3-3
大学の図書館で予約していた資料を受け取ってから、研究室へ向かった。足は重い。けど、些細な人間関係の問題くらいで大学に通えなくなるような覚悟で、会社を辞めて大学に入り直したわけじゃない。
呼吸を整え、よし、と口の中で呟いてドアを開けた。
「あれ?」
何かの書類から顔を上げたのは、顔見知りの女性の院生だった。ほかには誰もいない。
疑問符を頭の中に抱えつつ、おはようございます、と頭を下げた。
「今日はずいぶん少ないですね」
学会の発表準備はひと山越えてはいたが、まだこまごまとやることは残っていたはずなのだが。
「大久保さん、連絡なかった?」
院生は目をパチクリさせて僕を見ていた。
「連絡?」
「今日は学会発表のリハーサル見るって」
すぐに反応できなかった。
「リハーサルは明日だったと、記憶していたんですが」
いやだから。院生は困ったような顔をした。
「会場側の急な都合で。昨日の夜、メールで回ってたと思うんだけど」
やられた。
岩井隆史の病室に通い始めて、四日目のことだった。
病室に先客があった。聞いたことのある若い男女の声だった。そっと覗いてみると、男が二人に女が一人。同じゼミの同級生三人だった。
――嘘、あの人、毎日来てるの?
女の子の甲高い声が響いた。声が大きいって、と岩井隆史がしーっとやってそれをいさめた。
――毎日差し入れ持ってくんの。ありがたいっちゃありがたいんだけどさぁー。
ドアの隙間にかけていた手を慌てて引っ込めた。心臓が大きく脈打った。彼らが話題にしている『あの人』というのが自分のことだというのは、容易に想像できすぎた。
――それ、うっとうしくね?
男のうちの片方が岩井隆史に訊いた。体中の血液が凍りついたような感覚に陥ったが、岩井隆史は、うっとうしいっていうのとは違うな、と答えた。にわかにほっとした。岩井隆史に否定されないのならそれでいいと思った。彼なら大丈夫、と。
だが、次のセリフで完全に僕の世界はフリーズした。
――どっちかというと、『キモチワルイ』。
うわっひっでー。誰かが笑った。声かけてみるっつったのお前じゃん。だって、あの人成績よさそうじゃん。ノートとか借りられたらラッキーだと思ってたんだけどさぁ……。
続きは聞けなかった。その場で回れ右をし、呼吸も足音も殺して引き返した。
……またやってしまったんだろうか。
今までだって、こういう経験がなかったわけじゃなかった。初めてできた親友だったのに、理解者だと思ってたのに。
でもそう思うのは、いつだって僕だけなのだ。
断っておくが、僕は岩井隆史に恋愛感情を抱いていたわけでもなんでもない。ただ――ただ、そう、人と常に距離を置いてきた反動なのかもしれない。少しでも自分から僕に近づいてくれる人がいると、過剰に期待してしまう。依存してしまう。よくない傾向だって自覚しているのに。
またやってしまった。
早足で病院のロビーを抜け、自動扉をくぐった瞬間に乾いた外気に前髪がなびいた。その冷たさに胸を突かれたような思いがして立ちつくしてしまう。
矛盾している。
硬直したがっているように重たい足を、無理矢理動かして前に進んだ。病院をあとにする。
他人が触れたものを本能的に汚物とみなしてしまうくせに。誰かに依存したいなんて、矛盾している。どうかしている。
今から学会発表のリハーサルに向かうこともできた。でも、電車を乗り継がないと会場には行けないし、行っても到着した頃には終わっている可能性が高い。そして何より、何もかも終わったあとに到着した僕に向けられる視線を想像したら、気力は完全に失せた。
院生に礼を述べて、研究室を出た。図書館に寄って書架の間を目的もなくぶらぶらし、昼前には大学を出た。岩井隆史に誘われたときにしか行ったことがなかった、近くの大衆食堂に入る。講義があるときだと学生で満席の店だが、春休み期間中の今は席にだいぶ余裕があった。メンチカツ定食を注文し、バッグから取り出した自分の箸で黙々と食した。
――大久保さん、マイ箸なんて持ってるんスか?
