1-3

 見ず知らずの、しかも私を脅迫した男が部屋にいるというのに、私は自分自身に宣言したとおり、神経の図太さを発揮していつもどおり熟睡していた。はっとして目を覚ましたときにはすっかり日が上っていて、視線を巡らせるとレイが座イスであぐらをかいてテレビを観ていた。

「おっす」

 おっすじゃねーよ、おっすじゃ。

 時計を見た。七時ちょうど。こんな状況でも私の体内時計は狂っていない。さすが私、スナフキンのなり損ない。

「いろはは、朝ごはんってどうしてんの? シェアハウスだとおのおのご自由にって感じ?」

「朝だけは、一階のダイニングで、みんなで食べてる。っていうか、毎朝私がみんなの分も用意してる」

「え、そうなの?」

 レイは無駄に驚いた顔をした。

「そういうのって、当番制とかじゃないの?」

「ここではそうじゃない。っていうか、私がやるって勝手に立候補したの。お金はもちろんみんなで折半してるけどね」

 理由は単純だった。そういうタスクでもないと、日中の必須タスクがない私は朝起きられない。起きる理由が必要だった。

 会社を辞めればいくらでも時間ができる、なんて辞めた直後は思っていたけど、いざ辞めてみたらそんなことは全然なかった。やることがなければ、人間はいくらでも寝られるし、簡単に堕落していく。ということを、私は身をもって学んだのだった。料理なんて得意ではなかった私だけど、だから朝食当番は苦肉の策。

 レイは少し眠そうに目元をこすり、ふわぁと大口を開けた。

「じゃ、俺のことは気にせず、朝のお勤めに行ってきてください」

「そりゃ、行きたいのは山々だけど」

 自分の格好を見る。昨日、風呂場で着替えた寝巻のジャージ。クローゼットを開けて、着替えのジーパンとセーターを出した。トイレで着替えてくる。そう言った私に、レイはお得意のジャック・オ・ランタン・スマイル。

「なんなら俺、目、瞑ってるけど? 大丈夫、いろは相手ならムラムラしない自信あるから!」

 レイは無視して部屋を出た。

 着替えて洗面所で顔を洗って。レイを部屋に残してダイニングへ向かった。

 おはよう、と迎えてくれたのは悟くんだ。チェックのシャツの上に羽織った飾り気のないブラウンのカーディガンが、ひょろっとした体には大きいのかだぼっとしている。切れ長の目で純日本人といった小ざっぱりした顔をした悟くんは、黒髪をペタンと撫でつけていて野暮ったい感じもありつつ、茶色のセルフレームのメガネの効果でかろうじて「ダサイ」の手前に留まっていた。素材は悪くないと思うが、悟くんにも私と同様、おしゃれという概念はないんだろう。そんなわけっで、勝手に仲間意識を抱いている。

 ちなみに、悟くんはこのハウスの最古参だ。私よりも一つ年下だけど、私の数十倍しっかりした兄キである。もともと大学を出たあとはどこかの企業でサラリーマンをやっていたのだが、一昨年、会社を辞めて大学に入り直して今は大学二年生。その転身っぷりに私は素直に驚いたが、それは私の隠居前後を知っている悟くんにしても同じだろう。こういうところにも仲間意識。

 悟くんがテーブルの上にお皿とコップを出しておいてくれていた。悟くんにシリアルの箱を渡し、冷蔵庫を開けて牛乳も渡した。私とイズミンはトーストとみそ汁とヨーグルト、マスミンはごはんとみそ汁と目玉焼き。手早く鍋に水とだしの素の顆粒を小さじ一杯。それからフライパンを火にかけて、冷蔵庫から卵とヨーグルトのパックを取り出した。ヨーグルトをガラスの器によそって、マスミンの器にだけ砂糖の粒をまぶす。その間に悟くんは一番玄関に近い席に着き、丁寧な手つきでシリアルの袋を箱ごと揺すると、中身をしゃらしゃらと器にあけていく。

