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 午後六時過ぎ。外は日が暮れ、すっかり夜の装いになっていた。ダイニングの外、電気をつけていない廊下は暗く、窓から外灯の白い光が漏れ入っていた。

 玄関の方で音がして、足音が近づいてくる。ダイニングのドアが開いたと思った瞬間、 ダイニングテーブルに頬杖ついてぼうっとしてた私は、後ろからもふっとしたコートの腕にハグされた。

「ただいまー、いろはちゃん」

 だぼっとしたカーキ色のモッズコート。マスミンだ。

 おかえり、とその腕の中で答えつつ、巻きついた腕を外して振り返る。マスミンの茶色くてフワフワした長い髪が私の鼻先に触れ、少しくすぐったい。マスミンはじゃれついてくる犬みたいであいかわらずかわいい。

 マスミンは持っていたコンビニの袋をテーブルの上に置いた。

「賞味期限切れのお弁当、もらってきちゃった♪」

 マスミンは歌うみたいに明るくしゃべりながらコートを脱ぐ。袋の中には、幕の内弁当が二つ重ねてあった。

「いろはちゃんも食べる?」

 私はさっきごはん食べたから、と断りかけたが、思い直して頷いた。お買い上げありがとうございましたー、とお得意のコンビニスマイルでマスミンが弁当を一つ差し出してくれる。

 マスミンは線が細くて肌も白くて、遠目に見ると外国の女の人みたいだった。髪もふんわり柔らかくて茶色いし。それでいて、くりんとした丸い目と鼻は子犬のようで、愛嬌もある。マスミンのかわいさを嫉妬抜きに許容できるのは、マスミンが年下だからかもしれない。三十路リーチの私と比べたらそりゃーねー。

 脱いだコートを椅子にかけ、マスミンはシンクで念入りに手を洗っていた。ハンドソープをきちんと泡立てて手の甲、手首の方まで。手を洗わないとさとるくんに怒られるから、だそうだ。マスミンに限らず、このハウスの人たちは悟くんの教育の甲斐あってみんな手洗いうがいが習慣化している。インフルエンザの季節には悪いことじゃない。もちろん、社会的な引きこもりの私が予防接種なんて打ってるわけないし。

「インスタントスープもあるけど、いろはちゃんも飲む? わかめスープと、コーンスープと……」

 弁当を手にしたまま、あーその、と言葉を探す。

「ごめん、今日は部屋で食べる」

「えー、さびしい」

 マスミンはぶぅとむくれて唇を突き出す。美人さんが台無し。

「仮にも二十五才なんだからその顔はやめなさい」

「でもー」

 予想外にマスミンは喰い下がる。聞きわけのない子どもみたいで、こんなときばっかり大人モードになってしまう私は苦笑を浮かべる。

「その……あれだよ。私、あんまり体調よくないんだ」

「そうなの? 大丈夫? あ、そもそも賞味期限切れのものなんて食べて平気?」

 途端に心配そうな表情になったマスミンにちくりと罪悪感を覚える。

 けど、ここで正直にゲロるわけにもいかない。ほんとはゲロゲロして助けてマスミンって泣きつきたいけど。

「大丈夫大丈夫、胃は丈夫だから」

 ありがと、とマスミンに笑顔を向け、共用スペースであるダイニングから廊下に出ようとした。いろはちゃん! とマスミンが思い出したように駆け寄ってきて、私の手に小さな何かを握らせた。

「これもお土産。ペットボトルのおまけの残り」

 薄水色の、ムーミンのフィギュアだった。

 もう一度礼を言って、階段を上った。階段の板が、私の体重を受け止めてぎしりと軋む。ぎゅっと左手でムーミンのフィギュアを握りつつ、右手のお弁当に意識をやる。マスミンがお弁当を持ってきてくれて助かった。の夕飯をどうしようか迷っていたところだ。

 ハウスは三階建てで、二階と三階が居住スペースでそれぞれに三部屋ずつある。二階が男性、三階が女性という感じの部屋割りになっている。まだ帰宅してない残りの住人は二人だ。

 三階の廊下の電気もつけず、弁当片手に自室のドアを開けた。

「おかえりー」

 あいつは――もとい、俺のことは親しみを込めてレイって呼んでくれ、と名乗ったその男、レイは私の座イスにふんぞり返り、呑気にボリボリせんべいなどかじりながらテレビを見ていた。なんか、とってもとっても悔しい。ここはお前の家じゃないんだぞ。くつろぐな! 姿勢を正せ!

