2-4
ダイニングに降りると、二日ぶりに全員が揃った。
いろはがいつもどおり朝食の準備を進めてる。悟はもう席に着いてた。おはよう、と努めて明るく声をかけ、悟の向かいに座る。おはよう、と悟からはいつもどおりの落ち着いたあいさつがあって、それを聞くと色々ごちゃごちゃ考えることがあっても、まぁ悪くないかな、って思うのだった。何が、というわけじゃない。色んなことが、よくも悪くも中和される感じ。
いろははいつになくてきぱきと働いてた。昨晩、私とマスミがそれぞれの部屋に引き上げたときも、リビングに残って絵を描いてたっていうのに。何かに取り憑かれたみたいに、一心不乱に絵を描いてて、翌日もこんなに元気でいられるもんなのかなって思ってたら案の定、その目元には濃いくまができてる。今さらながら気づいたけど、寝間着のジャージのままだし。
「なんかひどい顔してない? っていうかそれ寝間着?」
声をかけたが、いろはは特に答えず、かちゃかちゃとヨーグルトやらみそ汁やらを慌ただしくテーブルに並べてた。危なっかしい手つき。
大丈夫かな、と思った矢先だった。とっさに手が伸びた自分自身に驚いた。傾いたみそ汁のお椀を、私の手はギリギリのところで押さえてた。セーフ。
「なんか、急いでるの?」
いろはがはっとしたように顔を上げた。
「ごめん、なんでもない」
なんて、なんでないわけがない疲れた顔でいろはは席に着き、いただきますの言葉もなしに食パンにがっついた。まるで何日も食事をしてなかった動物のような食べっぷり。悟もマスミも、さすがに普通じゃないって思ったんだろう。いろはを除く三人は、そんないろはの様子をまじまじと観察してしまい、そんな私たちにいろはも気づいて残りの食パンをお皿に戻した。
その。言い訳をするように、いろははおずおずと私たちを見る。
「やることがあって」
「いろはちゃんもバイトでも始めたの?」
マスミの無邪気な質問に、いろはは顔の前で手を振った。
「絵、描いてて」
何それ。考えるよりも先に、噴き出してしまった。私につられるように、マスミと悟も少し笑った。深刻な顔して、何かと思ったら。
「いつもと変わらないじゃない」
あ、ほんとだ。少し呆けたようにそう口にして、いろはも笑んだ。
朝食を食べ終え、私とマスミは一緒にハウスを出た。駅までは同じ道だ。道を急ぐサラリーマンの流れにつられ、私とマスミの歩調も少し早くなる。冬の朝の空気は冷たく、澄んだ感じがする。マフラーから出た頬と鼻の頭が冷たくなって、すぐに感覚を失う。ハウスを出て数分で、マスミも頬を赤くしてた。長い髪を今日は下ろしてる。
横断歩道の赤信号に捕まって、マスミと並んで立ち止まった。
「――いろははさ」
正面を向いたまま、マスミに話しかけた。
「いいよね、なんか。好きなこと好きなだけやっててさ。いつも、自由な感じで」
マスミはわずかに目を見開き、私の顔をじぃっと見つめてた。それから、勢いよく車が往来する大通りに視線を戻す。
「泉美ちゃんがそういうこと言うの、珍しいね」
顔が熱くなった。らしくないこと言ったって自覚と後悔で頭の中がいっぱいになる。
「泉美ちゃんも自由に見えるよ。好きなこと色々やってるじゃん」
走ってた車が減速して、車道の信号が赤になった。歩行者信号がぱっと青に変わる。マスミが先に歩き出した。
踏み出せないでいる私に、数歩先を歩いてたマスミが気づく。
「どうかした?」
なんでもない、と慌ててマスミに並んだ。
……私は、好きなことをやってるんだろうか。
自問自答して、答えはすぐに出た。私は好きなことをやってるんじゃない。好きに生きてるだけだって。
世の中は猫グッズで溢れている。
服でも文具でもアクセサリーでも、猫柄のものは珍しくない。雑貨店なら、猫柄の物は必ずといっていいくらいには置いてある。猫柄のものが一つもないお店の方が、多分、とっても珍しい。
だから、買うものがないなんて事態に陥ったことは一度もない。
