第3話 クリア ……大久保悟

3-1

 学会発表前の研究室の手伝いで、徹夜で雑務をこなした。なのでハウスに帰宅したのは、翌日の午前十時頃のことだった。

 猛烈に眠かった。しかしそれ以上に、一日風呂に入っていない自分の体のことを考えると虫唾が走る思いでいっぱいだった。髪を、顔を、手を、足を洗いたい。歯も磨きたい。そんな汚い自分にまとわりつく空気を吸うのさえもが気持ち悪い。

 コートを着たまま誰もいないダイニングを突っ切った。午前中のこの時間、ハウスにはもう誰もいないだろうと思ってたら、上階から何やら人の声らしきものが聞こえてきて、続けて慌ただしく階段を駆け降りる足音が近づいてきた。地に足がついていないような、なんとも軽いこの足音は湊いろはに違いない。僕の次に長い、このハウスの古参。

 階段の曲がり角、狭い踊り場で立ち止まる。上階から現れたのは、やっぱり湊いろはだった。長めの前髪の奥の瞳が僕を捉えた。

「今帰って来たの?」

 湊いろはは、疑問形なのに答えを期待していないような物言いだった。なんだか不機嫌そうな顔で、できれば人と会話なんてしたくないと思っているようにも見える。どう考えてもサイズの大きなグレーのパーカーを羽織り、スケッチブックが入っているであろうトートバッグを肩から提げている。彼女が絵を描いているのは知っているが、どこで描いているのかはいまだに知らない。

 狭い踊り場で、湊いろはが降りてくるのを待ちつつ答えた。

「研究室の手伝いがあって」

 そうなんだ。湊いろはは表情を取り繕うように笑って付け加える。

「おつかれさま」

 湊いろはとすれ違い、そのまま階段を上った。だが、さっき聞こえた声が気になった。足を止めて向き直ると、湊いろはも立ち止まって僕を見ていた。

「今、湊さん一人?」

「そうだけど」

 怪訝そうなその顔を見て途端に後悔する。コンビニでアルバイトをしている小倉真澄も、OLをしている穴川あながわ泉美いずみも、もうハウスにはいない時間だ。湊いろはしかいないに決まってる。

 だが、なぜかそのとき、僕は簡単に引き下がる気にならなかった。その、と言葉を続ける。

「湊さん、何か飼ってたりしない?」

 湊いろはは、大袈裟なくらい首を横に振った。ま、まさかまさか!

「ここ、ペット禁止だし」

 湊いろはにつられて笑んだ。そうだね。

「変なこと訊いてごめん」

 これ以上おかしなことを訊いてしまわないように、僕は二階の自室へ向かった。湊いろはの足音も遠ざかっていく。

 さっきの声は空耳だったのかもしれない。なんたって、僕は疲れてるわけだし。

 謝るくらいなら、はじめから訊かなければよかった。

 部屋に荷物とコートを置いて、エアコンのスイッチを入れておいた。部屋が暖まるまでの間に、まずは二階の洗面台で歯を磨く。口の中がさっぱりして、ようやく少しすっきりしたところで手早く顔を洗った。本当は風呂に入りたかったが、風呂掃除をすることを考えて断念した。そんな体力は残ってない。

 部屋に戻って、気休めとばかりに着替えを済ませ、さっさとベッドに向かうつもりだったのに。気がついたら、パソコンの電源を入れていた。パソコンデスクの椅子に、流れ作業のように座ってしまう。

 こんなことをするより、眠った方がいいってわかってるのに。

 パソコンの起動音が寒々しい部屋に響いた。何やってんだって思うくせに、僕の右手は意に反してマウスを操作する。デスクトップにあるショートカットから、Windows OSに標準搭載されているトランプゲーム、ソリティアを起動した。

 ソリティアは、配置されたカードと手札のカードを重ねたり移動させたりして、ハートやスペードなどのマークごとに、1から13の順番にカードを重ねられたらクリアとなるトラディショナルなゲームだ。カードを順番に並べるといっても、手札から移動させられるカードに制限があったりとか、色々細かなルールがあったりするので七並べのように簡単にはいかない。