「これ、夕飯」

 幕の内弁当を差し出してやると、レイはせんべいをくわえたまま立ち上がった。

「ひゃひぃひゃひょう!」

 きっと「ありがとう」だろうな。

「カスが散るからせんべい食べるかしゃべるかどっちかにして。あと、マスミンに聞こえたらイヤだから、どっちかといえば黙ってもらえるとありがたいんだけど」

 レイに座イスを譲ってしまったので、私はベッドに腰かけるしかない。八畳あるとはいえ、ベッドとテレビ台と机があるのでそんなに広くない。二人いると窮屈だし息苦しい。

「この弁当、どうしたの? もしかして、俺のためにわざわざ買ってくれたの?」

「もらった。コンビニの賞味期限切れのヤツだけど」

「下でしゃべってた人?」

 手のひらの中にある小さなムーミンをギュッと握りしめる。レイには見せてやるもんかって気になる。

 どんな人? なぜかレイは興味津々で身を乗り出してくる。

「コンビニでバイトしてるマスミン」

「マス……?」

小倉おぐら真澄ますみでマスミン」

 へぇ。レイは感心したように弁当と私の手元を見比べた。

「何持ってんの?」

「……関係ないじゃん」

「盗聴器だったら困るんだけど」

「私のことなんだと思ってるわけ?」

 渋々、握っていた手のひらを開いた。きょとんとした表情のムーミンがレイを見つめる。

「ムーミン、好きなの?」

「好きで悪い?」

「いろはは、スナフキンのなり損ないって感じがするね」

 余計なお世話だ。

「あと、呼び捨てにしないでください」

 親近感抱かせようなんて策略の一つだったら、ハマってやるもんかと思った。

 ふーん、なんて言って、レイの視線はムーミンから逸れた。

「ムーミンもらえるくらいには、仲いいんだ」

 まぁね、と足を組み直した。黙っているよりはしゃべってる方が気まずくなくていいので、私の口は動き続ける。

「悪くないよ、シェアハウス。家賃安いし」

 だから住みたいなら自分で部屋を借りたらいかがでしょう? って言葉を続けようかと思ったけど飲み込んだ。大人モード発動。

「そういや、いろはは夕飯食べたの?」

「さっきキッチンでパンつまんだから大丈夫」

 レイはせんべいを飲み込み、割り箸をくわえて割った。

「ちゃんと栄養があるもの食べないと大きくなれないよ?」

 箸を手の中でぐるぐるとやりながら、お母さんみたいな口調で諭してくる。

「もう横にしか大きくなる余地がないので心配ご無用です」

「全然かわいげないよね、いろはって。化粧とかしてないでしょ?」

「うるさい!」

 もちろん図星なのでまたしても悔しい。

 自慢じゃないが、今の隠居生活のような状態を始めた時点で、私は『おしゃれ』という概念を捨てた。楽な格好をして、面倒な化粧など一切しないことに決めた。誰の目を気にする必要もなかったし、誰かに文句をつけられる心配もなかった。だったらそれで、別に、いいじゃないか。誰にも迷惑なんてかけてないし何が悪い。

「あと、しつこいようだけど、呼び捨てにするな!」

 草食動物のようにきんぴらごぼうをはむはむと食べるレイから距離を取って、ベッドに座ったまま壁際に移動した。

 少なくとも、こいつが強盗とか強姦とか、そういうことが目的でここに住むって言ったんじゃないのは理解できた。だからこそ、脅されているとはいえ、こちらも大きな態度を取れるわけだけど。

「何が目的なの?」

「当てたら教えてやるよ」

 ふざけんな! レイはヒヒヒっと笑ってポテトサラダを口にした。箸の持ち方がこれまたキレイで、やっぱりムカつく。



 その晩、レイはずっと占領していた座イスを倒した。

「お前の部屋だし、ベッドまで占領する気はねーよ」

 レイは自分のダッフルコートにくるまって横になると、すぐに動かなくなった。そういう風にされると、この不法侵入脅迫男が、なんだか捨て犬みたいに見えなくもなかった。少し考えて、クローゼットから古いブランケットを出してその背中に放った。

 おぉ。レイは半身を起こしてブランケットを広げる。

「何これ、貸してくれんの?」

 すぐに自分の行動を悔いた。脅されてるっていうのに、何お情けかけてるんだ。

「……風邪とかひかれて移されたら困るし」

「意外と優しいのな、いろは」

 反応できずにいたら、すぐにレイはこてんと横になって寝息が聞こえてきた。

 警戒態勢を取っていた自分が、なんだかバカバカしく思えた。……いやいやいや、気を抜く方がもっとバカだ。私、思考とかなんか麻痺しちゃってんじゃないの?

 しばらくごちゃごちゃ考えてたけど、こちらに向けられたレイの背中を見て、静かにベッドに横になった。部屋に無断で入って人を脅迫したくせに、こういうところは紳士なのか。というか、女など捨てたつもりでいた私なのに、そういうことを警戒するっていうのは、やっぱり生物学的に女であり続けるんだなって実感させられたみたいで、にわかに悲しくもなった。疲れたしもう寝てやる! 神経図太いってところ見せつけてやるんだ!

 ――というわけで。

 なんだかよくわからないが、私の部屋に男が居つくことになり、でもって私は不本意ながらも、この状況を許容させられてしまったのだった。

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