会社帰りに、駅に併設しているショッピングモールをうろうろした。猫グッズばかりを集めた専門店がその一角にある。バッグやポーチなどの布製品とアクセサリーが中心だけど、ペンやノートなどの文房具もひととおり揃っている。その店の区画に足を踏み入れると、いらっしゃいませー、となんとも覇気の感じられない低い声をかけられた。いつ見てもやる気があるようには思えない、若いアルバイト店員の顔はすっかり覚えてしまった。
店内には、若い女の子の二人組がいて、それ以外に客はいなかった。見慣れたバッグやポーチが並んでる棚の横に、『New』と手書きのポップが貼られた一角があった。陶器でできたペン立て。側面に、黒い猫のシルエットをかたどった模様があった。表面はつるつるしてて、ひんやりとした触り心地は悪くない。これは部屋じゃなくて、職場のデスクに置いたらいいかもしれない。
――泉美の猫好きはハンパないよねぇ。
同期の女の子の声が頭の中でリフレインした。いつのことだっけ。仕事帰りにお茶をする約束をしてて、私の席まで迎えに来てくれた彼女の声は、思いのほかフロアに響き渡った。私の机上のペンや付せん紙やノートを珍しそうに次々と手に取って、これも猫、これも猫、これもこれも猫って。そして、それらと比べるように私を見た。
――前世は猫だったんじゃない?
デリカシーが欠けた子だと思った。そんなばかばかしいセリフ、大声で言わないでほしかった。私はただ、私はただ――
ありがとうございまーす、とやる気のない店員のセリフで、ペン立てをレジ台に置いている自分に気がついた。
……くらくらする。
暗い地下の迷路から出られなくなってる誰かに、絶対にその誰かは見ることができない明るい外の世界の写真を、強制的に何枚も何枚も見せる光景が思い浮かんだ。私が自分自身に対してやっていることは、それと大差ないことなのかもしれない。
くらくらする。
頭痛がした。店を出て、電車に乗って、最寄り駅に着いても一向に良くならない。駅前のコンビニで、電子レンジでチンすれば食べられるうどんを買った。マスミが働いてるはずのコンビニだったけど、マスミの姿はなかった。愛想のない、大柄な熊みたいな店員がのろのろとレジを打って訊いてくる。
「温めますか?」
結構です、と断って、そそくさと店を出た。見覚えのある店員だった。この店に何度も来てるからかもしれないけど。なんとなく、ヤな感じ。
帰宅してダイニングを覗くと誰もいなくて、特に悟の姿がないことには心底がっかりした。悟の顔を見られれば、頭痛が少しは良くなるかもって思ったのに。さっさとごはんを食べて寝よう、とコートを脱ぐこともしないで買ったうどんを電子レンジにかける。
誰もいなくても、リビングダイニングは暖房がきいていて、冷え切った体の表面がぽかぽかしてきた。頭痛も少し和らいだ。マフラーとコートを脱いで、バッグと一緒に自室に置いてこようとダイニングを出かけたが、いろはのことをふいに思い出してリビングを覗いた。
ソファで眠ってるんじゃないかと思ったけど、さすがに今日はいなかった。
おかえりー、とかけられた声の方を見た。いつの間にか、マスミがダイニングに立っていた。
「いろはちゃん、夕方くらいまでずっとそこで絵を描いてたみたい」
「あぁ、そう」
答えたら、なんだか頭痛がぶり返してきたような感じがした。訳知り顔のマスミに、なぜか苛立った。
「仲が良いんだね」
口にしてしちゃってから、自分は何を言ってるんだって思ったけど、マスミは特に気にした様子もなかった。寒くてやんなっちゃうねー、というセリフとは裏腹ににこにこしてる。刹那の苛立ちは萎んでカスみたいになった。そうだね、と素っ気なく返してダイニングを出た。電子レンジがピー、ピー、と遠くで鳴るのが聞こえる。
三階に上るだけでもくらくらした。ベッドの上にコートとバッグを放り投げてすぐに廊下に戻り、足早に階段をくだる。立ち止まってしまったら、二度と動けなくなってしまうような気がした。
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