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風呂に入って濡れた髪をタオルでゴシゴシやりながらジャージ姿でダイニングに行くと、悟くんが何やら分厚い冊子と新聞をビニール紐で束ねていた。
「悟くん、帰ってたんだ」
タイトルを見ただけで眩暈がしそうな、難しそうな学術書。
「さっき帰ってきた」
「バイト?」
「いや、研究室から」
悟くんは、大学近くの古書店で週に三日ほどアルバイトをしていたが、最近は忙しくてあまり頻繁には働いていないらしかった。悟くんは学生をやり直しているだけあって、毎日精一杯に生きている感じがする。親近感はあるけど、やっぱり私とは大違い。
悟くんとの会話はそれ以上続かず、ダイニングを通り越してひとつなぎになっているリビングに向かった。六畳のリビングにはもふっとしたラグが敷いてあり、L字型のソファがゆったりと置いてある。私は少し弾みをつけてソファに腰を下ろした。そのまま伸ばした足を肘かけに起き、いざ占領。私の部屋はあいかわらずレイに我がもの顔で使われているし、ソファくらい占領したっていいよね。私が作ったカレーを食べ、ついでにスナック菓子なんてつまみながらずっとテレビを見ているレイの隣でくつろげる、わけがない。
ダイニングのドアが開いた音がした。悟くんがまとめた書類を廊下に運び出すのだろう。と思ったら、玄関の方でも音がした。ただいまー、と明るいイズミンの声が聞こえてきた。悟くんと廊下で何かを話している。まぁ、聞き耳を立てる趣味はない。私はレイとは違うのだ。
ごろんと体を横にして、小さな庭に面したガラス窓の方を向いた。窓の外は庭木に遮られ、街灯の光も届かなくて真っ暗で、ガラスにトドのようにだらしなく寝転んだ私の全身が映っている。年季の入ったジャージが、ガラス越しでも毛羽立っているのがわかる。髪の毛も半乾きで、束になってばらついていた。
こんな格好でこんなところに転がっているのがバレたら、イズミンに絶対に怒られる。いろはは女子力低すぎっ! とかなんとか。
イズミンみたいな素敵女子からしてみたら、私みたいな人種がいること自体、我慢ならないのかもしれない。マスミンだって私と大差ないじゃん、って前に口答えしたら、マスミと自分を比べるなとまた怒られた。ま、私は私、マスミンはマスミンで、そんなこと自分でも重々わかってるけどさ。
せめてイズミンがここにやってくる前に起き上がろうかとも思ったが、一度脱力を覚えてしまった体はなかなか言うことをきかない。窓ガラスに映った自分をぼうっと眺める。知らない誰かのようだった。まぬけ面。私ってこんな顔だったっけ。今身を置いている現実に心がついていかない、そんな感じ。
再び仰向けになって、窓ガラスから天井に視線を戻した。白い。この天井のずっと上には私の部屋があり、レイがいる。戻ったら当然のごとく、くつろげない。私はこの一年、スケッチに出かけるか、スーパーに買い物に出かけるか、ハウスにいるかのどれかしかほぼしていない。ハウスの自分の部屋にこもるのは、特別好き、というわけではないが、それでもやっぱり心は休まった。描きかけのスケッチブックだらけの乱雑な部屋。それが私に今までもたらしていた平穏がどれほどのものかなんて、考えたこともなかった。八畳の私の城に正体不明の侵入者。しかも、いつまで居座るつもりかもわからない。
今さらながら、どうしたらいいんだろう。
スケッチなんてしている場合じゃなかったはずなのに。どうして私はこう、能天気でその場その場で適切な答えを出せないんだ。
ダイニングのドアが開く音がした。つかつかと近づいてくる足音。そして、私の視界がイズミンの顔でいっぱいになった。
「まぁた、こんなところで女子力下げてる」
……部屋に戻らないでここで寝る。って選択肢は、ないんだろうなぁ。
帰宅早々のイズミンにダメ出しをくらい、私は渋々部屋に戻ることにした。
「髪の毛はちゃんと乾かしなよー」
イズミンのアドバイスを背中に受け、はーい、と返事してダイニングを出た。と、階段で悟くんにはち合わせた。コートを着ている。これから大学に行くらしい。
「勉強するのって大変なんだね」
素直な感想をそのまま述べたら笑われた。
悟くんがダイニングのドアを開けたのを見送って階段を上り、三階の自室のドアを開ける。
テレビのディスプレイの中で、アナウンサーが淡々とニュース原稿を読んでいた。そしてそんなテレビの方を向いたまま、座椅子に腰かけたレイが、あぐらをかいたままの姿勢で首をかくんとやった。
眠っている。
レイ、と声をかけかけて、やめた。
……これは、チャンスなんじゃないか?
