1-6

 集中力が途切れなかった。

 例のごとく多摩川河川敷でスケッチブックを開き、午後四時過ぎまで鉛筆を走らせた。十回も鉛筆削りを使った。そして帰宅して、帰宅途中に買った食材で手早くシチューを作ってレイの元に運び、私は共用スペースのリビングを占拠して鉛筆を走らせ続けた。帰宅したイズミンに声をかけられたような気がしたけど、何を言われたのかわからなかったしそれどころじゃなかったので無視してしまった。あとで謝ればいい。今は謝ることより、

この瞬間に脳裏に浮かんだイメージを描くことが大事。それをしなかったら後悔する。

 これほど何かに集中するのなんていつぶりだかわからなくて、体中をアドレナリンが巡っている感覚に私はますます興奮していった。

 描く! 描く! 描く! 描くっ!

 徐々に手が痛くなってきて、視界もかすんで、ある瞬間に音を立てて集中力が弾け飛んだ。手の中から鉛筆が転がり落ちて、思考が止まったみたいに呆然とした。ラグの上に倒れそうになったけど、イズミンの小言を思い出して這うようになんとか自室に辿りつき、勢いよくベッドに倒れ込んだ。午前三時を回っていた。

「何やってたの?」

 目が覚めたのか、座椅子で芋虫のように毛布にくるまったままのレイから声をかけられた。答える気力は残ってないし、何より説明する義理はないのでそのまま眠りについた。こいつには別にあとから謝らなくていいやとだけ思った。

 そして翌朝。

「朝めし、作るんじゃないの?」

 目覚まし時計の音など聞こえず、レイに揺さぶられて意識を取り戻した。いつもより二十分も寝過ぎていた。

 ばたばたと顔を洗い、ジャージ姿のままでダイニングに降りた。いつもどおり、悟くんが食器を用意してくれている。悟くんは私を見るなり目をしばたたいた。

「どうかしたの?」

 どうもしないよ、とぼてっとした目蓋のまま答え、いつもどおりの手順で朝ごはんの準備を始めた。マスミンとイズミンも順々にダイニングに現れた。イズミンに、なんかひどい顔してない? っていうかそれ寝間着? なんて眉をひそめられたが、答えないでみそ汁やヨーグルトをテキパキと並べた。あとで謝る、とだけ考える。

 勢いよくみそ汁のお椀をダイニングテーブルに置いた瞬間、そのうちの一つが傾いた。あっと声を上げた直後。こぼれるぎりぎりのところでイズミンがお椀を押さえてくれた。

「なんか、急いでるの?」

 顔を上げると、イズミンの整えられた眉が寄っている。

「ごめん、なんでもない」

 答えて席に着き、食パンを頬張る。さっさと食べて、続きを――

 イズミンも悟くんもマスミンも、似たような表情で私を見ていることに気がついた。気まずくなって、食べかけの食パンをゆっくりとお皿に戻した。

「その……やることがあって」

「いろはちゃんもバイトでも始めたの?」

 なんて、マスミンの無邪気な質問に顔の前で手を振った。

「絵、描いてて」

 そんな私の答えを聞いて、真っ先に噴き出したのはイズミンだった。

「いつもと変わらないじゃない」

 つられるように、マスミンと悟くんも少し笑った。私はようやく気づいた。

「あ、ほんとだ」

 私を駆り立てていた焦燥感が正気を取り戻した気分になって、今度はゆっくりパンをかじった。さっきは感じなかった香ばしい匂いとバターの塩味が口の中に広がった。

 私はなんにも、いつもとまったく変わらない。

 それは、時間がたくさんあるということと同義だった。その点、私はみんなよりもムーミン谷の住人に近いということに、今さらながら思い当たった。時間を気にしないで、ゆっくりやればいい。焦ることなんてなかった。ま、ここはムーミン谷じゃなくて、日本だけどさ。

 マスミンとイズミンが一緒にハウスを出た。悟くんが、出かけるまで時間があるから食器を洗っておいてくれると言ってくれたので、お言葉に甘えて部屋に戻った。レイは朝の情報番組を見ながら、昨日私が買っておいた菓子パンを頬張っている。

「昨日から、どうかしたの?」

 そう訊かれたが、何もかもお前のせいだ、と答えてやるのは悔しいので、無視してスケッチブックを手にして部屋を出た――が。

 踵を返し、そろりと部屋のドアを再び開けた。レイがこちらを向く。

「忘れ物?」

 問うてくるその顔をしばし凝視。ジャック・オ・ランタン・スマイルじゃないけど、まぁいいか。

 黙ってドアを閉めた。一階に降り、ダイニングに向かうと悟くんが皿洗いを終えたところだった。ありがとう、と声をかけ、リビングのラグにぺたんと座り、ガラステーブルを占領した。

