第5話 収束 ……再・湊いろは

5-1

 悟くんのひと言で、場の空気が一瞬で凍りついた。

 ……あは。

 沈黙に耐えかねたマスミンが場を和ませるように笑った。

「またまたご冗談をー……」

 でも、悟くんの鋭い一瞥で押し黙る。おかげで、私にも冗談でも何でもないってことがわかった。

「どうなんだ?」

 誰もピクリとも動かない。時計の秒針の音が響き、ハウスの外を走り去る車のエンジン音がはっきりくっきり聞こえて遠ざかった。沈黙。

 ……なんなんだ、この状況。というか、悟くんが言っていることは本当なんだろうか。

 先週この近くで起こった殺人事件。三原孝が死んだ事件のことに違いない。それは私もニュースで確認していた。けど、それきり怖くなってニュースを見るのをやめてしまった。

 だってだって!

 のは、三原孝が殺されたまさにその日だったのだ。

 もし自分が指名手配とかされてたら? ……あーもー無理無理! 考えたくもない! なんて最悪のシナリオを想像しながらこの何日かは心臓バクバクの内心ヒヤヒヤで過ごしてきたわけで。まさか、私の部屋に図々しく転がり込んでいたレイこそがその容疑者だったなんて、誰が想像できるかっつーの!

 硬直した世界の中で、腕組みをして悟くんと対峙していたレイがゆっくりと前傾姿勢になった。テーブルに広げられた二枚の紙をじろじろと見て、そして。

 にぃっと口角を上げて笑う。お得意のジャック・オ・ランタン。

「へぇ」

 レイが発した言葉はそれだけだった。レイの脇から、私とマスミンもおそるおそるその写真を覗き込んだ。

 確かに、レイによく似ていた。すごく、よく。髪型も、輪郭も、着ているダッフルコートの色も形も何もかも。

 固まった空気を解すように、悟くんがわざとらしい咳払いを一つした。

「これは、現場マンションを出ていく男を捉えた防犯カメラの映像だそうだ。最近の防犯カメラってこんなに鮮明に映るんだって知って、ちょっとびっくりした」

 余裕がある物言いに反して、悟くんの表情は見たこともないくらいに強張っていた。こっちにまで緊張がビリビリ伝わってきて体の表面が痛い。

「これは、君なのか?」

 悟くんの再びの質問に、二度目の沈黙が降りてきた。

 レイはジャック・オ・ランタンの笑みを浮かべたまま、視線を上げる。

「そうだけど?」

 分厚い氷にヒビが入ったような衝撃が狭いダイニングに走った。

 思わず体を引いたイズミンがガタッと椅子を鳴らす。じゃあ、と悟くんが言葉を続けようとした。けど、続かなかった。悟くんが続けなかった言葉の先は想像できる。

 ――君が殺したのか?

 弾かれたように悟くんとレイがほぼ同時に立ち上がった。しかし、悟くんは中腰のまま、ピタリとその動きを止めた。イズミンがひっと短く悲鳴を上げる。いろはちゃんっ! とマスミンが悲鳴を上げた。

 そして私は。

 レイのジャージの腕がぐっと首に回され、動きを封じられていた。カチッと何かを引っかけるような音もして、こめかみに何か冷たくて固いものを押し当てられる。

「妙な真似したら、こいつを吹っ飛ばすぞ」

 なんつって。

 私の顔のすぐ隣で、レイがジャック・オ・ランタンの笑みを浮かべているのがわかった。ほんの少し、首を動かした。視界のすみに黒いものが見える。なるほど。

 吹っ飛ぶのは、どうやら私の頭らしい。



 馬鹿な真似はよせ、と刑事ドラマさながらのセリフを悟くんが吐いた。イズミンとマスミンは顔面蒼白で完全に硬直してしまっている。レイは私のこめかみに拳銃を押し当てたまま、みなをぐるりと見回して、ははっと声高に笑った。

