クロスオーバー×モラトリアム ~シェアハウスの彼ら~
晴海まどか
第1話 未完 ……湊いろは
1-1
――最悪だ。
埃にまみれた消しゴムのカスと、ページを広げたままの画集と、片方しかない靴下と、転がったムーミンのぬいぐるみと、書きかけのスケッチブックで散らかった八畳間の真ん中で、すらっと立った痩身に黒のダッフルコートを羽織った男は、なんていうか、ものすごく自然だった。少しぼさっとした寝癖だかクセっ毛だかわからない黒髪なんて、この雑然とした部屋の雰囲気にすっかり溶け込んでいる。カーテンの隙間から差し込む橙色の夕日がこれまたなんともいい感じに男の影を伸ばしていて、フローリングの床に転がった鉛筆の影と溶け合っていた。
……なぁんてなぁんて。
私がそのとき、そんな悠長なことを考えていたわけがない。これはあくまで、あとから思い返してみたらこんな詩的で趣のある光景だったかもしれない、という仮定の話だ。あくまでご参考だ。
だってだって、帰宅したらあらびっくり、見知らぬ男が私の部屋の真ん中に立っていたんだからそんな余裕があるわけなかろう。抱えていたスケッチブックを足の甲の上に落とした痛みにすら声を上げる間もなかったくらいなので、もちろん逃げられるような間もなかったわけで。腕を掴まれ、今はやりの壁にドンしちゃう少女マンガみたいな感じで壁に押しつけられたわけで。誰か助けてヘルプ・ミー! って悲鳴を上げようにもその大きな手で口を塞がれたわけで。
すーっと血の気が引いてく頭の中で考えた。
何がどうしてこんなことになったんだ。
私は絵を描く。
といっても、絵描きとかアーティストとか名乗るつもりはない。誰かに習ったこともないし、独学と呼べるほど本とか読んで探求したこともない。鉛筆と消しゴムだけを武器に、子どもの落書きに毛が生えた程度のものを、垂れ流すようにスケッチブックに描きつける、そんなレベル。
私は毎朝、シェアハウスで一緒に暮らすみんなのために朝ごはんを作り、みんなを送り出し、そしてお茶の入った水筒とスケッチブックと4Bの鉛筆を持ってハウスを出る。人間様とは思えないくらいのろのろ歩いて、いつもの弁当屋のおばちゃんと「今日もいい天気ですね、冬だし乾燥してますね」なんて毎日毎日どこのご老人の井戸端会議だよっていうような軽くて中身のないおしゃべりをして、一個三〇〇円のその店で一番安いのり弁を買って、多摩川河川敷に向かうのだ。雨が降らない限り、私はほぼ毎日このコースを辿り、そして土手に座ってひたすらスケッチをする。
……なぁんていうと、アーティストっぽくてちょっとはカッコよく聞こえる、かはわからないけど、実態はかなりひどい。十分くらいスケッチブックいっぱいに補助線を書き込んで、三十分くらいぼうっとする。ご老人たちのゲートボールをまじまじと観戦し、手足が冷えてきた頃に立ち上がって、運動がてら少し場所を変える。でもってまた座り込んで、今度は近くに生えている小石でも描いてみようかと視線を足元に向けるけど、これもすぐに飽きて長続きしない。だって別に小石なんて好きでもなんでもないし。小石の輪郭すら描き上がらないまま大の字になって寝転がって、どこまでも青い空に対峙する。冬の空はどこまでも高くて、つんと澄ましていて私をいつだって見くだしている。なんだよこの野郎、とか内心悪態をついていると、おはよう絵描きの姉ちゃん、と陽気な声をかけられ、それが多摩川河川敷で暮らす顔なじみのおっちゃんのものだと理解して手を振って、空腹に気づいて昼どきになったことを悟る。お待ちかね、のり弁の時間がやってきました。こんなに生産性がないというのにどうしてお腹は毎日減るのでしょうか。
と、こんな感じで、ろくにスケッチも仕上がらないまま多摩川でだらだらと過ごし、午後三時を回った頃に帰宅する。
