2-5

 昨日の頭痛は精神的なものかと思ってたけど、どうやら風邪だったらしい。と気づいたのはその日の昼前だった。同じ課の同期の子に食堂に行こうと誘われ、立ち上がった瞬間にふらついて椅子に戻った。

 急ぎの仕事もなかったし、午後半休をもらって帰宅することにした。ちょっと前にも風邪っぽくて半休をもらったばかりだったのに。

 平日の昼間。予想外に電車は空いてなくて、座ることはできなかった。平日の昼間でも、街にはこんなに人がいるんだってことに驚いてしまう。営業途中のサラリーマンと思しき姿もあったけど、それ以外の人種が思っていた以上に多い。現役を引退した初老の男女、専業主婦っぽい女性、大学生と思しき男子の集団。会社勤めをしてると、時々忘れそうになる。世の中には、会社勤めをしてない人間もたくさんいるっていうことを。会社だけが世の中じゃない。特に、いろはみたいな人が身近にいると、そのことを強く意識させられる。自分の世界の狭さを思い知らされる。

 最寄り駅に着いた。まっすぐ歩けてる気はするけど、足にあまり力が入らなかった。頭もぽうっとして重たい。熱があるのかもしれない。

 ――泉美さん。

 名前を呼ばれた気がしたけど、まず幻聴だと思った。だけど、今度はすごく近くから声をかけられた。

「泉美さん?」

 信じられない心地で声の主を振り返る。まさかの悟がいた。

「どうしたの?」と訊き返してしまう。思いもかけない悟の登場に、はしゃいでしまいそうな気持ちをぐっと堪えてポーカーフェイスを繕う。

「急に暇になってしまって。泉美さんこそこの時間に珍しいね」

 悟は私の歩調に合わせて並んで歩いてくれた。

「ちょっと体調が悪くて、早退したの」

「大丈夫?」

 端的な言葉なのに。弱ってるせいか、いつもと変わらない何を考えているのかわからない声音なのに、カラカラに乾いてひび割れた湖に垂らした水滴みたいに、一言一言が深く染みた。

 悟とこんなに明るい時間に二人でハウスに帰るのは初めてだった。今さらながら、同じ家に帰るって、なんて素敵なシチュエーションなんだろうってドキドキした。駅からハウスまでは徒歩十五分弱。それまでに何か、親しくなれるきっかけでも掴めればいいのに。

 なんて考えはするものの、体調の方はそれどころじゃなかった。ドキドキしたせいか本格的に体が熱を帯び始めてて、耳の後ろのリンパ腺が痛い。

「本当に大丈夫? 薬局寄って、薬買う?」

 悟が普段以上に優しく思えて仕方ない。誰が見ても心配になるくらい私の体調が良くなさそうだから? なんて、考えるのは卑屈すぎ? でもしょーがないじゃない、下手な期待なんてしたくない。

 気合いを入れた。期待はしないけど、チャンスは活かしたい。風邪ごときでへばっている場合じゃない。二人で――いや、二人きりで歩いてるっていうこの状況を、せめて楽しまなきゃもったいない。病は気からだ。

「全然大丈夫。薬も買い置きがあった気がするし」

 悟は納得しきってない顔だったけど、お互い大人だ。ならいいけど、とそれ以上は言われなかった。

 少しの沈黙。そういえばさ、と空気を変えるように先に口を開いたのは悟だった。

「湊さんのことなんだけど」

 いろはの苗字が出た瞬間、奮い立ってた気力はあっけなく萎み始めた。

「最近、ちょっと様子がおかしい気がするんだ」

 足がふらつきかけてたけど、なんとか踏ん張った。私はがんばる、と心の中で呪文を唱え、会話を続けた。

「おかしいって、どんな? 昨日、夢中で絵を描いてたのとか?」

「それもあるけど。なんか、部屋から話し声がしたり、湊さんが下にいるのに、部屋で何かが動いてる気配があったりする気がして」

 悟も気づいていたんだ。そのこと自体は嬉しくて、萎みかけてた気力は再び活力を得た。

「実は私も、いろはが猫でも飼ってるんじゃないかなって勘ぐってた」

 すぐに、しまったって思った。『猫でも』は言いすぎた。

 後悔したけど、悟は遠くを見つめるような眼に一瞬なって、そうなんだ、と言ったきりすぐに私に視線を戻した。その視線が、何かに気づいたように少し下げられる。彼は私が持っているバッグを見てた。