 時間はあるってわかってる。でも、河川敷まで出かける時間がもったいないくらいには、今の私は何かにせっつかれ、突き動かされてもいた。それならそれでと開き直る。今日はハウスから出ないことに決めた。スケッチブックを開き、早速鉛筆を走らせる。

 スケッチブックの最後のページまで、描けるだけ描き切ってやる。

 鉛筆が止まるだなんて、もう言わない。



 スケッチブックの最後の一枚まで描き切ったのは、正午を回った午後一時前だった。

 気がつけば、手も足もすっかり痺れていた。手のひらのはしは鉛筆の粉ですっかり黒くなっているし、背中も肩も凝り固まっていて、腕を上げようとしたらギシギシ鳴りそうだった。えいやって立ち上がろうとしたら、膝までおかしくてふらふらする。

 終わった、と口の中で呟いて、ふらふらのまま近くのソファの背もたれに掴まった。

 描いて描いて描いて、描き切った。ざまぁみろ!

 スケッチブックをその場に置いて、ちょっと気持ちを落ち着かせようとリビングを出てトイレに向かう。便器に腰かけたまま意識が飛びそうになり、はっとして狭い個室を出た。水の流れる音で少し目が覚める。昼ごはんを食べないと。いや、それより何より眠い。寝たい。レイの昼ごはんなんて知ったことか。寝よう。

 スケッチブックと鉛筆を引き上げなければとリビングに戻ると、いつの間に三階から降りてきたのか、レイが立っていた。こっそり居ついてるとは思えない、堂々とした立ちっぷり。

「あ」

 思わず声を上げてしまった。レイは描き切ったばかりのスケッチブックをパラパラめくっている。勝手に見るな! って思うのに、でもそれと同じくらい、これをレイに見せたくて仕方なかった私自身にも気づかされ、心臓は鼓動を強くする。

 スケッチブックから顔を上げたレイと目が合った。

「すげーじゃん」

 もし、これがレイに見つかったら。破かれたりするんじゃなかろうかと、内心密かに思ってもいたのに。

「最後まで描いてんじゃん」

 その反応は予想外だった。

「やればできんじゃん。前世で批評家だった俺が言うんだから間違いないよ」

 褒められて、ふらふらだった私だけど素直に調子に乗った。

「まぁね」

 腰に手を当て、ふふんと反り返る。

「私はやればできる子なんだ」

 それで? とレイは笑みを口元に浮かべたまま、私を見下ろしてくる。

「なんで、こんなもん描いてたの?」

 レイは、自分の顔がびっしりと描かれたスケッチブックを私に向けた。

「もしかして、俺に惚れた?」

「なわけあるか!」

「うわ、突っ込み早すぎ」

 当たり前だ、バカヤロウ!

「あんたがここにいた証拠残して、そのうちこれ、警察に持ってってやるんだからね!」

 おお怖。なんてレイは大袈裟に両腕をさすって、でもクスクス笑い続けてる。

「そしたら、そうなる前に燃やさないとなぁ」

 笑ったレイの顔は、いつものジャック・オ・ランタンとは少し異なるように思えた。それとも、私の目が疲れているだけなのか。

 レイから一歩下がって。その顔の輪郭を、離れたところから空中で指でなぞった。正面の顔も、横顔も、眠った顔も、笑った顔も、私を見下ろす顔も、記憶にある限りのレイの顔を私はスケッチブックに吐き出して吐き出して吐き出しまくった。吐き出し切れた、はずだ。

 その意味は違えど。こんなに一人の男のことだけを考えたのは、本当に久しぶりだった。改めて思い知らされた。一つのことに夢中になるのは、楽しいけれど、苦しいことだ。

 このハウスに来るまでの丸六年間、私は必死に働き、そして恋に溺れた。彼は十個年上のチームリーダーだった。典型的な妻子持ちとの不倫。悪くはなかった。でも、何も残らなかったってことを、会社を辞めたときに痛感した。だから男のことなんか忘れて、貯金が尽きるまで好きなことをしてやろうって決めて、そのとおりにやってきた。なのに。

 今さらどうして。

 レイのあごのラインを空中でなぞっていた指が、ふいに逸れた。いつかのようにぐるんと視界が回り、そのあとは何も見えなくなった。

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