レイはぐっすり眠っていて、私が部屋に戻ってきたことにも気づいてないみたいだった。そのまま足音を立てないように気をつけ、カーテンレールに引っかけてあるレイのダッフルコートに手を伸ばす。表と内側の両方のポケット。中にあるのは――駅前で配っている美容室のチラシとティッシュペーパー。以上。ハズレだ。
気を取り直して、部屋のすみに丸めてあった、レイが今朝まで着ていたシャツを広げてみた。こっちにはポケット自体がない。これもハズレ。
シャツを元どおりに丸め、その横にあったジーパンも確認。今度はポケットがあったけど、中には何もなかった。またハズレ。
ほかにレイの身の回りのものはない。レイは手ぶらでここに侵入してきてて、バッグの類は何も持っていなかった。
……となると。
座椅子に座って腕を組み、小さな寝息を立てて眠っているレイを見やった。私が買ってやったジャージ姿だ。SDカードは、レイが肌身離さず持っているに違いない。
おずおずと、静かに、そろそろと、レイの正面に移動した。そのままたっぷり十秒ほどその顔を見つめたけど、レイの目蓋は開かない。
SDカードを隠すとしたら、ズボンのポケットか?
さすがに触ったら目を覚ますかな。そっとその腰に触れてみた。レイはまったく身じろぎしない。……いける、ような気がした。意を決した。今こそ適切な答えを出すときだ。SDカードさえ取り戻せれば、あとは悟くんにでも警察にでも相談できる。マスミンに泣きつくのもOKだ。
小さく深呼吸して、ゆっくりと空気を吐き出した。血管がうるさいくらいにドクドクと脈打って、関節が軋むみたいに体が強張る。今しかない。がんばれ自分。小刻みに震えそうになる手を、ゆっくりとレイのズボンに伸ばして――。
ぐるんと世界が回った。
視界にあったレイの姿が瞬時に消え、なぜか天井の白が見えた。座椅子のクッションが私の後頭部を受け止めて沈み、視界が暗くなる。
レイが四つん這いの体勢で、組み敷いた私を見下ろしていた。
私を見下ろす冷たい視線が、近い。その吐き出す息が届きそうなくらいの距離だった。空気を伝い、レイの体温が感じられるようだった。
男の匂いだ。
そう思った瞬間、背筋を這う大きな手の感触がまざまざと蘇って身震いした。
「残念だったな。俺の前世は忍者なんだ」
体を起こしたレイの表情が蛍光灯のもと浮かび上がった。いつものジャック・オ・ランタンの笑みだった。
レイは自らのジャージの胸元に手を入れ、座椅子の上に倒れたままの私に再び近づいた。白雪姫にキスをしようと屈む王子様のように、ゆっくりと、もったいぶるように前屈みになる。……現状には程遠い比喩だけど。レイは首から下げている紐を取り出し、その先にくくりつけられている小さなお守りの袋を私の眼前でぶらぶらさせる。
「お探しのものはこの中だ」
催眠術の五円玉のように、薄汚れた白いお守り袋はゆーらゆーら私の顔の上で揺れ続けていた。……あぁ、なんかもう、毒リンゴをくれ。このまま色んなことを忘れて眠っちゃいたい。
レイは笑みを浮かべたまま、お守りをジャージの胸元に戻した。私を見下ろしたままだった。
「俺は基本的には紳士だ。――が」
穏やかな口調が、「が」の部分で低く静かなものに変わり、ついでに笑みも消えた。
「俺の邪魔をするなら、こっちも態度を改める」
ビクついた私に、レイは満足げに頷いて立ち上がった。
「悪いけど、こっちは命がけなんだ。今後の人生賭かってんの。用が済んだらSDカードも返す。だからそれまではここにいさせてもらう」
用が済んだらって、いつ済むんだよ。
とは訊けず、黙ってコクコクするしかない。レイは満足そうな笑みを浮かべ、ありがと、なんてニッコリ凶悪に笑んだ。私はレイから距離を取るようにあとずさり、ベッドに這い上るとそのはしっこに退避した。膝と頭を抱えて小さくなった。自分の非力さが悔しい。
なんで私は、女なんだ。
細くて貧弱な手足であることが急に意識された。
――いろはは細くてちっちゃくて、そこがかわいい。
耳元で囁かれたねとっと絡みつくような声が、記憶の奥底でリフレインする。……最悪最悪最悪。
最っ低だ。昔も今も。
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