3-4

 不審者。

 とっさにドアを閉めて鍵をかけ直した。

「変質者かな」

 穴川泉美は不安げな表情で、まだ僕のコートを掴んだままだった。少しドキリとし、だがすぐにそれどころじゃないことを思い出す。

「そうかもしれない」

「警察に通報した方がいいかな?」

 ガチャガチャっと内側から鍵が開けられる音がした。ぎょっとしてドアノブを押さえる力を強くしたが、僕があまりに非力なのか、それとも男の力が圧倒的だからか。あっさりとドアは押し返されて半開きになった。

「あのー」

 緊張で固まった僕と穴川泉美に向けられたにしてはあまりにそぐわない、低くて落ち着いた声音だった。濡れ髪に首からタオルといった男の頭がこちらに出された。眉が濃く、見開いたような大きな目が僕と穴川泉美を交互に見つめる。

「すみません、変質者じゃないんで、警察は勘弁してもらえますか?」

 へ、変質者じゃないって。穴川泉美が僕の影に隠れた。

「その格好で何言ってんのよ!」

「いやだって、風呂上がりだし」

 穴川泉美はコートの裾を掴むどころか、もはや僕の背中にしがみついていた。それに気づいて首を巡らせたら、ごめん、と穴川泉美は飛びのくように離れた。

「あー、その……ちょっと待ってて」

 男はささっと家の中に戻った。廊下とダイニングを駆けていき、さらに奥のドアを開け、上階に通ずる階段の下で「いろはー」と声を上げた。

 少し遅れて、転げるように階段を駆け降りてくる音がした。湊いろはと自称変質者ではない男が、何やらごちゃごちゃと言葉を交わす。

「信じらんないっ!」

 そんな怒声を上げたのち、湊いろはが玄関に駆け出てきた。

「とりあえずその……おかえりなさい」



 ダイニングテーブルに僕と穴川泉美が並んで座り、向かい合う形で湊いろはと黒いジャージに着替えた男が座っていた。まるで面接だ。湊いろははなんだかずっと視線をうろうろさせていて落ち着きがなく、対する男の方は余裕があるのかその表情は愉しげですらあった。

 なんなんだ、この図は。

「あの……簡単に説明するとですね」

 湊いろはの話を要約するとこうだ。

 男――レイと名乗った――は湊いろはの友人で、火事で焼け出されて湊いろはのところに転がり込んできた、ということらしい。つっかえつっかえ説明する湊いろはに、レイはいちいちあいの手を入れた。

 そうなんだ、俺、いろはとは付き合い長くってさー。

 もう火事で参っちゃったよー。

 ホテルに泊まるお金もなくてさー。

 仕方なくいろはのところに転がりこませてもらっててさー。

 湊いろはは地味だ。どちらかと言わなくても内向的で、人付き合いが多いようには見えなかった。レイのようないちいち語尾を伸ばす友人……かどうかはわからないが、そのような関係の人間がいるということに単純に驚いた。脱サラしてすっかり浮世離れしてしまった湊いろはも普通の人間なんだ、と妙なところで感心してしまう。

「ここにもうしばらくいさせてもらってもいいですかね?」

 レイはぱんっと手を合わせ、上目遣いで僕を見た。

「いや僕、管理人じゃないですし」

 まぁ、事情も事情だし、湊いろはの客人とみなせば、ハウスのルール的には問題はない気がした。人を呼んではいけないという決まりはないし、湊いろはの部屋にいると言っているわけだし。

 同意を求めるように隣を見たら、穴川泉美は赤い顔でレイをじっと睨みつけていた。顔が赤いのは、もちろん体調のせいだとは思うけど。

「一つ訊いてもいい?」

 穴川泉美の質問に、湊いろはとレイが揃って頷いた。

「二人は付き合ってるの?」

 ふがっと奇声を上げたのは湊いろはだけだった。ま、まさかそ、そんな。その語尾は、レイが湊いろはの首に腕を回したせいで封じられた。

「一応そういうことになるけど、まぁ、そこら辺はちゃんと自重するんでご安心くださーい」

 そこら辺ってなんだ、そこら辺って。

 などと突っ込む気力は失せた。それは穴川泉美も同じらしく、バカらし、と呟いて立ち上がった。

「別に私はかまわないから好きにし……」

 穴川泉美の言葉が切れた。その細い体はがくんと不自然に傾き、その場で膝を折って座り込んだ。



「申し訳ない」

 そう声をかけると、なんてことないって、とレイは軽く笑った。

「腕をケガしてるならしょーがないっすよ」

 高熱で歩けなくなった穴川泉美をお姫様だっこの態で軽々と抱え上げ、レイは階段を上った。穴川泉美のバッグから探し当てた部屋の鍵で、先を行っていた湊いろはがドアを開けて待っている。