「そんなにビビんなって」

 拳銃片手にそいつは無理な注文だ。

 まぁまぁ座って、とレイは空いている手で労うように悟くんを促し、逆に自分は私を引っ張って立ち上がった。レイの腕が首に喰い込んでうげってなる。苦しい。

「俺さ、みんなに訊きたいことがあったんだ」

「……訊きたいこと?」

 おそるおそる訊き返した悟くんに、うん、なんてレイは明るく頷く。

「飲み会開いてくれて助かったわー」

 レイはカラカラと笑う。完全にこの場をおちょくっている。蹴りの一つでも喰らわしてやりたい心境だったけど、それで頭吹っ飛ばされてもかなわないのでぐっと堪える。

 じゃあまずは……とレイは空いている手を前に突き出し、イズミンを指さした。

「イズミン、君から」

 びくりとしたイズミンをかばうように悟くんが立ち上がりかけた。が、レイは私を拘束したままさっと体をひねると、今度は悟くんに素早く銃口を向けた。

「おっと、動かないでね」

 今なら私には銃口が向いてない。蹴り飛ばせるか? いや、悟くんが危ないか。

「だぁいじょうぶ、愛しのイズミンには何もしないから」

 悟くんがレイを睨みつけつつも下がったのを確認し、レイは私のこめかみに拳銃を戻した。そしてイズミンに改めて向き直る。

「じゃあ改めて。イズミンこと穴川泉美さん」

「な、何?」

「コンビニの制服を着た男にぶつかった、って話、マスミンとしてたと思うんだけど。覚えてる?」

 イズミンはこくこくと頷いた。

「すごい勢いで、謝りもしなかったからすごく腹が立って」

「それ、いつのこと?」

 えっと……。イズミンは壁のカレンダーを見て日付とおおよその時刻を答えた。頭痛がして会社を早引きした日だったから、と付け加える。その答えに満足したらしい。ありがとう、とレイは歯を見せて笑んだ。

「じゃ、次はマスミンこと、小倉真澄くん」

 青い顔をしていたマスミンが、面白いくらいに肩をビクンとさせた。

「だーかーらー、そんなに怯えるなっての」

「すみません、私、拳銃見たの初めてなんです」

 無駄にまじめなマスミンのセリフ。大丈夫、ここにいるみんな、こんなもの見るの初めてのはずだから。

「……で、今イズミンが教えてくれた日付と時刻に、マスミンのコンビニで働いていた人のシフトって調べられたりする? 駅前のバスロータリー側のコンビニね」

「多分……できると思う」

「今すぐできる?」

 マスミンは赤べこみたいに頭をコクコクした。

「多分、今の時間なら店長さんがいるから、電話すれば」

「じゃあ、その日時で休憩していた人の名前、教えてもらえるかな?」

 マスミンはちらっと私の顔を見て、覚悟を決めたように頷いた。

「電話してもいい?」

「もちろーん。あ、一一〇番にかけたら吹っ飛ばすからねー」

 銃口で私の額をぐりぐりしてるレイに、わかってますわかってます! って泣きそうな顔になってマスミンはその場で電話をかけ始めた。あ、店長ですか? 小倉です、すすすすみません、じじ実は……。

「じゃあマスミンが電話している間に。イズミンの隣の、悟くんこと大久保悟くん」

 レイはペースを崩さず指名した。睨みつけてくる悟くんなど一向に気に介さない様子だ。

「この近くで、友だちがひき逃げされたんだよね? 具体的な日にちを教えてくれないかな?」

 悟くんの眉間に深いしわが刻まれる。

「なんでそんなこと、」

「いいからいいから」

 私のこめかみにさらにぐっと拳銃が押し当てられたのを見て、わかったから、と悟くんは観念したように日付を答えた。イズミンがさっき口にした日付の二日前だ。

 マスミンは青い顔でまだ電話していた。緊急なんです、すすすみません、理由は今度せせ、説明し、しましますから、しし至急なんで、お手数おかけかけまくります! なんて舌を噛みまくっている。

「じゃあ最後に、いろはこと湊いろはさん」

 拳銃を押し当てたままの体勢で、レイが至近距離で私の顔を覗き込んできた。吐息がかかるくらいに近い。ってか酒臭いよ、あんた。

「……といっても、いろはに訊くことは何もないんだよね」

 レイはぱっと私から手を離した。人質解放! かと思いきや、さっとその腕を伸ばして拳口を悟くんに向けた。悟くんがびくりと体を強張らせる。

「いろはちゃん、悪いけど、部屋からカメラ、持ってきてもらえるかな?」

 あのカメラ――私が、三原孝の部屋から盗み出したカメラ。

 硬直したイズミンと悟くん、そして軽い口調で電話し続けているマスミンの視線を受け。私は一つ頷いてダイニングを駆け出した。電気もつけないまま階段を駆け上り、二度ほど段を踏み外しかけたけどなんとか一眼レフのカメラを引っ下げてダイニングに戻ってこられた。この程度の階段の上り下りで息切れ。