「おはよー。いろはちゃん、もう体調はいいの?」

 明るい声とともにひょこっと顔を出したのは、寝ぐせだらけの髪の毛を無理矢理一つに結んだマスミンだった。

みなとさん、体調悪いの?」

 悟くんがレンズの向こうで目を少し見開いた。手洗いうがいの件も含め、悟くんは体調管理には少しうるさいのだ。

「大したことないしもう大丈夫」

 鍋の中をかき回しながら慌てて答え、フライパンに油を引いて卵を割り入れた。カップ半分の水を入れて蓋をする。みそ汁の具は何にしよう。

 マスミンは、ファミレスではしゃぐ子どものように勢いをつけて、悟くんの向かいの椅子に座った。朝から元気だな、と低血圧で朝に強くないという悟くんは呟いて、物憂げな様子でシリアルの器に牛乳を注ぎ、それからマスミンのグラスにも注いだ。ありがとー、とマスミンはにこにことグラスに手を伸ばす。

「イズミンは?」

 鍋の火を止め、味噌を溶かしながら訊いた。起きてると思うよ、と答えたのはマスミン。

「さっき階段降りてるときに足音聞こえたし」

 その聞こえた足音がレイのものでないことを内心祈りつつ、みそ汁におふと冷凍してあった長ネギを入れた。それから、食パンを手早くトースターにセットする。

 少しして、トントントン、と軽やかに階段を降りてくる音がした。

「おはよう!」

 勢いよくかつにこやかに、私は元気いっぱいですと主張せんばかりのあいさつとともにイズミンが現れた。イズミンが現れると、背景に花が散ってるイメージがいつも広がる。少女マンガ的な。香水の甘い香りがほのかに漂った。

 ふわりとパーマのかかった焦げ茶色のボブヘアが、肩の上できちっと揃っていた。通勤用のサマンサタバサのバッグでは、猫のチャームが揺れている。イズミンは、すらっと伸びた背筋の『すらっ』と感が自然に出るような、ピタリとしたラインの淡いピンク色のセーターを着ていた。セーターの首元は、小さなビーズが散りばめられていてキラキラと照明を反射する。履いたスカートは夏でも冬でも膝丈で、ストッキングの足はマネキンのように白くて細くてスマートだ。悟くんの対極にいる――というか、私もマスミンも基本的に悟くんをどうこう言えるような格好をしていないので、イズミンはこのハウス唯一のおしゃれさんということになる。

 以前はイズミンのようないかにもOLといった女の子がほかにも住んでいたのだが、結婚退職して、当然ながらハウスも出ていった。今、このハウスに住んでいるのは、全員独身で恋人もなし。……多分。

 いつもありがとう、とイズミンはモデルのように私ににこりと笑んで、悟くんの隣に座った。

 イズミンは私よりも二つ年下だったが、基本的に敬語は使わない。このハウスに来た直後は使われていたような気もするが、いつの間にかタメ口になっていた。私の方が年上なのに、イズミンは私のことを手のかかる妹みたいに思っているらしい。今、私の髪型は肩に届かないくらいのショートボブだが、これは二ヵ月半前に「その髪型やばいよ」とイズミンに渡された美容室のクーポンのたまものである。社会から逸脱した生活を始めてからとんと自分の身なりを気にしなくなった私に、イズミンはときどき、ふいに、思い出したように「やばいよ」と眉間を少し寄せる。「もっと焦燥感持った方がいいんじゃない?」なんて、ストレートに正面から言われると腹が立つこともないから不思議だ。住んでる世界が違いすぎるからかもしれない。

 一方で、私にはときどき、イズミンが何かに急ぎすぎているように見えることがある。けど、そんな無粋なことは口にしない。イズミンはきっと笑いながら私の言葉を否定するだろうし、働くことから距離を置いた私から見たらそりゃそうだって、イズミンじゃなくても思うだろう。

 白いごはんをよそったお椀と、フライパンからお皿に移した目玉焼きをマスミンに差し出した。続いて焼き上がったトーストを皿に乗せ、みそ汁をよそって、マスミンと私の席に出す。最後にヨーグルトの器を出して、本日の朝食準備は完了。

 いただきます、というマスミンとイズミンの声が揃った。悟くんはすでにシリアルを食べ始めていたが、思い出したように両手を合わせ、いただきます、と小さくゆっくり口にした。

 マスミンは食べるのが早くて、誰よりも先にハウスを出てコンビニのバイトへ向かう。続いてイズミンが悟くんの分の食器も含めてシンクに下げてくれて出勤。悟くんは私が食器洗いをしている間に、リビングとダイニングに順々に掃除機をかけ、そして研究室に向かうためにハウスを出た。