テーブルの一角、曇ったグラスに立てられた割り箸の山から一本引き抜いた岩井隆史は、大袈裟なほどにその目を丸くした。
エコだからな、と答えた。本当は、誰が触ったかもわからない箸を使いたくないだけだった。
壁に油の染みがあるような、こういう年季の入った大衆食堂に入ること自体をかつては拒否していた。ウマいから行きましょうよ、と岩井隆史に初めて誘われたときも、僕はちょっと、と一度は断った。だが、ホントに安くておいしいし一回だけ騙されたと思って! とかなり強引に連れていかれた。古びた店の外観や内装も簡単には慣れられなかったが、その味は確かに悪くなかった。
でも今日のメンチカツの肉は、口の中になんだかねっとりと広がって、味がよくわからなかった。
会計を済ませると、いつもありがとう、と店のおかみさんに笑いかけられた。ごちそうさまです、となんとかにこやかに返し、そそくさと店を出た。感情が伴っていなくても笑える自分を内心で自嘲する。こういうことだけは得意なのだ。
外は空気が乾いていて寒かった。空にはうっすらと雲がかかっている。
理不尽だ。
言葉に出すようにして思ってみた。くり返してみる。
理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。
こんがらがった感情のぶつけ先はない。けど、心の中だとしても言葉にしてみることで少しは気持ちが落ち着いてきた。
ハウスに帰ろう。
自分をなぐさめるようにそう言い聞かせ、駅前の通りを歩いていたときだった。
「泉美さん?」
思いもかけなかった後ろ姿に、つい声をかけた。平日の昼間だというのに、なぜか穴川泉美が僕の前を歩いていた。『泉美さん』と呼ぶとき、いまだにちょっとだけ身構えてしまう。最初は『穴川さん』と呼んでいたのだが、穴川泉美が自ら名前で呼んでくれと頼んできたのだ。今さらながら、女子を名前で呼んだことなど、これまでの人生でそういえばなかったかもしれない。
穴川泉美はふわりと髪をなびかせて振り向いた。
「どうしたの?」
こちらが思っていたことを先に訊かれた。急に暇になってしまって、と茶を濁す答えはすぐに口から出てきた。嘘ではない。
「泉美さんこそこの時間に珍しいね」
「ちょっと体調が悪くて、早退したの」
確かに、顔が少し赤いのは寒さのせいだけではなさそうだった。心なしか語気も弱い。
「大丈夫?」
「あぁうん、そこまで大したことないし」
泉美はいつも明るく笑う。なのに、なんだかその笑みすらも消えゆくように最後は弱々しい。歩く速度も遅い。その歩調に合わせて歩きつつ、穴川泉美の顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫? 薬局寄って、薬買う?」
穴川泉美ははっとしたように表情を引き締め、全然大丈夫、と答えた。
「薬も買い置きがあった気がするし」
少し考えた。お互い大人だ。ここで僕が喰い下がっても仕方ない。ならいいけど、とこれ以上は体調について触れないことにした。それに僕は、穴川泉美のことを心配したがっている自分自身にも気づいていた。自分の問題から目を背けるのに、それはとっても都合がいいから。そう自覚して、罪悪感と自己嫌悪。ろくなヤツじゃない、自分という人間は。
会話に詰まってしまっていた。何かしゃべった方が穴川泉美の気も紛れるかもしれない、と思い当たって、話題を探す。そういえばさ。
「湊さんのことなんだけど」
穴川泉美がわずかに首を傾げた。
「最近、ちょっと様子がおかしい気がして」
共通の話題といえば、結局ハウスの話くらいしかない。
「おかしいって、どんな? 昨日、絵を描いてたのとか?」
あぁ、確かに、昨日はちょっとおかしかった。あんなに一心不乱に絵を描く湊いろはは初めて見た。
「それもあるけど。なんか、部屋から話し声がしたり、湊さんが下にいるのに、部屋で何かが動いてる気配があったりする気がして」
実は私も、と穴川泉美は目を丸くした。
「いろはが猫でも飼ってるんじゃないかなって勘ぐってた」
「そうなんだ」
猫とはまた、具体的な憶測だ。理由でもあるんだろうか。
穴川泉美の顔から視線をわずかに下に移した。穴川泉美が肩から提げているバッグにでは、金色の猫のチャームが揺れている。穴川泉美の推察の理由がわかったような気がした。
「泉美さんって、猫、好きだよね」
僕のセリフに、穴川泉美は小さくコクッと頷いた。これは、いい話題かもしれない。
「前にも猫のハンカチとかペンとか持ってるの見たし、よほど好きなんだね」
穴川泉美は、今度は大きく頷いた。