 部屋にいると、このゲームをついついやってしまう。

 ゲームをクリアできると、カードがキラキラと輝きながらデスクトップを舞う。それを見ながら、またこんなことに時間を使ってしまったのかと徒労感に苛まれる。なのに、部屋にいるとあのトランプの配置が頭の中に浮かんで、気がつくとパソコンの電源を入れてしまう。ゲームをクリアできると、自分にうんざりする反面、なぜかほっとした。またゲームをやってしまった、でも今日もクリアできてよかった、と。一、二回でゲームをクリアできればまだいい。何度やってもクリアできないときというのももちろんあって、そうなるとやめどころを失ってしまう。

 ……やめればいいのに。

 何度も何度も自分自身にそう呟きながらも、僕は今日もマウスでトランプカードを選択し、ドラッグする。



 背中の痛みで目が覚めた。

 マウスを握ったまま、パソコンデスクに突っ伏していた。マウスを覆うように持った右手が痺れ、肩も鈍く痛んだ。またやってしまった、としか思わなかった。こうやって眠ってしまったことは一度や二度じゃない。

 時計を見ると、午後三時過ぎだった。よく四時間も眠っていたものだ。凝り固まった肩をぐるぐると回し、倒れるようにベッドに横になった。だが、体が変な風に固まってしまっていて軋む。寝つけない。

 熱い風呂に入って体をほぐそう。そう思って部屋を出たら、三階の方からまた話し声のようなものが聞こえた。湊いろはの声だ。

 最近、湊いろはの部屋からはよく声が聞こえる。電話でもしているのか、もしくはペットでも隠して飼っているのか。本人に一度ちゃんと訊いてみようと思って実行に移したわけだけど、階段でのやり取りを思い出してため息が出た。あれは、うまくなかった。もっとスマートに、さりげなく訊けばよかった。

 タオルと着替えを持って一階に降りた。眠る前に着替えたばかりだったが、風呂を沸かすならやっぱり着替えたい。

 一階の風呂場は、浴槽がついていてそこそこの広さがある。ドアを開けてみると、つい先ほど誰かが使ったかのように濡れていた。湊いろはだろうか。それとも、浴室が乾燥しにくいだけなのか。

 洗い場のすみ、壁にかけてある風呂用のワイパーをちらりと見た。もちろん、僕が用意したものだ。風呂を使ったあとは壁や床の水気をワイパーで切っておくとカビが発生しにくいので、個人的には積極的にみんなにも使ってほしいのだが、それを押しつけることはさすがにできない。換気扇を回し、これまた僕が用意したバススリッパを履いて浴室に入った。壁や床、浴槽と目に着くところ一面に浴室用洗剤をスプレーし、脱衣所のすみに用意してあるモップでスプレーした個所を丁寧にこすっていく。はじめは面倒だったが、慣れれば風呂掃除も手早いものだった。それに、風呂場というのは、キッチンとトイレに次いで汚れやすい場所だ。やりたくなくても体は勝手に動く。

 こんな調子なので、風呂掃除はすっかり僕の仕事となっている。別にかまわなかった。ほかの誰かが掃除をしようと、結局僕は、自分が入る前にはこの一連の作業をこなすのだから。



 このハウスに住み始めて、かれこれ四年になる。

 大きなもめごともなく、これまで平和にやってきた、はずだ。このハウス一の古株だが、だからといって偉そうにしてきたことはないと思うし、そのせいでほかの住人たちから一線引かれたりだとか、そういうこともなかった、と思う。僕はこのハウスでは、きわめてうまく立ち回れている、きっと。住居としてシェアハウスを選択したのは、自らに課した社会性を養うための訓練のようなものだったので、それがある意味功をなしたとも言えるかもしれない。まぁ、あくまで僕の個人的な見解だけど。

 自分が潔癖症だという事実に気づいたのは、小学校を卒業してすぐ、中学生になってからのことだった。

 中学生になって、学校帰りにいわゆる買い食いができるようになった。といっても、中学生の小遣いなんて限られているし、せいぜいコンビニでお菓子やペットボトルのジュースを買うぐらいのものだったけれど。

 ある日、誰かがコーラを買った。ふざけ半分で、みなで奪い合うように回し飲みが始まった。ペットボトルは僕にも回ってきたけど、僕だけはそれをすぐに別の誰かに回して一歩下がった。その輪には混ざらなかった。もとい、混ざれなかった。自分以外の、しかも大勢の唾液が触れたものを口にするなんて、考えたこともなかったし、想像しただけで嫌悪感が募っていった。

 ――悟も飲む?