 自室のベッドに横になると、ごめんなさい、と穴川泉美は口を開いた。湊いろはが冷蔵庫から取り出したばかりのアイスノンを枕に敷き、僕は持ってきた水のペットボトルを枕元に置いた。

「薬は?」

 レイの質問に、穴川泉美は力なく「風邪薬ならある」と答えた。

「運んでもらっちゃってごめんなさい。ありがとう」

 いろはよりも軽かったから全然大丈夫、なんて軽口を叩き、お大事にー、とレイは部屋から出ていった。何かあったら呼んでね、と湊いろはもそのあとを追って出ていく。意外といいコンビなのかもしれない。

 そして僕は、思いもかけず、穴川泉美と彼女の部屋で、二人きりになってしまった。

 穴川泉美の部屋に入るのは初めてだった。想像以上に、病的なまでに猫だらけだ。窓際に並んだ猫の人形や置きものの群れ、猫柄のベッドカバー、ラグ、カーテン。視線を彷徨わせていたら、ぼんやりした表情で穴川泉美が僕を見ていることに気がついた。女性の部屋をじろじろと見るものじゃなかった、と内心反省し、後ろめたさを隠すように、できるだけ優しい口調で彼女に言った。

「今日はもう外出しないつもりだから。用があったらメールか電話して」

 本当にありがとう。穴川泉美はわずかに笑みを浮かべ、そっと目蓋を閉じた。僕も静かに退室する。

 廊下に出て、腕をさすった。

 ケガをしていて、なんて嘘だった。

 他人を抱え上げるなんてこと、自分にはできない。そう思ったら、とっさに嘘をついていた。忘れようとしても意識せざるをえない胃痛のように、苦い罪悪感が残る。仮にも、自分なんかのことを好きだと言ってくれた女の子だったのに。

 彼女が口にした『好き』が、LikeではなくLoveの方であることは、信じられない気持ちもあったが認めざるをえなかった。今さらながら、よくよく考えてみれば思い当たる節は多々あった。弁当を作ってくれたり、風呂上がりに待っていたようにお茶をくれたり。

 でも、そんなこと、想像すらしていなかったのだ。

 単純に、恋愛なんて頭の片すみにも考えていなかったということもあるし、そんなことに思いも至らないくらい、住んでいる世界が違うと思っていた。穴川泉美は「わかってると思ってたんだけど」なんて簡単に言ったが、それこそ僕のことをわかっていないというものだ。たまたま一つ屋根の下に住んでいるという以外、僕らに共通項なんて何一つない。

 自室に戻った。帰宅してからのバタバタのせいで、コートすら脱いでいないことに気がついた。コートを脱いでカーテンレールのハンガーに引っかけた。

 パソコンの起動音。

 はっとして顔を上げる。部屋に入ってきた直後は暗かったはずのディスプレイに、起動画面が表示されていた。当然ながら、部屋には自分しかいない。

 ぞっとした。

 自分が電源ボタンを押したに違いなかった。無意識のうちに、こんな心境だっていうのに、トランプゲームをやろうとしていたのか、自分は。

 起動処理を続けるパソコンから逃げるように自室を出た。廊下に出て、深く息を吐き出した。どっと上がった脈を落ち着ける。

 どっちみち、バッグをダイニングに置いたままだったし、部屋を出ないといけなかったんだ。

 そう自らに言い聞かせ、階段を下った。



 その後はしばらく、一人でリビングで過ごした。自室に戻るのが怖かった。図書館で入手した資料がバッグにはあったし、退屈することはなかったのが幸いだった。

 湊いろはとレイは、午後七時過ぎに揃ってダイニングに降りてきた。

「夕飯、悟くんも一緒に食べる?」

 湊いろはから声をかけられた。座っていたソファからダイニングの方を見やると、満面の笑みを浮かべたレイが手を振っている。どーもー、と声をかけられ、はぁ、と薄い反応を示すことしかできなかった。存在がバレてしまえば堂々としたものだ。苦手だ、ああいうタイプは。

「カレーを作ろうと思ってるんだけど。イズミンの分も作るし、どう?」

 夕飯の用意などもちろん何もしていなかった。穴川泉美に「今日はもう外出しないつもりだ」と伝えてしまったし、そもそも夕飯のことなど頭になかった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 僕の言葉に、湊いろはは笑んだ。じゃあちょっと待っててね、とキッチンに向き直った湊いろはの元に、読んでいた資料をバッグにしまってから向かった。