「湊さんが猫飼ってたら、触りたいとか思ってるんじゃない?」
でも、穴川泉美の表情はわずかに曇り、続けられた言葉のトーンは下がっていた。
「ダメなの」
何かまずいことでも言ってしまっただろうかと思う一方、何が? と反射的に訊き返してしまって、またうまくなかった、と頭を抱えたくなる。
「猫、触るの」
とっさに意味がわからなかった。しかし、すぐに思い当たった。
「グッズはいいけど本物の猫はダメってこと?」
穴川泉美は少し首を前にして視線を下げた。
「私、猫アレルギーなんだ」
穴川泉美とアレルギーはなんだかピンと来なかった。彼女みたいな明るい人に、苦手なものとか不得手なものがあるっていうのが、僕にはあんまり想像できないせいもある。
でも、穴川泉美の表情を見ていたら、納得できた。誰にだって、見た目からはわからない悩みや抱えていることがある。頷いた。そっか、と相槌を打つ。
「好きなのに触れないのって、ジレンマだよね」
穴川泉美は答えず、窺うように目だけでこちらを見た。
僕は潔癖症だが、アレルギーではない。けど、みなが普通に甘受しているものを拒否せざるをえないそのもどかしさは、痛いほど理解できた。
僕だってあのとき、みんなと同じようにコーラを飲めてたらと、何度思ったことだろう。
「いつか、猫に触れるようにしてあげられたらいいんだけど」
呟いた。数歩歩いて、穴川泉美が隣にいないことに気がついて振り返る。
「どうしたの?」
いやその……と穴川泉美は歯切れが悪い。
「なんでもない」
穴川泉美はマフラーに鼻まで顔を埋め、僕の隣に並んだ。
あぁ、そうか。肝心なことを思い出した。
「知ってると思ってたけど、ちゃんと話したことってないかも」
何を? と訊く穴川泉美の声は小さい。体調が悪くなっているんじゃないかと、やはり心配になる。
「僕、アレルギーの研究をする予定なんだ、大学で」
穴川泉美はぽかんと口を開けていた。
「そんなこと、知らなかった」
やはりそうだったのか。というか、湊いろはも小倉真澄も、きっと僕が社会人を辞めた大学生だということくらいしか知らないに違いない。一つ屋根の下に住んでいるといっても、互いのことは意外と詮索しないし、知らないものなんだと改めて発見したように思った。
「……その」
穴川泉美のまつ毛が長いぱっちりとした目が、まっすぐに僕を見つめていた。
「すごくいいと思う」
こんな風に肯定されたのは久しぶりだった。そう、それこそ、岩井隆史に言われて以来の。
ほんの刹那、疑心暗鬼な感情が芽生えかけ、でもそれはすぐに目の前の穴川泉美の表情に霧散した。いつだってストレートな彼女の言葉だったら、素直に受け取りたいと思った。そう思ったらなんだかこそばゆい感じがして、いつもの笑みを浮かべようとしたがうまくいかなかった。
そんな風に穴川泉美と話しているうちに、ハウスが近づいてくる。穴川泉美の体調は、ますます悪くなっているような気がした。言葉も少なくなっている。自分が持っていた常備薬を考えた。総合風邪薬だったらあったような気がするが……。
ハウスが見えてきて、ジーパンのポケットから鍵を取り出た。穴川泉美を制するように一歩前に出て僕が門扉を開け、ドアに鍵を差し込んだ。
あの、という穴川泉美の声と、コートの裾を引っ張られる感触に気づいて振り返った。
「わかってると思ってたんだけど」
穴川泉美はなぜかかしこまった表情をしていた。わかってると思ってた、と言われても、何もわからず首を傾げてしまう。具合が悪いことだろうか。
穴川泉美は小さく深呼吸し、その瞳にまっすぐに僕の姿を映した。
「私、悟のこと好きだ」
へぇ、そうなんだ、それは知らなかった。
などと言葉の表面だけなぞって機械的に答えそうになってしまい、慌てて自制した。というか、その言葉の意味を数秒遅れて理解した。
まず、ぎょっとした。
それから、年甲斐もなく心臓がばくつき、穴川泉美は何を血迷ったんだとその顔を見ると、彼女は何かに驚いた顔になって固まっていた。
僕が何かしたんだろうかと不安になり、でもその視線が僕が開けたドアの中、つまりは家の中に向いていることに気がついて、僕もそちらに目を向けた。
「……誰?」
穴川泉美が呟いた。
廊下の先のドアが開いていて、ダイニングが見えていた。少なくともこのハウスの住人ではなさそうな、上半身裸で首からタオルをかけた黒髪の男が、冷蔵庫に手をかけたまま目を丸くしてこちらを見ていた。
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