2-2

「近くに猫カフェができたんだって。今日の帰りとかどう?」

 お昼休み。いつもみたいに、同期の女子で食堂の六人がけのテーブルを占拠してた。今ならオープン記念でドリンク半額なんだって、とかそのうちの一人が話し続け、私の方を見た。

「泉美、猫好きでしょ?」

 この世で一番好きなものを訊かれたら、コンマ一秒の迷いなく猫と答える。

 なんで好きなのかわからないくらい、私は猫が好きだ。Likeじゃない、これはれっきとしたLoveだ。私は猫を愛してる。愛くるしいピンと立った耳が、くりっと動くのにつれない丸い目が、ふわりとした毛並みが、とか、そういう細かいことじゃない。うまく表現できないけど、私は“猫”という存在そのものを愛してる。母がキティちゃん好きだっていうのも影響してるかもしれないけど、私はキティちゃんに限らず猫が好きで、きっかけはもはや自分でも謎。猫っていう生き物がこの世の中に存在してる。その事実だけで私は心満たされ、幸福感でいっぱいになれるのだった――

 が。

 なんの悪意もないその同期の言葉に、表情が固まりかけた。あー、その。強張りそうになる頬の筋肉に意識をやりつつ、へらっと笑う。

「ごめん、今日は帰りに用があって」

「もしかしてデート?」

「まさかぁ」

 もし、これが悟とデートだったらどうだろう。……やっぱり、みんなには黙ってるかも。

 みんなでからからと笑い、話題は猫カフェからすぐに逸れた。内心ため息をつきつつ熱いお茶をすすった。



 猫カフェへ向かう同期一向を見送って帰宅した。玄関のドアを開けようとして、ガラス越しに廊下の明かりがついていることに気がつく。冷たいドアノブに手をかけたまま動きを止め、静かに深呼吸して気持ちのスイッチを切り替えてから、勢いよくそれを回した。

「ただいまー」

 疲れなど感じさせない、これから一日が始まりますってくらいの明るさでハウスに入る。

 ――思ったとおり。

 廊下のすみで、悟が束ねた雑誌や書類を整理してた。中腰のまま、おかえり、とこちらに顔を向けてくれる。

 後ろ手にドアを閉め、寒いねー、と両手をこすり合わせた。パンプスを脱ぎ、ストッキングの足でスリッパを履いた。悟は雑誌類を束ねるビニール紐の結び目をきゅっと固く結び、軽く持ち上げて崩れないことを確認してた。それはもちろんファッション雑誌やマンガ雑誌なんかじゃなくて、また書類の方も何かの論文のコピーだか課題だかのようで、漢字の多いタイトルと細かな文字で埋め尽くされてるのが見えた。

「それ、全部読んだの?」

 そうだけど、と悟はなんでもない風に答える。すごいね、とか思ったままに口にしてしちゃってから、あんまりいい答えじゃなかったって反省した。私、バカみたいじゃない。まぁ、悟に比べたらそりゃバカもいいところだけど。

 悟が束ねている書類の束を見てたら、とある単語が目に飛び込んできた。

『アレルギー』

「どうかした?」

 悟の言葉にはっとする。

「なんでもない」

 整理を終えた悟に続いてダイニングに向かった。ダイニングは暖房がきいていて、寒さで強張ってた体の表面がにわかに弛緩する。

 と、ダイニングとひと続きになってるリビングに目がいった。こちらに背を向けたソファの肘置きから、裸足の細い足がはみ出てぶらぶらしてた。悟は何も気にした様子もなく、そのままダイニングを突っ切って反対側のドアから出ていってしまった。はぁ、と今度こそため息が漏れた。そのままつかつかとソファに近づき、上から覗き込んだ。誰かはわかってる。

「まぁた、こんなところで女子力下げてる」

 ソファに仰向けでごろんと寝転がったいろはは、テストで0点を取ったことがママにばれたのび太くんみたいな顔をした。その髪は触れたら手が湿りそうなくらい濡れてて、束になって首に張りついてる。合皮のソファに染みができちゃわないか心配になる。

 いろはは、本当に何も気にしない。私にだけじゃない、世の中の女子の大半が気にしてるであろう化粧とかおしゃれとか、そういうものに微塵も関心を示さない。それがときどき、無性にイラッとすることがある。

 別に、いろはが悪い子じゃないってことはわかってる。彼女にとっては、私が絵を描くことに興味がないのと、同じようなものなんだとも頭では理解できてる。とはいえ、それでもやっぱり、彼女は性別上は女なわけで。こんなところでこんな風に無防備に横になってて、しかも素足をぶらぶらさせてて、悟が変な気を起こしたらどうしてくれるんだ。なんて、まぁ無用な心配だろうけどさ。

 まったくいろはは。呆れるけど、でも憎めないのは彼女のキャラゆえなのか。ちょっとズルい気がしないでもない。と、いろははむっくりと起き上がった。なんだか少し、元気がない。部屋に戻るね、と立ち上がって私に背を向ける。

「髪の毛はちゃんと乾かしなよー」

 はーい、と言っていろはがダイニングを出ていった。と、廊下で何やら話し声がして、少ししたら悟が再びダイニングに現れた。コートを着てる。

「今から出かけるの?」

 あぁ、と気のない返事があった。

「学会発表の準備を手伝うことになってて」

「そっか、がんばってね」

 悟はそそくさと出かけていった。もう少しかける言葉があったかな。夜道に気をつけてね、とか? 寒い中ご苦労さま、とか? ……なんか違う。

 悟が相手だと、私の持ってる常識とか価値観とかそういうの、まったく通用する気がしない。上っ面だけの言葉になんて、なんの意味もない。いつだって、正解なんてわからない。

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