3-2
朝、目が覚めてから顔を洗って髪を簡単にセットして。湊いろはが降りてくる前にそそくさとダイニングに降りていき、朝食の食器類を並べる。これが僕の日課だ。
残念ながら、湊いろはの手伝いをしようとか、そういう親切心ゆえの行動ではない。単純に、他人がべたべたと触った食器で朝食を食べたくないからだ。自分だけが毎朝シリアルを食べるのも同じ理由からだった。シリアルなら、他人が介入する余地がない。
例のごとく、湊いろはが階段を下りてくる軽い足音がした。なんだかいつもより急いている感じがする。おはよう、とあいさつしながら現れた湊いろはは、僕のあいさつなど待たずそそくさと朝食の準備を始めた。なんだか、その表情は少し疲れて見える。
おはよー、と続いて小倉真澄が現れた。おはよう、と返すと、小倉真澄はふわぁと大口を開けてあくびをした。小倉真澄と湊いろはは、すごく似ている。世間からどこかずれているような、ふわふわした感じ。小倉真澄の方が、湊いろはよりも若干気楽に生きているように見えるけれど。
小倉真澄はいつもどおり、寝ぐせのついた前髪をかき上げながら、一つに結んだ髪をふわふわさせて席に着いた。小倉真澄は、無意識にだろうが、自分の髪に度々触れる。前髪や束ねた長い茶髪を指に絡めてはよくくるくるしている。多分、そんなことを気にしているのは僕ぐらいだろうけど。髪には雑菌が多いって知ってから、髪によく触る人は本当に気になる。
続いて、おはよう! と穴川泉美が現れた。彼女はいつも明るくて、人懐っこい。僕なんかにも、何かと気さくに声をかけてくれる。僕が目指す社交性というのは、本来、穴川泉美のようであるべきものなのかもしれない。けど、思うだけで、手本にしようなどとは考えていなかった。穴川泉美はいかにも毎日を謳歌してるOLさんといった感じの女性で、性別どころか人種まで違いすぎる。
こうしていつもどおり、ハウスの住人が揃った。今は全員で四人しかいないが、部屋は全部で六つある。春になればまた入居者がやってくるだろう。
自分のシリアルを用意していたら、視界のすみでばたばたっと何かが動いた。湊いろはが倒しかけたみそ汁の椀を、穴川泉美が押さえたらしい。
「なんかひどい顔してない? っていうかそれ寝間着?」
穴川泉美の物言いはストレートだ。そのせいで敵を作ることもあるんだけどね、と穴川泉美はかつて苦笑していたが、僕にはできないことなので単純に感心したのを思い出す。
なんか、急いでるの? ごめん、なんでもない。なんて穴川泉美とやり取りをして、湊いろはも少し落ち着いたようだった。
今の湊いろはは何かとおっとりしているが、以前はそうじゃなかった。朝から晩まで仕事に明け暮れ帰宅は遅く、朝食をとらない日も多かったように記憶してる。仕事を辞めて、急に性格も生活ペースも一八〇度変わった。そんな湊いろはなので、今日の様子には、以前の会社員時代を彷彿とさせられた。
脱サラという意味では、僕も湊いろはと立場はまったく変わらないわけだけど。僕も、性格が変わって見えたりするんだろうか。
その後の会話で、湊いろはは絵を描きたくて落ち着かなかっただけであることが判明した。それなら、と食器洗いを名乗り出た。いつもは湊いろはに任せていたが、正直なところ、自分で洗った方が気楽でもある。
ありがとう、と湊いろはは大袈裟に頭を下げ、ダイニングを出て階段を慌ただしく上っていった。よほど夢中なんだなと感心する。アドレナリン全開にして何かに夢中になったことなんて、最近あっただろうか。勉強にはもちろん時間をかけているし集中してやっているが、それとは少し、脳の使い方が違う気がする。勉強はもっと、体の中の冷静な部分を研ぎ澄ませてやるものだ。脳裏に唐突にトランプカードのイメージが浮かんだ。ソリティアをやっているときも集中はしているが、もちろん、そんな胸が躍る種類のものじゃない。
子どものような純粋さで何かに夢中になる、そういう経験を最後にいつしたのか、思い出せなかった。
キッチンの戸棚に忍ばせてある使い捨てのゴム手袋をはめて食器洗いを終えた。ついでにシンクの掃除もし、すっきりしたところで気づく。
いつの間にか、共用スペースに湊いろはが戻ってきていた。
