3-5

 翌朝、穴川泉美は朝食の席に現れなかった。

「熱があるから会社休むって」

 穴川泉美の様子を確認した湊いろはがそう報告してくれた。

 穴川泉美のいつもの席、つまりは僕の正面のダイニングテーブルにはレイがいた。小倉真澄とも親しげに話をしていて、昨晩僕がいなくなったあとに仲良くなったであろうことは想像に難くない。

 穴川泉美のことやレイのこともあり、大学のことはすっかり頭の奥の方に追いやられていたけど、朝になって現実に引き戻された。今日も学会発表の準備や学会誌の作業がある、はずだった。体も気持ちも重い。いっそ穴川泉美に風邪を移してもらおうか、なんて不謹慎なことまで考えてしまう。

 いつもどおり、小倉真澄はコンビニのバイトへ向かい、湊いろははレイを置いてスケッチブック片手にハウスを出ていった。残されたレイは湊いろはの部屋に、僕は自室に戻った。どうしても、急いで大学へ行かなくてはならないというわけではない。昼までに向かえばいいだろうと結論づけ、まだ目を通してなかった論文を読むことにした。

 控えめにドアがノックされたのは、午前十時十分だった。

 レイかと思い、何も考えずにドアを開けた。

 立っていたのは、ジャージ姿の穴川泉美だった。顔を大きなマスクで覆っていて、目蓋は熱のせいか少し腫れぼったい。ノーメイクなのか、まつげのボリュームがいつもより少なく思えた。

「昨日はごめんね、倒れたりして」

 それで、あの。穴川泉美はまだ何か言い足りなそうだった。暖房がきいていない廊下は思いのほか寒い。かといって、自分の部屋に入れるのもなんだか考えものだし。

「下、降りる?」

 ダイニングに降りた。朝食はまだだというので、ホットミルクを渡してやった。いつもと関係が逆だ。ありがとう、と穴川泉美は柔らかく笑んだ。その笑みに、昨日のセリフが頭の中でリフレインした。

 ――私、悟のこと好きだ。

 気まずい。罪悪感もついでに蘇る。

「……そういえば、腕」

 ホットミルクのカップを両手で持ったまま、穴川泉美は窺うような視線を僕に向けた。

「ケガしてるって聞いたんだけど」

 もう大丈夫、心配かけてごめん。

 そうにこやかに答えることもできた。けど、心から心配してくれている様子の穴川泉美を見ていたら、罪悪感に負けた。まっすぐな彼女に嘘なんてつけない。

「ごめん」

 頭を下げて言葉を続けた。

「嘘なんだ、それ」

 顔を上げると、穴川泉美は少しポカンとした表情で目をまたたいていた。

「じゃ、腕はなんともないの?」

 あ、もしかして。なんて穴川泉美は軽く笑う。

「私が重そうだから運びたくなかったとか?」

 静かに首を振った。違う、そうじゃない。

「潔癖症なんだ」

 自分でも驚くくらい、その言葉はするりと口から出てきた。

「他人を抱え上げるとか、その……無理な気がして」

 ホットミルクを飲み終えたカップを置いて、穴川泉美はくすりと笑った。深刻な顔してるから何かと思った、と続ける。

「そんなこと、わかってるよ。いつも悟のこと見てたんだから」

 あまりにストレートな言葉に、瞬時に適切な言葉は見つからなかった。何かを訊かなきゃいけない気がするのに。

 でも、何を?

