんだか遠い。聞き覚えのある駅名のような気もするけど、自分とは関係のない誰かが殺されたってニュースなんてどうでもいいやって結局すぐにテレビを消した。ベッドにごろっと横になる。
このベッドの下には悟の部屋があって、なんてやっぱりぼんやり考える。がんばることを面倒だって思う私が、こんなにがんばってるのに。私は悟には触れられないのかもしれないだなんて、考えたくもない。
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