 私一人だけがハウスに残される、いつもの朝だ。

 ……もっとも、今日は三階にもう一人いるわけだけど。



 私以外の全員がハウスを出たのを見計らっていたのか、レイがおずおずと三階から降りてきた。さっきは気づかなかったが、左側頭部にくるんとした寝ぐせがあった。食パンを一枚焼いて、ヨーグルトを器に入れて出してやる。

 なんで私、こんなにかいがいしくお世話してるんだろう。って、そうだ、脅されてるんだった。

「いろははどこにも出かけないの? 仕事は?」

 またしても呼び捨てだったがもう気にしないことにした。

「働いてないから」

「じゃ、昨日は外で何やってたの?」

 遠慮を知らんのか、こいつは。

 黙っていたら、ジャック・オ・ランタン・スマイルが浮かんでた。データ、と口パクで言ってきやがった。ちくしょう。

「……スケッチしてた」

「スケッチ? 外で?」

 ペロリと食パンを平らげ、レイは私を上目遣いで見つめてくる。

「今日もスケッチするの?」

 答えないでいたら、あぁ、と何かに気づいたように手を打った。

「いいよ別に、俺に気を遣わないで好きに過ごしてくれたまえ」

「……あんたはその間、ここで何やってんの?」

 あー。レイはぽりぽりと頭をかいた。

「シャワー浴びたい」

 貸して? 別にいいけど。やったぁ。

 レイは無邪気に喜び、そしてダイニングテーブルの片すみに置いてあったメモ帳を見つけると、素早く引き寄せて何かを書きつけた。ぺりっと一枚破り、そしてズボンのポケットから取り出した一万円札とともに私に押しつけてくる。

「出かけるなら、これ、買ってきてほしいんだけど」

 意外にも整然とした、止め跳ねのはっきりしたお手本みたいな文字が並んでいた。

『・ジャージの上下(安物でOK)

 ・下着三日分くらい(ボクサーブリーフ派)

 ・着替え(長袖のシャツとか)

 ・靴下

 ・かみそり

 ・今晩のごはん(冷めてもおいしいお弁当を熱望)』



 完全にレイのペースだ。乗せられるようにして、スケッチブックとおつかいメモを手にハウスを出てきてしまった。

 一つ驚いたことは、こんなにもあっさりと外出できたことだった。拍子抜けしすぎて、いつもの街の景色が別ものに見えるくらいだった。レイは、本当に私の部屋にいたいだけで、それ以外のことは望んでいないのか。私の行動を制限するでもないし、必要な物資については自分の金をちゃんと出すくらいだし。私が通報するかも、などと微塵も思っていないのか、脅してるから大丈夫だと安心してるのか。

 ……わからない。

 考えていたら無意識のうちにいつものルートをなぞってて、弁当屋に寄ってのり弁当を買って、弁当屋のおばちゃんとはいつものおしゃべりもして、多摩川に到着した。空は青く澄み渡り、ちぎった綿のような白い雲がぷかぷかしていて、今日も空気は乾いている。

 何もかもが、いつもどおりすぎた。

 傾斜している土手の中ほどにストンと腰かけた。お尻の下の地面と雑草が冷たく湿っぽい。乾いた風はひんやりしていて、ここまで歩いてきて上気しかけていた頬はすぐに表面が冷めてしまう。

 こんなところでぼうっとしてたら、スナフキンのように見えないだろうか。そう考えてから、レイに「スナフキンのなり損ない」って言われたことを思い出してもやもやする。

 スナフキンはムーミンの親友で、旅人で、その発言は何かと詩人だ。彼はムーミンの親友だが孤独をもまた愛している。私も孤独を愛しているように見えないだろうか。スナフキンが住むテントはムーミンハウスの近くの河川敷で、私が今いるのも多摩川の河川敷だ。そして何より、スナフキンは無職だ。意外と共通点だらけじゃないか。

 かじかみかけた手で、持ってきたスケッチブックの白紙ページを広げた。あと五枚で白紙がなくなる。なのに、完成したスケッチは一枚もない。中途半端な、多摩川土手の景色のなりそこないが散在している。余白ばかりが大きく、どのページも白っぽい。モノクロの世界ですらない。

 おうい、と聞き慣れたおっちゃんの声が背後から降ってきた。跨った自転車に潰した空き缶でぱんぱんになった袋をくくりつけたおっちゃんが、土手の上から私を見下ろしてぶんぶんと風を切るように手を振った。