「いいよ、返事は急いでないから」

 穴川泉美はゆっくりと、子どもを寝かしつけるような口調でそう言ってから、一度外したマスクをつけ直した。マスクの紐を耳に引っかけるその華奢な細い指に、視線が釘づけになった。まとめた髪の束の下から覗いた白いうなじにまでドキリとする。

「……あのさ」

 改めて真正面から見つめられ、慌てて姿勢を正した。後ろめたい気持ちを隠すように、何? と勢い込んで訊き返す。

「悟に一つお願いがあるんだけど」



 風邪薬がなくなったので薬があれば分けてほしいと頼まれたが、僕の部屋にあった風邪薬は使用期限を過ぎていた。それなら自分で買いに行く、と立ち上がった穴川泉美を制し、僕が代わりに薬を買いに行くことにした。

 ハウスを出て、玄関の鍵を閉めてようやく呼吸が楽にできるようになった。ずっと息を止めていたかのように鼓動が速かった。

 自分が穴川泉美のことを意識しているということは、抗いようのない事実だった。

 なんともまた、調子が良すぎる。自己嫌悪をまた積み重ねてしまう。

 自分には精神的に、何かが足りてない。他人との溝を常に感じているくせに、誰かに寄りかかりたくて仕方がない。このままもしも穴川泉美と付き合うなんてことになったら。きっと僕はまた、彼女に寄りかかってしまうのが目に見えていた。ごくごく普通のOLのようでいて、猫にはけっして触れられないのに猫グッズを集めることをやめられない、どこか危うさのある穴川泉美。僕の潔癖症のことをわかっているなんて言っていたが、正直、嬉しさよりも何をどうわかっているんだという疑問の方が勝ってしまった。僕の何を知っているんだと。軽率に、付き合うなんてできない。下手なことをしたらどちらも潰れてしまうような気がする。

 ドラッグストアは駅の向こうまで行かないとなかった。ハウスを出て少しして、小倉真澄が働いている駅前のコンビニが薬局も併設してて、風邪薬も売っていたことを思い出す。薬剤師が常駐しているとかで、便利になったものだ。色んな雑念を振り払うように小走りでそのコンビニへ向かった。

「いらっしゃいませー」

 テンプレートどおりのあいさつをレジから僕に向けたのは、小倉真澄その人だった。

「あれー、悟くんじゃん」

 薄緑色の作業服のような制服に身を包んだ小倉真澄は、長い髪を一つに束ねていた。働いている小倉真澄を見るのは久しぶりだった。

 風邪薬を選び、小倉真澄の待つレジに持っていった。

「もしかして、泉美ちゃんの風邪薬?」

 財布から金を取り出しながら頷いた。

「早く良くなるといいね」

 風邪薬のバーコードを読み込む、小倉真澄の右手の人差し指には絆創膏が貼られていた。それが朝からあったのかは覚えていなかった。

「おっちょこちょいで困っちゃうよ」

 僕の視線に気づいたのか、小倉真澄は苦笑しながら絆創膏をそっと撫でた。

 お会計は八四〇円になります、千円からお預かりします。流れるような型どおりのセリフだった。ふいに話したい衝動に駆られ、台本どおりのセリフを遮るように、小倉さんは、と訊いた。