 バカ騒ぎもひと段落し、再び何気なく差し出された、キャップの開いたコーラのペットボトル。考える間もなく体が拒否してて、気づいたらそれを全力でなぎ払っていた。

 ペットボトルは泡立った中身をこぼしながら、アスファルトの上に転がった。

 言い訳の一つでもできればよかったのに、とっさに逃げ出してしまった。中学時代の三年間で、そいつらとの間に生じた溝は埋められなかった。たかがコーラ、されどコーラ。

 思い返してみれば、小学生の頃は部活なんてなかったし、友だちと過ごす時間はとても限定されたものだった。中学生になって、部活動やらなんやらで友人たちと過ごす時間が増えて、だから僕は初めてそんな自分の性癖に気づいたのだった。今となっては、気づいていなかった自分が信じられない。

 一度意識してみたら、気になることはほかにもたくさんあった。トイレに行ったあとに手を洗わないヤツ、その手でプリントを前の席から回してくるヤツ、手を洗っても制服のズボンで拭うヤツ、口を覆わずにくしゃみをするヤツ、床に触った手で給食のパンを素手で掴むヤツ。昔からそういったものに嫌悪感がなかったわけじゃない。でも、それらを強く意識しだしたのは、やっぱり中学生になってから。あのコーラの一件が、何かの引き金を引いたような気がする。

 高校生になって、大学生になって、社会人になって。僕は中学時代の教訓をもとに、それらを極力気にしない、または気にしていないような態度を取れるようにはなった。いつだってにこにこするように意識した。誰とでも対等に接して、深入りしすぎないように、細心の注意を払った。おかげで敵は作らなかったが、特別親しい友人というのもできなかった。同窓会には呼んでもらえるが、いつだって、あぁそういえばこんなヤツいたな、というような顔をされた。

 だから、シェアハウスを選んだのだ。

 表面上の付き合いばかりしてきた自分の逃げ場を失わせるために。不特定多数の人間が出入りするシェアハウスだったら、上っ面だけじゃ生活できない。潔癖症にも一石投じることができるんじゃないか、なんて。

 しかし、結果は今までと何も変わっていない。

 結論からいうと、僕はこの四年間、人知れずせっせと掃除をして過ごしてきた。掃除だけはうまくなったと自負できるほどに。不特定多数が出入りするなら、その分、徹底的に掃除をする。僕の本能は、潔癖症の克服ではなくそちらを選択した。そして神経質なほど掃除をしているという事実からみなの目を背けさせるために、僕はいつだってにこにこにこにこし続けた。

 ――そう。

 僕はどこにいたっていつだって、自分の体の外にある世界に一線引いていて、それは今も昔も変わっていないし、変えられる気がしてない。



 シャワーを浴びて自室に戻り、ベッドに横になった。うとうとしていたらいつの間にか夜の六時で、部屋を出たらシチューの匂いが一階の方から漂ってきた。

 階段の電気もつけないまま、一階に降りた。ダイニングは暗く、手探りでスイッチを入れる。キッチンのコンロに大鍋が置いてあった。大鍋の料理をキッチンに放置しておくのは、『好きに食べてください』の合図だ。最近、湊いろはは大鍋の料理をよく作る。肉じゃが、カレー、ハヤシライス。

 買い置きしてあった、レンジで温めるレトルトのごはんを戸棚から取り出した。それをレンジにかけながら、持っていたハンカチタオルで鍋の蓋を掴む。シチューの湯気でメガネが曇った。

 他人が作った料理を食べられるようになったという点だけは、今の自分を評価できるかもしれない。

 といっても、現在ここに住んでいるメンバーの中で、積極的に料理を作るのは湊いろはだけだった。だから自分が本当に進化したのか、それとも自分の次にこのハウスに長い湊いろはが作った料理だから食べられるのか、真偽のほどはわからない。

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