「おっちゃん、空き缶集めなんてしてたっけ?」

「足がよくなってきたから再開したんだわ」

 絵描きがんばれよぉ、とおっちゃんは自転車のペダルをギコギコやって、ピューッと去っていった。

 さっきまでもそうだったはずなのに、一人ぽつねんとしてる感じが強くなって、取り残されたような気持ちになった。

 私だけが、変わってない。

 人は、世界は、日々変わっていくというのに。孤独だ。あぁ、この感じを愛せたら、スナフキンになれるだろうに。

 午前十一時ちょうどだった。ペンケースを開けることもしないまま、スケッチブックを閉じた。お腹は空いていなかったが、がっつくようにのり弁を食べ、そそくさと立ち上がった。

 私が暮らすハウスと多摩川の間には、四階建ての大きなスーパーがあった。食料品だけでなく、ひととおりの衣料品も揃う。レイがそれを見越して私におつかいメモを渡したことは安易に想像できた。脅されてますしね、素直にお買い物してあげますよ。

 スケッチブックの入ったエコバッグを肩から提げたままスーパーに入り、頼まれた品々を買い物かごに放り込んだ。ジャージも男性用下着も、よくわからないのでとりあえずMサイズにした。色は考えるのが面倒だったので、下着のシャツ以外はすべて黒にした。あんなヤツ、黒づくめにしてやってちょうどいいくらいだろう。

 ついでに悟くんの朝食用のシリアルや、食パンも買い物かごに入れた。こうやっていると、主婦みたい。なぁんて。

 少し迷ってから、四階で新しいスケッチブックも買った。ここのスーパーでは文房具も買えるのだ。どうせまた、未完成のスケッチが増えるだけかもしれないけど。

 笑いそうになって、自分自身に突っ込んだ。笑う余地なんてないっつーのに。



 スケッチブックの入ったエコバッグに大量の買い物を突っ込んで帰宅したら、玄関の手前でマスミンと鉢合わせた。午後二時前だった。マスミンはおなじみのモッズコート姿で、長い髪を後ろで一つに束ねていた。

「すごく買い物したねー」

 膨らんだエコバッグを覗き込もうとするマスミンから微妙に一歩引いて、バイトは? と訊いた。マスミンが帰宅するにはちょっと早い時間だ。

「さっき一つ目が終わって、これから二つ目に行くところ。携帯電話忘れたから、取りに戻ったんだ」

 レイがシャワーを浴びると言っていたのを思い出してぎょっとする。でも、いくら能天気なマスミンでも見知らぬ男が家の中にいるって気づいたら、もう少し様子が違うだろう、と自らに言い聞かせる。

「バイト、今何件やってるの?」

「三店舗。この間まで四店舗やってたんだけど、さすがにスケジュール管理できなくなったから辞めたの」

 マスミンはコンビニのバイトをかけ持ちしている。一つの店で長時間勤務するのがイヤなんだそうだ。何店舗もかけ持ちする方が大変じゃないのかと個人的には思うけど、とにもかくにもたくさん働いててとってもエライ。私とは大違い。

「そうだ、マスミン、今日は夕飯いる?」

「うん、多分、ハウスで食べるよ」

「今日は、カレーにしようと思って。みんなが食べられるくらいの量を作るよ」

 やったー。マスミンは子どものように笑って両手を上げてから、じゃあね、と小走りに去っていった。引き留めて悪かったかもしれない。

 玄関のドアを開けたら、お帰り、とレイが廊下に立っていた。宣言どおり風呂場を使ったらしく、乾いた髪がさらさらになっている。勝手にハウスに転がり込んでいるというのに、堂々としすぎてて感心する。

「今夜はカレー?」

 さらりと会話を盗み聞きしていたことを白状された。誰かの夕飯のためにカレーにしてやるんじゃないか。とは答えず、スニーカーを脱いでレイを追い越した。油断大敵。

「絵は描けたの?」

 追いかけてくる質問に足を止める。

「描けてても見せないけどね」

「ケチ」

 その言葉に、エコバッグからジャージやら下着やらを取り出して押しつけた。

「今度ケチって言ったら、警察に突き出してやるからね!」

「そんなことできないくせに」

 レイは衣類を受け取って、例のごとくジャック・オ・ランタンの笑みを浮かべた。

「おつりはあげる。サンキュー、いろはちゃん」

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