リビングのラグにペタンと座り込み、テーブルに置いたスケッチブックに一心不乱に鉛筆を走らせている。声をかけるのも無粋か。
僕はそのまま部屋に戻った。今日は、午前中のうちに研究室へ向かうつもりだった。
三年間の社会人生活で貯金を溜め、僕は今の大学に入り直した。大学に入り直したのもつい最近だったはずなのに、もう卒業後の進路を見据えないといけない時期に来ている。もちろん院に進むつもりだったが、微塵の迷いもないと言ったら嘘になる。いくつになったって、進路なんて簡単に決まるものじゃない。
ハウスを出て、大学へ向かった。大学へは徒歩で通っている。最寄り駅の反対側にあり、ハウスからは徒歩二十五分といったところだろうか。近くはないが、ちょっとしたウォーキングも兼ねるにはいい距離だった。
大学は一月末時点で後期試験も終わっていて、今は完全に春休みだった。もっとも、二年生の後期から研究室に所属しているので、何かとやることは多い。教授や上級生たちの、学会発表と学会誌の準備が次に控えていた。それに、来年度の講義に向けて、読んでおきたい論文や書籍も山のようにある。文系学科の連中は長い春休みをバイトやらコンパやらに費やしているようだが、僕は毎日のように大学に通っている。希望していた免疫学の研究室に入れたこともあり、それもまったく苦ではない。
まだまだ春は遠い。歩いていると、冷たい空気にすぐに額や頬の表面の熱を奪われた。東京はもう一週間以上雨が降っておらず、少し口を開ければ舌先が乾いてしまうくらいには空気が乾燥していた。めくれた唇の皮を舐めて湿らせる。
駅前まで来て、小倉真澄がバイトをしているコンビニの前を通った。ガラスに映った自分の姿は、くたびれた中年男のようだった。コートのポケットに両手を入れて体を縮こませ、人目を避けるように歩いている。若い子から、おじさん、とか呼ばれるようになるのは何歳からだろう。そんなつもりなんてなかったのに、年を重ね続けたらいつの間にか大人になっていた、そんなような気がする。
校門をくぐった。直後、にぎやかにおしゃべりをしながら去っていく女子グループとすれ違う。何が楽しいんだかわからないが、すれ違った彼女たちにはもう春が来ているかのように思えた。春休みの大学はにぎやかだ。吹奏楽部の楽器の音が遠くで聞こえ、サークル棟の前に集まっているテニスサークルの集団もあった。それらを尻目に、僕はキャンパスを突っ切っていく。研究室は、大学敷地の最奥にある。鉄筋コンクリート製の、古いマンションのような建物。昭和の遺物といったような見た目が、僕は嫌いじゃなかった。仲間を見つけたみたいで、ちょっと安心するのだ。
研究棟と呼ばれるその建物の中は、外のにぎやかな学生たちの雰囲気とは対極にあった。薄暗く、掃除もおざなりのリノリウムの廊下。ぱっと見ると、古びた病院のようにも見える、クリーム色の床と壁。すみに置かれたソファには、どこかの研究室の学生が寝袋に入って眠っていた。その奥の方の研究室からは光が漏れていて、何やら紛糾している。どこも忙しい。
階段を上り、二階の奥の研究室へ向かった。ゆっくりと息を吐き出して、ドアに手をかけた。
教授の姿はなかった。室内にいた四名ほどの同級生たちが、ちらと僕を見て視線を逸らした。
同じ研究室の同級生、
彼は交通事故で入院していた。車に当てられて足の骨が折れたと聞いた。問題の車はまだ見つかっていない。ひき逃げだ。
岩井隆史ほどムードメーカーという言葉がぴったりなヤツを、僕は知らなかった。人見知りしないといった点では小倉真澄に、あまり遠慮せず物事をはっきりと口にするといった点では穴川泉美に通ずるものがあるかもしれない。彼の周りには男女関係なく、いつだってたくさんの人がいた。
――ここいいっすか?
大学入学後、一ヶ月くらい経った頃だった。染めているであろう焦げ茶色の髪から覗く人好きのしそうな目が、いつものようにラウンジで一人コンビニ弁当を食べていた僕の目の前にあった。
僕がイエスともノーとも答える間もなく、岩井隆史は向かいの席に腰かけた。食堂からわざわざ持ってきたらしいカレーのトレーをカシャンと置いて、いただきます、とぱくつき始める。どうぞ、というタイミングを逃し、僕は開きかけた口をごまかすようにお茶を飲んだ。
――大久保さんって、会社勤めしてから大学入り直したんスよね?