「泉美さんって、猫、好きだよね」

 金色の猫のチャームがふるふる揺れてた。

「前にも猫のハンカチとかペンとか持ってるの見たし、よほど好きなんだね」

 なんて言葉に、不覚にも目頭が熱くなるくらい感動してしまった。少なくとも。私の存在は、悟の視界には入ってたってことで。

「湊さんが猫飼ってたら、触りたいとか思ってるんじゃない?」

 またしても出てきた『湊さん』には思うところがあったけど、変なことを言っても、と流した。そしたら、言葉が勝手に口からこぼれ出た。

「ダメなの」

「何が?」

「猫、触るの」

 悟は少し考えるような素振りになった。言葉を選ぶような間のあと、グッズはいいけど本物のネコはダメってこと? と訊いてきた。小さく頷いたら、ズキンと頭が痛んだ。

「私、猫アレルギーなんだ」

 かなり重度のアレルギーだった。猫のいる部屋に閉じ込められたら、おそらく一時間と保たないんじゃないかと思う。目が腫れて大量の鼻水が出る重度の花粉症のような症状になって、しまいには呼吸困難に陥る。

 小学生の頃、室内で猫を飼っている友人の家に遊びに行って、冗談抜きに死にかけた。息ができなくて、涙でぼろぼろの視界が徐々に狭くなって、苦しくて苦しくて、死にたくないとか考える余裕すらなかった。

 私の猫アレルギーのことを知ってる人は数えるほどしかいない。教える必要もなかった。同情されるのはイヤだっていうよりも面倒だったし、何より、そんな事実なんてどうでもいいくらい、私は猫を愛してた。

 なのに。

 風邪のせいで判断力が鈍ってたとしか思えない。流されるままついついカミングアウトしちゃったことが、吉と出るか凶と出るか、まったく予想できない。

「……あぁ」

 おそるおそる様子を窺ってると、悟は何かに納得したみたいに頷いた。

「そっか」

 その言葉は、思いもかけず柔らかく響いた。

「好きなのに触れないのって、ジレンマだよね」

 私が猫アレルギーだって知ると、大抵の人は同情するか憐れんだ。

 猫好きなのに信じられない。

 残念だね。

 かわいそう。

 ふざけんなって思う。私がかわいそうかどうかは、私自身が決めることなのに。

 だけど、悟の言葉はそれらとは少し違って聞こえた。

「いつか、触れるようにしてあげられたらいいんだけど」

 思わず立ち止まってしまった。気づかずに先を行く悟の背中を見つめる視界が歪みかけて、慌てて飲み込む。

 数歩先で、私が足を止めたことに悟は気がついた。

「どうしたの?」

「いやその……なんでもない」

 首元を覆ったマフラーに、鼻まで埋めて悟の隣に並んだ。

 顔も体も、どこもかしこも熱い。

 自分がどんな顔になってるのかわからなくて、マフラーから顔を上げられない。脈を打ち過ぎた心臓はもはや痛い。鼓動が耳にうるさい。

 私が何度アプローチしたってさらりと流して、その気はないよって言わんばかりにまったく態度を変えないくせに。

 どうしてそんなことさらりと言えちゃうの。

 半歩前を歩く悟の腕が、すぐそばにある。その手が私を待ってるみたいに、誘われてるみたいに揺れていた。ほんの少し。ほんの少しだけ手を伸ばせば、すぐに触れられるのに。

 あ、そうか。悟は何かを思い出したように一人呟いて私を見た。

「知ってると思ってたけど、ちゃんと話したことってないかも」

「……何を?」

 伸ばしかけた手を慌てて引っ込め、ごまかすように返した言葉はマフラー越しにくぐもった。

「僕、アレルギーの研究するんだ、大学で」

 しばし言葉を失った。……知らない。知らない知らない知らない。

「そんなこと、知らなかった」

 そう言っちゃってから、悟が覚えてないだけで、私は思い出した。例のごとく、風呂上がりの悟を捕まえて、大学で何を専攻してるのか訊いたことがあったのだ。免疫学、っていう単語を聞いた記憶はあった。難しそうなことをやってるんだなぁって思っただけで、それ以上話を膨らませることもできなくて話題を変えたんだった。まさかそれがアレルギーのことだなんて。思い返してみれば、悟が捨てようとしてた雑誌や書類の中にも、『アレルギー』って単語があったのに。なんで忘れてたんだ、私は。

 勢い余って手を伸ばさなくてよかったって安堵して、同時にわずかにがっかりはしたものの。悟を初めて身近に感じられた。一つ屋根の下に住んでいて、ほぼ毎朝顔を合わせていて、その動向をいつもいつも、誰よりも気にしてたのに。

 私はこの人のことを、何も知らなかった。

「……その」

 何かを言いたいだけの衝動に駆られて、口を開いた。

「すごくいいと思う」

 悟はいつもにこやかだ。朗らかだ。穏やかだ。けど、たった今見せてくれた、はにかんだような笑みは、そのどれよりも悟の素に近いものに思えた。

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