「おつかれー」

 じゃ、そこに。レイに指示されるまま、ダイニングテーブルにカメラを置いた。

 すると、レイは胸元のお守りから片手で器用にSDカードを取り出した。カメラに入れろということらしい。拳銃が悟くんに向けられたままなので、素直にカメラを操作した。

 小さなディスプレイに、SDカードに納められている写真が表示される。

「写真を見ていけばわかるさ」

 マスミンはまだ電話をしているので、私とイズミンと悟くんで小さなディスプレイを覗き込んだ。

 写真は古いものから順番に表示された。なんてことない風景写真が数枚続き、そのあとは人混みを撮影した写真ばかりになった。誰かを隠し撮りするようなアングルのものが続く。隠し撮りの対象者は、数枚おきに変わった。

 あ。イズミンが小さく声を上げた。悟くんもはっとしたような気配があった。私の頬はカッと熱くなる。でも、私は写真を送り続けた。

 まだ『おしゃれ』の概念を捨てていなかった頃の私と、彼が写っていた。腕を組んで、ホテルの入り口に消えていく。

 ――三原孝って知ってるか?

 会社を辞めて、一年以上経っていた。彼との関係はとっくに過去のものとなっていた、はずだった。なのに、彼から電話があった。

 ――私立探偵だそうだ。写真を持ってるって言われた。僕と、湊さんが写ってる。

 なんで今さら。わからない。別の不倫調査をしていてたまたま写したって。

 ――飲み屋で声をかけられたんだ。あいつ、俺の顔を覚えてて、それで声をかけてきたんだ。バラまかれたくなきゃデータを買えって。……どうしてくれるんだよ。あんな昔のことで、僕の家庭がめちゃくちゃになっちまう。

 そんなこと私に言われても、というのが第一感想だった。次に、情けない、と思った。その男がじゃない。こんな男に惚れていた私自身が、だ。

 ――私がなんとかするから。

 彼が名刺をもらっていたので、三原孝の住所はすぐにわかった。偶然にもこのハウスから徒歩圏内だった。スケッチをしに行くついでに何度もそのマンションの近くを通って下見した。オートロックで表向きはセキュリティがしっかりしていそうだが、空き地と隣接していて低い柵を乗り越えればマンション敷地内には簡単に侵入できそうだった。しかも、三原孝の部屋は一階で、窓は年中開け放たれていた。平日の白昼の住宅街というのは、意外と人目につきにくい。私は難なく三原孝の部屋に侵入し、そしてカメラごとデータを盗むことに成功した。

 その写真データをレイに奪われ、脅されていたというわけである。

 私の不倫現場を押さえた写真は終了し、再び別の人間の隠し撮りに戻った。にわかに血が上った頭はなんだかじんじんとしていて耳が熱く、イズミンと悟くんのそばから今すぐにでも逃げ出したい気分だった。

「続けて」

 レイの言葉に、私は写真を送り続けた。写真はどれも男女を映したものばかりだ。三原孝は、不倫調査ばかりをしていたんだろう。その枚数は膨大だった。同じような写真ばかりが続く。さっきの私の人生の汚点写真を、悟くんとイズミンに見せたかっただけじゃなかろうな、とレイを疑い始めたまさにそのとき。

「あっ」

 短く悟くんが声を上げる。

「止めて!」

 との声に、私は写真を送る手を止めた。

 勢いよく走り去る車の連写だった。夜間の写真だ。車体の色はわからないが、フラッシュの光に照らされた運転席の男の顔は若い。車が走り去って赤いテールランプが遠ざかり、路上には足を抱えてうずくまる男性が残されていた。

「岩井隆史……」

 悟くんが呟いたのと、マスミンが電話を切ったのはほぼ同時だった。

「レイに言われた日時で休憩を取っていた人は誰だかわかったけど……」

 カメラを持った悟くんに、レイがマスミンをあごでしゃくった。悟くんがカメラを手渡す。

「え、何?」

 困惑した表情のままカメラを受け取ったマスミンは、眼球が飛び出そうなくらい目を見開いた。

「クマ野郎……」

「クマ野郎?」

 首を傾げたレイに、マスミンは慌てて付け加える。

「今のはあだ名で、本名は長浦大志。あ、ほら、今調べた、休憩を取ってたのもこの人で――」

 レイの表情が変わったのに気づき、マスミンが続きを飲み込んだ瞬間。

「……っしゃあああぁああ!」

 レイは拳銃もそのままに万歳し、全力で咆哮した。

 私たちは揃ってぎょっとして硬直し、一方のレイは大きな笑みを浮かべてまるで踊るようにくるっと体を反転させると再び私に銃口を向けた。

「みんなありがとう!」

 そしてカチリと引き金を引いた。

 誰かが悲鳴を上げる間もなく、ぱんっと乾いた音が響いた。

 マスミンが椅子ごとひっくり返り、頭を抱えたイズミンをかばうように悟くんが抱きしめ、そして私は尻もちをついて天井を仰いでいた。

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