同じ研究室の同級生たちと会話を交わすことがなかったわけではない。しかし、この話題にこんなにもストレートに突っ込んできたのは岩井隆史が初めてだった。
彼と僕には、十歳近く年の差があった。その差は大きい。僕は昭和生まれで、彼らは平成生まれだ。携帯電話が普及しだしたのは僕が高校生の頃だったから、彼らは物心ついたときから携帯電話やパソコンといったものに触れてきたデジタルネイティブでもある。その辺の価値観や育った環境の差は大きいんじゃないか、と思っていた。少なくとも僕の方は。
――すごいっスね。根性あるんスね。
年を取れば取るほど、真正面から褒められることは少なくなってくる。そんなこと、ともごもごしていたら、岩井隆史はからりと笑んだ。
――いやまじすごいっスよ。
なんとも軽い。軽すぎる。けど、ただチャラチャラしているだけのヤツじゃないことはわかる。じゃなかったら、医学部なんかに現役で入れるわけがない。
――俺、一度大久保さんとしゃべってみたかったんスよ。
――どうして?
警戒心が表に出ないように、あくまで穏やかな声音を意識して訊いてみた。
――面白そうじゃないっスか。
意味がわからなくて反応できなかった。畳みかけるように、岩井隆史は続けた。
――ほかの同級生とは、大久保さん、ちょっと違いそうだなって。
別に僕は。
そう言いかけたが、続きはうまく言葉にならなかった。少し考えて、答えた。
――僕のほかにも、年が離れてる人はいると思うけど。
医学部には浪人生も多い。文系学部に比べれば、年齢層のばらつきは多いはずだった。
――でも、俺は大久保さんとしゃべってみたいと思ったんスよ。
これからよろしくお願いします、と続けられたその言葉だけは、チャラチャラした物言いではなかった。岩井隆史は、ごちゃごちゃ考えていた自分がばからしくなるような、なんとも単純で明るい笑みを浮かべている。薄い唇から白い八重歯が覗いていた。
悪くないなと思った。
そして、そんな岩井隆史が入院したと知り、僕は初めてゼミの集まりをサボったのだった。
――やだなぁ、そんな顔して。
病室に現れた僕の顔を見て、パジャマ姿でベッドに横になっていた岩井隆史はいつもの軽い感じで笑った。
――今日って、ゼミありませんでしたっけ?
あったけど、と続きは言葉にならなかった。岩井隆史は笑っていたが、その目は困惑を隠せず右往左往しがちだった。自分が大袈裟すぎたのだろうか。でも、いくら岩井隆史が笑っても、吊った足はなんとも痛々しい。
――死んだわけじゃないんスから。
でも……でも。
――ひき逃げって聞いて……生きた心地がしなかったんだ、この何日か。
岩井隆史は、またまたぁ、と手をパタパタさせて笑んだ。そうだな、とつられたように僕も笑う。岩井隆史の表情から、ほんのわずか数ミリ秒、笑みが消えたのには気づかないフリをした。
全然大丈夫っスよ、すぐ退院できますよ。岩井隆史はお気楽な言葉を重ねてずっと笑んでいた。
しかし、僕はその翌日もそのさらに翌日も岩井隆史の病室に顔を出した。
出さずにはいられなかったのだ。穴川泉美に訊いたとおり、果物やマンガ雑誌を差し入れた。あざーっス、と岩井隆史が笑ってくれてようやく、僕はほっとできるのだった。
研究室に集まっていた同級生たちは、揃って夕飯を食べに行くという。一緒にどうです? なんて誘ってくれた彼らに、用があるんで、とにこやかに辞退した。社交辞令だろうな、といやでもわかるお誘い文句に乗っかれるほど、僕は神経図太くない。
帰宅して、リビングをそっと覗いた。さすがに湊いろはの姿はなかった。必死に描いていた絵は完成したのだろうか。
食欲はなかった。これから何かを作ってなんて気にもならず、自室にこもって買いだめていたカロリーメイトを頬張った。口の中が途端にぼそぼそになる。飲み物を用意しておけばよかった。食べ終えて、口の中がぼそぼそした状態のまま掃除機をかけた。目に見えないほこりやダニの死骸を、掃除機が吸い込んでいくさまを想像する。さざ波のように細かく立っていた気分がようやく落ち着きを取り戻したように思えた。
いつものように風呂掃除をしてシャワーを浴びる。誰とも顔を合わせないまま再び自室に閉じこもり、ほぅっと息を吐き出す。
今自分は、どんな顔をしているんだろう。
パソコンに手が伸びていた。衝動に抗いきれず、またソリティアをやってしまう。マウスでドラッグすると、カードがシュッと音を立てる。
……クリアできない。
そんな予感は的中して、意地になって一時間ほどゲームを続けたけど、最後は自分の中の執念に抗うように電源を落とした。
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