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今ではシェアハウスというのもだいぶ一般的になってきたと思うけど、ハウスによってルールはそれぞれ。特に、食事や掃除などに関してはそうみたい。シェアハウスに住むと決めたとき、食事は各自好きに作る感じだろうと予想してた。だから、考えてもみなかったのだ。毎朝みんなで、こんな風に食卓を囲むことになるなんて。
ダイニングでは、いつもいろはが朝食の準備をしてくれてる。いろはは誰が頼んでもないのに自らやらせてくれと志願して、毎朝みんなの朝食を作る。和食がいいのか洋食がいいのか、ちゃんと好みを聞いてそれを守って。半年前まで一人暮らしで、朝食を抜くことの方が多かった私としてはありがたい反面、ちゃんと起きないといけないのでプレッシャーもある。けど、悪いことじゃない。
身支度を調えてダイニングに到着すると、おはよう、とコンビニマスターの異名を持つアルバイターのマスミに声をかけられた。おはよう、と返したけど少しおざなりな感じになってしまった。今朝は悟がいなくて、あいさつにも張り合いが出ない。
悟は昨日の夜に出かけていったきり、まだ帰ってないみたいだった。いろはもそのことは承知していたのか、悟の分の朝食は用意していない。もっとも、悟の朝食は常にシリアルなので大した手間はかからないけど。
ちょっと、面白くない。
いろはがそのことを承知してるのもそうだ。悟は今、誰とどこにいるんだろう。理系の学科でも、女っているのかな。大学二年生なら、二十歳くらい? 自分の年齢を考えてうんざりする。四捨五入してハタチのうちはまだ若いって胸を張れたのに。二十五歳って、なんかどっちつかずだ。アラサーなんて単語がちらつき始めて寒気がする。
みなの朝食を準備し終えたいろはは、椅子に座ると朝食に手をつけることもしないで、頬杖をついたままぼうっと壁の一点を見つめてた。壁に染みでもあるんだろうか。なんて思ってたら、マスミがいろはの眼前でぱたぱたと手を振った。
「いろはちゃん、いろはちゃん?」
はっとしたようにいろはは顔を上げ、あははっと笑った。何事もなかったようにグラスに手を伸ばして、ぐびぐびと牛乳を飲み干した。三十歳手前にして隠居生活のような日々を送ってるいろはでも、悩みはあるのかもしれない。そりゃそうだ、人間だもの。
今は空っぽの悟の席に目が行った。意中の相手と一つ屋根の下で、毎朝一緒に朝食を食べてるなんて、この状況の方が普通じゃないのはわかってるけどさ。なんか、朝から損したような気分。
うーん。思わずうなってしまい、マスミが窺うようにこちらを見た。なんでもない、とトーストを一口かじる。この状況は、なんだか悔しい。どうして一人で勝手に振り回されてるんだろう。なんて、思いたくもなる。
そんなことを考えてたら、座ってるのにくらっとした。体が考えることを拒否しているのかも。今までの人生、何かについてじっくりと考えたことなんてなかった気がする。慣れないことするもんじゃないってこと?
脳みそくらい、ちょっとはがんばればいいのに。
同期の子たちは猫カフェにはまったようで、今日までドリンクが安いから、と二日続けてアフターファイブを猫カフェで過ごすらしい。なんだかんだで理由をつけてそれをまた断って、近所のカフェでカレーライスを食べてから帰宅した。
玄関のドアを開けてダイニングを突っ切ると、シチューの匂いが漂っていた。キッチンのコンロに大鍋が置いてある。コンロに鍋を出しっぱなしにするのは、みなさん好きにお食べください、というサインだ。シチューがあるなら外で食べてくるんじゃなかった。朝に引き続いて、また損した気分。
リビングのソファの向こうにいろはがいた。シチューを作ったのはいろはだろう。ラグの上にペタンと座り込んでる。毛玉の浮いたチェックのシャツにくたびれたジーパンと、あいかわらず野暮ったい格好でげんなりする。アヒル座りをした足の裏がこっちに向いてて、黒い靴下の踵は少し肌色が透けてた。あれはもうすぐ穴が開くな。
「ただいま」
声をかけたけど、いろはは気づかなかったのか、そのままテーブルに向かってる。何かを描いてるみたいだと気づいた。いろはが絵を描いてるところは、そういえば見たことがなかったかも。それに、こんなに集中してるいろは初めて見た。これ以上声をかけるだけ無駄だしそんなに興味はないので、私は自室に戻ることにした。
いろはは、少し前までは会社勤めをしていたと聞いた。IT系の企業で、いわゆるSEをやってたんだという。話を聞いた限りでは、残業もそこそこして、男性と遜色なく働いてたようだった。なのに、今は一切働かず、このハウスで朝ごはんを作り、絵を描くことしかしていない。