「泉美さんの夕食なら、お粥とかの方がいいと思う。小麦粉は消化にあまりよくないし」

「小麦粉?」

「カレーのルーに使われてるんだよ。お粥は僕が作る」

 戸棚から、このハウスに備えつけの土鍋を取り出した。ありがと、と湊いろはは言って、まな板を出して使う野菜を並べ始めた。

 お粥作りは基本的に米と水の用意さえできればあとは火にかけるだけで、あまりやることがない。土鍋の様子を観察しつつ、規則正しいテンポで玉ねぎを切る湊いろはを横目で見た。湊いろはは手際がいい。料理をやるようになったのは一人暮らしを始めてからだそうだが、このハウスでは一番の腕だろう。僕はお粥くらいならともかく、料理は全般的に得意ではなかった。野菜ならまだしも、生の肉とか魚に触れることにどうしても抵抗があるのだ。やれなくはないが、メンタル的にかなりの葛藤を強いられるので無駄に時間がかかってしまう。

 湊いろはが野菜を煮込む段になり、僕の方のお粥はでき上がった。イズミン食べられるかなぁ、とお粥を覗き込んだ湊いろはに、持ってってもらえないかと頼んだ。

「悟くんが作ったんだから、悟くんが持っていけばいいじゃん」

「寝ている女子の部屋に入るのはどうかと思うけど」

 あぁ、そうか。湊いろははすんなり引き下がって了解した。

「じゃあ、カレー見ててね」

 土鍋をトレーに乗せ、パタパタと階段を上っていく。途中で転ばなければいいが、といつも思う。

 八時近くになってカレーができ上がった。湊いろはがカレーを作っている間、ダイニングテーブルについていたレイは一言も発さず、観察するように湊いろはの姿を目で追っていた。恋人のことをつい目で追ってしまうのか、とも思ったけど、その目の色は違うように思えた。ゲームか何かを愉しんでいるとか、肉食獣が獲物を狙っているとか、そういうときのもののよう。ふいに、僕のコートの裾を掴んでいた穴川泉美の顔が脳裏に蘇って動揺した。……少なくとも。レイの目は、穴川泉美の目とは違う種類のもの。

 やっぱり、どう考えても二人の組み合わせには違和感がある。

 そう、生きている世界の速度が、はたから見ていても違いすぎる。レイはとてつもなく頭の回転が速い。なぜだかそう確信できた。そして一方の湊いろはは、頭が悪いというわけじゃないが、隠居老人のようなゆったりとした毎日を送っていて、考えることを放棄していた。そもそもこの一年、湊いろはが休日や夜に出かけたのなんて見たことがない。二人はネット上で知り合った、とでも言うんだろうか。あのいろはが、オンラインだとアグレッシブになるとか?

 考えれば考えるほど拭えなくなっていく不自然さを抱えたまま、ダイニングテーブルを三人で囲った。すると、レイはこれまでの沈黙が嘘のように饒舌になった。

「悟さんって、大学生だって聞きましたよ。一度社会に出てからもう一度大学に通うなんて、根性ありますね」

 レイはペラペラと休みなく淀みなく話しかけてくる。その口調はどことなく岩井隆史のものにも似てて、余計にこちらから質問する気力が失せていった。やっぱり苦手だ。

 一方、湊いろはは、そんなレイの隣で黙々とカレーを食べ、僕とレイの様子を、目玉をキョロキョロと動かして窺っている。こっちはこっちで、やっぱり変だ。

 カレーを食べ終わってもレイの話は終わらなかった。人の話を聞くことには慣れているつもりだったが、レイのテンションは無駄に高く、苦手意識も相まって相手をするのに疲れてきた。そもそも今日の僕は、いつも以上にローテンションなんだ。

 適当に話を中断させてそろそろ部屋に戻ろうかと思っていたところで、玄関の方から音がした。

 ダイニングに小倉真澄が現れた。ずっと浮かない顔をしていたいろはが、初めてその顔を少し明るくした。

「おかえりー、マスミン」

 そう迎えた湊いろはの頭を撫でながら、ただいまー、いろはちゃん、と返した小倉真澄は、僕を見て、そしてレイに気づいた。

「どーも」

 小倉真澄は警戒心なんてものは持ち合わせてないのか、レイが誰なのかを尋ねる前に頭を下げて自ら名乗った。

「小倉真澄です。悟くんの友だちですか?」

 レイのおしゃべりに辟易していた僕は、意地悪く「湊さんの彼氏だって」とレイを紹介してやった。小倉真澄の丸い目が飛び出るかと思うくらい見開かれる。

「何それ何それ何それ!」

 湊いろはとレイに掴みかからんばかりの勢いの小倉真澄をダイニングに残し、僕は自室に戻ることにした。

 なんだか長い一日だった。

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