河川敷をあとにして帰路につくとき、私はいつもムーミンパパが羨ましくなる。ムーミンパパっていうのは、日本でも国民的な人気があるフィンランドの童話に出てくる、カバみたいな見た目をした妖精ムーミンの、その名のとおりパパである。昔は冒険家で、今は小説家。だけど彼には締め切りなんてものは存在せず、だらだらと気が向いたときに自伝を書いているだけなのだった。誰にも成果物を求められたりしないなんて素敵すぎる。ムーミンパパだけじゃない。誰も彼もがのんびりと緩やかにまったりと日常を送るムーミン谷の住人たちが、私は羨ましくてしようがない。
絵を描いていると自称しながら、一日の成果物は描きかけどころか描き始めで終了しているスケッチ数枚というような日々。これでもがんばって生きてるんですよ私も、ええ、自分でもわかってるんです、これ、二十九歳、無職の独身女の生活としちゃありえないってことくらい。まだ余裕はあるけど、過去の自分が稼いで貯めたお金もいつか底を尽くってことも痛いほどわかってる。
でも、今はまだ、動くには何かが足りない。
……と、そろそろここらで話を戻そう。今はまぁ、私のどうしようもない毎日とか人生の話はおいておいて。
いつもみたいにスケッチブック片手に、そういう風にのんべんだらりとハウスを出て、何も生産しないで帰ってきて。
知らない男が部屋にいたわけだ。
だんっと壁に追いやられて後頭部で星が散った。そういえば部屋の鍵をかけて出た記憶がないな、なんて思う間もなく口を塞がれて呼吸が止まった。私の口を押さえつける男の手は分厚くて大きくて苦い。絶対手とか洗ってないに違いない。勘弁してよって思いつつ、両手で抵抗したけどびくともしなかった。大人の男の腕だ。不健康モラトリアム二十九歳の三十路リーチ女のなまっちろい細腕でかなうわけがない。
息苦しいし、打ちつけたのも相まって後頭部が変な熱を持ち始めた。……これは、自分で思ってる以上に生命の危機ってヤツなのかもしれない。私の口を塞ぐ男の顔は逆光でまったく見えなかった。影の中で、大きな目がぎょろっと動いて私を見すえる。血の気が引きすぎてパニックを通り越し、なんだか状況を冷静に捉えている自分に気がつく。このぼさぼさした頭の男に強姦とかされてナイフでぐさっと刺されて死ぬのかもしれない。結構、冗談抜きに。人生なんてあっけないものよ。
「……静かに」
男の声は予想外に若かった。穏やかなようで有無を言わさぬ鋭さのようなものを感じさせるその声を聞いた瞬間、混乱で思考が麻痺してただけだって気づかされた。今さらながら、心臓も血管も思考も全身のすべてが凍りついた。
――あぁ、なんか。私の人生ってなんだったんだろう。
固まっていた体に穴が開いたように、ぷすぷすと何かが抜ける音が聞こえたような気がした。膝からがくんと力が抜け、ずるずると壁に沿って座り込む。呆然って感じで男を見上げる。気がつけば、男の手は私の口から外れていた。
「悪い……大丈夫?」
急に物言いを軟化させ、ぴょんっとジャンプするように男は私の正面にしゃがむと、顔を覗き込んできた。くっきりとした眉と見開いたように大きな目、目鼻立ちのはっきりとした顔。二十代後半くらい――年、近いのかもしれない。
「俺、前世でスパイだったから、こういうの、ちょっと慣れてるんだよね」
……何言ってるんだ、こいつはこの状況で。
男はもう一歩前に出た。ホントに大丈夫? なんて通りすがりの親切な人みたいに、私を気遣うように訊いてくる。
「大……丈夫なわけ、ない」
やめときゃいいのに、私はこういうとき、無駄に正直なのだった。言ってから思う。あ、殺されるかも。
でも。
――あはっ。
男はなんともこの場に不似合いな、短く陽気な声を立てた。
「そりゃそーだな」
ひょいっと立ち上がり、男は開いたままだったドアを音を立てずに閉めた。油断した。これで完全な密室のできあがりじゃないか。退路をみすみす封じられるなんて、あぁもう私のぼんくら。閉められたドアを恨めしく思いながら男を見つめる。
