1-5

 ……ろはちゃん、いろはちゃん?

「どうかしたの?」

 マスミンの声に、はっとして顔を上げた。イズミンも不思議そうに私を見ている。

「ごめん……なんでもない。ちょっとぼうっとしてただけ」

 自分でもわざとらしいと思いつつも、あははっと笑って、グラスの牛乳を飲み干した。冷たくなった下唇を、前歯でそっと噛みしめる。

 レイのせいだ。

 昨晩、レイはあのあと、何事もなかったかのように、一昨日と同じく座イスで体を丸めて眠ってしまった。私の気なんて知らないで、なんとも心地よさげにすやすやと。

 たった一つの匂いが、糸を引っ張るようにほころびを作る。意識の外にあったはずの記憶が、じんわりと傷口に滲む血のようにその姿を現した。

 男の感触なんて忘れていたのに。

 悟くんは昨晩出かけたままで、朝食には現れなかった。いつものように、マスミンとイズミンが出勤して、ダイニングで一人になる。食器洗いをして、渋々部屋に戻った。

 あいかわらず、レイは私の部屋でテレビの前を陣取っていた。お前はどんだけテレビっ子なんだよ。って突っ込みたくなったけど、その視線の先はテレビではなかった。

 座椅子であぐらをかき、私のスケッチブックを両手で持って眺めている。

 見るな、と取り上げてもよかったが、そんな気力は湧かなかった。そもそも、見られて困るほどのものを私は描いていない。ただただ、部屋の入り口に立ち尽くす。

「なんでこれ、どれも描きかけなの? 練習帳?」

 答えてやる義理はない。けど、答えない理由もない。何より私は、レイに抵抗することに疲れ切っていた。

 小さくため息を吐き出した。

「途中で鉛筆が止まるから」

 答えてから、正しくないなと思う。止まるのは私の気力、集中力だ。

 絵を描きたいという気持ちが持続しない。

 描かなきゃ、とも思うのに、意識はすぐに別の方向に行ってしまう。焦燥感に突き動かされて実際に動けるのは十代、せいぜい二十代前半までじゃないだろうか。三十路手前の今は、積もりに積もった焦燥感が、簡単に諦めに変換されてしまう。若い頃に夢を諦めるのは断腸の思いだろうが、大人になってから夢を諦めるのは意外と苦しくないんじゃないかなんてことを最近は考える。固い志をぼきっと折ったら痛いけど、ふにゃりと柔らかくなった志を折り曲げるのは難しくない。ちょっと力を入れてやれば、小さな音を立ててパキリと折れる。そんなもんだ。

 レイはスケッチブックと、棒立ちになっている私を見比べた。そしてすくっと立ち上がると、おもむろに腕を伸ばしてきた。昨日の今日だ。思わず逃げようとしたら、その手はぽんっと私の頭に軽く乗っけられただけだった。

「描こうと思ってれば、そのうち最後まで描けるさ」

 頭をポンポン、としてレイの手はすぐに離れた。頭の表面に微かに残された熱に、体の芯まで痺れたようになって動けなくなってしまう。はい、と渡されたスケッチブックを素直に受け取った。それから、私がいつも出かけるときに持ち歩いている、大きなトートバッグも差し出される。

「いい天気じゃん。出かけてこいよ」

 なんで、兄キ面なんだよ。

 いってらっしゃいと手を振られ、素直に廊下に出て、後ろ手に部屋のドアを閉めた。何かに突き動かされるように、持ってきたグレーのパーカーをごそごそと羽織ってフードまでかぶった。

 静かだ。

 耳を澄ませるとドア越しに微かにテレビの声が聞こえるが、内容まではわからなかった。レイはいつもテレビを見ている。もう何度もくり返してきた疑問。どうして、この部屋に居座りたいのか。

 人がひとところに長期的に留まる理由。例えば、何かから逃げているとか? 実は指名手配犯とか? ……十分ありえる。それか、何かを見張っているとか? でも、この部屋の窓からは通りに面した小さな児童公園しか見えないし、考えにくい。あとは……私を監視している、とか。それこそ思い当たる節がない。監視されているとしたら自由すぎるし、それより何より、今の私に、監視されるほどの価値なんてない。

 そう、価値なんてないんだ。

 レイのせいだ。頭の中で何度も呟く。レイのせいだ。なんで忍び込んだのが私の部屋だったんだ。なんでイヤなこと思い出させるんだ。ぎしぎしと軋む廊下を進んでいたら、気持ちがどんどん昂ぶってきて、段々と足が速くなった。駆け降りるように階段をくだる。かぶっていたパーカーのフードがめくれる。

 さっき触れられた頭のてっぺんが、まだじんわり熱く思えた。平穏だった私の毎日なのに。どうして。なんで。かき乱されなきゃいけないのか。

 階段をくだり続け、二階を通過したところだった。踊り場の角を曲がったところで誰かに鉢合わせた。

 悟くん。

 目の下のくまが濃くて、いかにも疲れた顔だった。徹夜明けなんだろう。

「今帰って来たの?」

「研究室の手伝いがあって」

「そうなんだ」

 悟くんと目が合った。今、私は自分がどんな顔をしてるのかわからない。慌てて表情を取り繕って、明るい声を出した。

「おつかれさま」

 じゃあ、と悟くんに道を譲り、階段を上っていくその後ろ姿を見送る。悟くんは数段上がってから、ふと立ち止まってこちらを振り向いた。

「今、湊さん一人?」

「そうだけど」

 内心の動揺を悟られないよう、素っ気なく答えた。悟くんはくまの浮かんだ目元にわずかにしわを寄せる。それから、その、と少し言い淀む。

「湊さん、何か飼ってたりしない?」

「ま、まさかまさか!」

 笑うしかない。ここ、ペット禁止だし。

 そうだね、と悟くんは表情を緩めた。

「変なこと訊いてごめん」

 悟くんはあくびを噛み殺し、再び階段を上っていった。気が抜けて、階段の手すりに思わずしがみついてしまう。

 勘のいい悟くんが、何か――レイに気づいたのかもしれない。

 大丈夫だろうか。なんて、私が動揺してどうする。レイの存在がバレたらバレたで、むしろその方がいいし、私にとっても不都合はあるけどしようがないことだって諦めもつくかもしれない。それにそうだ、私はどうして忘れていたんだろう。

 占拠されていようがなんだろうが、部屋の主は私だ。

 それを忘れてたなんて、私はやっぱりバカだ。変な男だろうがなんだろうが、私が「飼っている」と思えばいいんじゃないか?

 はぁ、とわざと声に出して肺の中の空気を吐き出し、顔を上げた。深呼吸を一つして、背筋を伸ばして胸を張る。

 単純なことだ。

 何もできずにレイの言いなりになるなんて、まっぴらだ。なら、抵抗すればいい。私にだって何かできると知らしめてやればいい。私にできること。

 ――描く。

 階段をゆっくりと降り、そして一階に到着した瞬間、駆け出した。

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