「コンビニ以外のバイトはやらないの?」

 レシートと一緒におつりを僕に渡しながら、そうだな、と小倉真澄は答えた。

「できることをちゃんとやりたいから、今はコンビニしかやらない」

 ありがとうございましたー。小倉真澄が一日に何回も口にするであろう、その言葉を背に店を出た。

 できることをちゃんとやりたい。

 小倉真澄の言葉が脳内でくり返される。できること。できること。

 僕にできることは何だ。

 ハウスに戻る道中、携帯電話で研究室の同級生の一人に電話をした。もしもし、と身構えたような雰囲気の返事があった。

「昨日、学会のリハーサルがあったって訊いたんだけど」

 電話の相手ははっとしたように息を飲み、そうですけど、とためらいがちに答えた。

「連絡いってなかったみたいで、すみませんでした」

「別にいいよ。それより、資料とかあれば見せてほしいんだけどいいかな?」

 もちろんです、なんかもう、本当に……。電話口で、相手がへこへこしているさまが想像できた。それだけで十分だ。

「あと、僕、今日は都合が悪くて研究室に行けそうもないんだ。ほかの人に伝えてもらってもいいかな?」

「了解しました」

「申し訳ない。よろしく頼みます」

 通話を切った。心の中で、トランプカードが動いた。あと少しでクリアできそうな、そんなような感触があった。



 ハウスに戻ると、リビングで穴川泉美がテレビを見ていた。起きてて大丈夫なのか訊くと、だいぶ楽になったと笑んだ。熱も下がってきたという。

 グラスに水を注ぎ、買ってきた薬と一緒に渡してやった。

「ごめんね、こんなこと頼んで。ありがとう」

 頭を下げた穴川泉美に、別にいいよ、と返した。これくらいは、本当になんでもない。

 ――それよりも。

「訊いてもいい?」

「何を?」

 病人に訊くようなことじゃないかもしれない、という考えがよぎった。でも、どうしても今、確かめておきたかった。

「どうして僕なの?」

 穴川泉美の答えは早かった。

「猫みたいだから」

 その答えはちょっと、想定外だった。単純なようでよくわからない。顔のことか、それとも中身のことか。

 結構真剣に悩んでいたのに、穴川泉美はクスクスと笑いだす。僕はようやく思い当たった。彼女にとっての猫とは。

 触りたくても触れないものだ。

 彼女の正面に回って、その瞳を見つめた。茶色がかった黒目に僕が映る。ソファの前に膝立ちになり、座っている彼女に右手を差し出した。

「握手、してもらえませんか?」

 穴川泉美の顔から笑みが消え、困惑したものに変わった。僕の顔と右手を何度も見比べている。そして、彼女は何かに気づいたのか、スッと腰を浮かせた。

「手、洗ってくるよ」

 ソファから立ち去りかけた穴川泉美の右手。それにとっさに手を伸ばした。

「……いい、このままで」

 穴川泉美は呆けたような表情でこくんと頷き、僕と握手をしたままソファにストンと腰を下ろし直した。

 穴川泉美の手は、当然のことながら僕の手よりも小さく、色は白く、熱のせいだろうが異様に熱かった。透明なマニキュアを塗った爪はやや尖り気味で、僕の手の甲にわずかに食い込む。ぎゅっと触れ合った手のひらは徐々に湿り気を帯びてきて、僕の全身にはゆっくりと鳥肌が広がっていった。

 悪寒。

 冷や汗が額に浮かぶのがわかる。歯の根が浮いたようになり、動悸がして、吐き気がこみ上げてきた。血管がドクドク鳴る。わずかに目眩までしてきて、視界がくらりと傾き、回り始める。

 情けなかった。

 普通の女の子と、ただ手を握っただけ。それだけで、こんな状態になるなんて。

「大丈夫?」

 穴川泉美に顔を覗き込まれ、奥歯を噛んだ。言葉を返す代わりに、不安げな表情をした穴川泉美の手を握る力を強めた。僕にだって、意地くらいある。くらくらする世界の軸を、この手で取り戻すくらいしたい。

 力を入れすぎたのか、それとも彼女の体温に慣れたのか。段々と二人の手のひらの境界線が薄くなっていくような感じがした。手のひらの感覚が、徐々に徐々になくなっていく。するとこみ上げていた吐き気が治まり、いつの間にか動悸も感じなくなっていた。強張っていた体から、力がすぅっと抜けていく。

「……少し、痛いかも」

「ごめん」

 慌てて穴川泉美の手を握る力を緩めた。二人の手の間に隙間ができ、空気が通ってすっとした。僕は再び、でも今度はそっと優しく、彼女の手を握った。

 僕の中で、何かがスッと動いた。

 この感覚は、似ている。そう、ソリティアをクリアできると確信できたときの、あの予感めいた感覚と。

 泉美さん、と彼女の名を呼んだ。はい、とかわいらしい返事をもらえて、体の奥がじんわり温かくなった。悪寒すら覚えたはずの、僕の手に触れる熱が、感触が、今はとても愛おしいものに変化していた。

「その……まずは、友だちからでもいいですか?」

 穴川泉美は少しの間のあと。ぎゅっと僕の手を握り返してくれた。

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