私がこのハウスに来てまだ一ヶ月も経っていない頃、絵を見せてよ、といろはに声をかけたことがあった。私の周囲には中学も高校も大学も絵を描くような人間は一人もいなくて、おしゃれと男にしか興味がない女の子ばかりだった。単純に、いろはのような人種が珍しかった、ただそれだけだったのに。いろはは露骨にイヤーな顔をした。別に私もどうしても見たかったわけじゃない。それ以上、いろはにお願いする気はすぐに失せた。ただ、内心ちょっとムッとしたのだけは覚えてる。
好きでやってるんだから、見せてくれたっていいじゃない。
三階に上がった。いろはの部屋は私の部屋の真向かいだ。いろはの部屋のドア越しに、微かに人の声や音楽が聴こえてきた。テレビをつけっぱなしにしてるんだろう。まったく、しょーがないったらありゃしない。
この数日、いろはが部屋にこもってることが増えたような気がしてた。部屋に食事を持ち込んでいるのも何度か見かけた。いろはの声もドア越しによく聞こえたし、電話でもしてるのかなって思ってたんだけど。
唐突に頭の中に浮かんだ考えに、憎悪にも近い感情がふつふつと湧き上がった。
自室のドアの鍵を開け、ノブを握ったまま頭を振る。想像が飛躍しすぎだ。ばかばかしい。
いろはが、猫を飼ってるかもなんて。
ドアの脇にあるスイッチに手を伸ばした。部屋が明るくなって、猫柄のカーテンや、ラグや、机の上に置かれた猫グッズが私を見つめてくる。
私を殺すことのない、愛しの猫たち。
風呂上がりにダイニングに寄った。リビングでは、数時間前に見たままの姿勢でいろはが絵を描き続けてた。殺気にも似た集中力がビシビシと伝わってきて、寒気のようなものすら覚える。何を描いてるのか少し気になったけど、先ほどの反応を思い出し、声をかける気にはならなかった。
悟は部屋にいるはずだった。が、降りてくる気配はない。洗い物のトレーにスープ皿が置いてあったので、早々にシチューを食べて部屋にこもったのだろう。研究室で夜通し何かをやってたなら、疲れてるのかもしれない。ここで待ってても今日は会えないかな、と思っていたら、玄関のドアが開く音がした。
もしかして悟は出かけてて戻ってきたんじゃないか、って期待に腰を浮かしかけたけど、現れたのはマスミだった。寒かったのか、頬が子どもみたいに赤くなってる。ただいまー、となんとも気の抜けた声で言って、マスミは私の斜向かいに座った。寒かったよぉ、とその華奢な両手をこすり合わせてる。手は見るからに乾燥してて、ハンドクリームを塗ってあげたい衝動に駆られた。時刻は午後十時半過ぎだった。
「夜のコンビニはこれからじゃないの?」
マスミは椅子に座ったままモッズコートを脱いだ。束ねた長い髪が肩に乗っかってふわりとする。
「深夜シフトは入れないことにしてるの」
「コンビニマスターなら、深夜にバイトしてなんぼじゃないの?」
私の言葉に、マスミはカラカラ笑った。
「夜って眠くなっちゃうし、規則正しい生活できなくなっちゃうじゃん?」
「コンビニのバイトを三つもかけ持ちしてる時点で、そういうの難しいと思うんだけど」
「そうかなぁ?」
電気ケトルでお湯を沸かし、マスミにお茶を淹れてやった。
「ありがとー、泉美ちゃん大好き!」
マスミは大袈裟に喜んでマグカップを受け取る。
ふわふわしてて掴みどころがない感じがするけど、マスミのことは嫌いじゃなかった。人懐っこい丸い目と丸い鼻は犬っぽいので、私好みの顔じゃ全然ないけど。コンビニのバイトを三つもやってるのに、コンビニを愛してるって感じもなくて、ただなんとなくやれるのがコンビニのバイトだから、といった態なのが好印象だった。安心する。何かに夢中な悟やいろはのような人間と接してると、自分がダメな人間みたいに思えてしまうことがたまにある。ときに彼らは眩しすぎて、正面から見つめるのが難しい。
「あ、いろはちゃんそんなところにいたの?」
マスミがくるりと椅子の上で体を反転させ、リビングのいろはに声をかけた。が、いろははやっぱりチラリともこちらを見ようとしない。
「いろはちゃんどうしたの?」
不思議そうに私に訊いてくるマスミに、今日はずっとあぁだから声かけても無駄だよ、と教えてやった。何それー、とマスミは眉根を寄せてお茶をすする。
マスミといろはは仲がいい。私が感じるひけ目みたいなものを感じること、マスミにはないんだろう。そう考えると、マスミに勝手に親近感なんて抱くの、バカバカしいことなのかもしれない。
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