「ごめんね、なんか色々」
男は口調だけは殊勝な感じで謝ると、部屋の明かりをつけた。蛍光灯の白い光になんだかますます現実感が遠のいてく。だが逆に男の輪郭ははっきりとして、その存在を狭い部屋の中でますます主張した。
男は再び私の前にしゃがみ込むと、消しゴムのカスなど気にした様子もなくその場であぐらをかいて笑んだ。二カッと口角を上げて、そう、ハロウィンのおばけカボチャ、ジャック・オ・ランタンみたいに。
無駄にフランクでにこやかな男の様子に、生命の危機、みたいなものは遠ざかったような気がしたけど。油断しちゃダメだ、と脱力して体も頭も働かない自分に喝を入れる。油断禁物。
「頼みがあるんだ」
ぽんっと唐突に肩を叩かれ、ひっと声を上げた途端に再び口を塞がれ、ふがっとまぬけな声が出た。ほらやっぱり、油断なんてできない。
「だから、静かにしてって。黙って聞いてくれる?」
男の声は穏やかなのに、その圧力たるや半端なかった。コクコクと頷いた。
「よろしい」
男はすぐに手を離してくれた。呪文のように心の中でくり返す。油断しちゃダメだ油断しちゃダメだ油断しちゃダメ……。
「この部屋に住まわせてほしいんだ」
思考が停止した。傷ついたCDみたいに、ダメダメダメダメって単語が脳内でくり返される。
ちょっと、意味がわからない。
眉間にしわを寄せていたら男は大きく笑みを浮かべた。ジャック・オ・ランタン・スマイル。
「もう一度だけ言おう。俺は、この部屋に、住む」
希望ではなく断言に変わった。
……待て待て待て待て。
何言ってんだ、こいつは。住む? どこに? この部屋に? この部屋って、この私の部屋に?
と、考えていたら名案が浮かんだ。
「なら、管理会社に問い合わせてみてはいかがでしょうか?」
そう、ここはシェアハウス。なんてまっとうな意見なんだろう。私だって考えられるときは考えられる。
「二階の部屋、余ってますよ?」
男はにこやかに顔の前で手を振った。いやいやいやいや。
「この家に住みたいんじゃなくて、この部屋に住みたいんだ」
再び沈黙。
「……あの」
なんとか口を開いた。あの? と男はスマイリーにオウム返ししてくる。
「私をこの部屋に監禁したりすると、ほかのハウスメイトに気がつかれちゃうと思うんですが……」
「いやだから」
男は私のセリフを遮って、困ったなーと言うように半笑いを浮かべつつ後頭部をかく。
「君は普通に生活しててくれていいんだよ。今までどおり、何にも変わらず、あくまで普通にね。ただ、この部屋に俺を置いてくれればいいんだ。泊めてほしいんだ、この部屋に。意味わかる?」
わかる? わかるよね? アンダースタン?
身を乗り出してきた男にぶんぶんと首を振る。何をわかれっていうんだ。
引いていた血の気が戻ってきた。頭も回り出す。少なくとも殺されることはないだろう。この調子なら少し強気に出て、思いきって部屋を飛び出て警察に駆け込んでみるのはどうだろう。住居不法侵入とかで逮捕してもらえるんじゃないかしらん、とか浅はかに考えていたら。
目の前に、親指の爪くらいのサイズの、黒くて薄っぺらい四角いものを差し出された。
「これ、そこのカメラに入ってたヤツね」
マイクロSDカード。
男は、小さな机の上に出しっぱなしにしていた、デジタル一眼レフカメラをあごでしゃくった。
「俺はこのSDカードを預かることにする。するとどうだろう、君は残念ながら警察には連絡できなくなるんじゃないかな? でしょ? そうだよね? 残念だねー。でもほらその代わりにさ、俺がここに泊まってあげようっていうわけなんだよ。ほうら、一石二鳥じゃん?」
何言ってるか全然わからないし、おまけに一石二鳥の使い方間違ってるから、多分。
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