4-2

 レイは話し上手で、物知りだった。前世は役者で、科学者で、貴族だそうだ。最終的に、なんだかとってもすごい人みたいだってわかったから、いろはちゃんの彼氏として認めることにした。いろはちゃんのこと泣かすなよ!

 そんなわけで、昨日の夜は遅くまで、いろはちゃんとレイとダイニングでしゃべってて、眠るのもいつもよりも遅くなってしまった。朝起きたのも、おかげでいつもより三十分以上遅い。夢は面白いくらい見なかった。

 洗面所で適当に顔を洗って、水でならした寝ぐせの直りきってない髪を適当に束ねて、二階の部屋からダイニングに降りた。泉美ちゃんの姿はなくて、代わりにレイがいた。いろはちゃんと悟くんはいつもどおり。

「熱があるから会社休むって」

 泉美ちゃんの様子を見に行ったいろはちゃんがそう報告した。泉美ちゃんが風邪をひいて会社を休むなんて、初めての気がする。そんなに付き合いが長いわけじゃないけど、少なくともこのハウスに泉美ちゃんが越してきてからはそうだ。そう考えると、泉美ちゃんって、意外とまじめな性格してるよね。

 ちなみに、私は自分でも驚くくらい風邪をひかない。物心ついてから、病気で学校やバイトを休んだこと、実は一度もない。なんとかは風邪ひかないっていうし? なんて誰かに言われたこともある。でも、まったくひかないわけじゃない。

 いつだったか、今日は朝から暑いなぁって思ってたら、実は三十八度の熱があった、なんてことがあった。足がふらふらしてておかしいって、先生に無理矢理保健室に連れてかれたんだっけ。こんなに熱があるのにしんどくなかったの? って保健の先生に不思議がられたのを覚えてる。

 なんて話を朝食を食べながら披露したら、レイが笑った。

「バカは風邪ひかないんじゃないんだよ、風邪ひいてても気づかないんだよ」

「あんた笑いながらひどいこと言うね」

 いろはちゃんが呆れた表情でレイを見る。でも、私はなるほどなるほど、って目からウロコが落ちた気分になった。なんか、納得いった。さすがレイだ。前世のバリエーションがある人は色々知ってるんだな。

 朝食を食べ終えて、ぼうっとしてたらハウスを出る時間になった。いつもは泉美ちゃんと私が同じような時間にハウスを出ることが多いのに、今日は一人ぼっち。ちょっとさびしい。って、私はいつからこんなにさびしがり屋になっちゃったんだろう。いろはちゃんに彼氏ができたからかも。人肌恋しい季節? ま、私はここ数年、ずっと独り身だけどさ。

 いってきまーす、って泉美ちゃんの分まで明るく声をかけて、私は一人ハウスを出た。



「なんだ、その頭」

 今日の午前中のシフトは駅前のコンビニだった。控室には、休憩時間でもないのにパイプ椅子でふんぞり返るクマ野郎がいてちょっと身構えた。けど、そんな態度を取ったらどんな難癖つけられるかわからない。

 クマ野郎がじろじろって私の頭を見てるから、にへらっと笑って前髪をくりんと指に絡めた。

「寝ぐせって、なかなか直んないよね」

 次の瞬間、何かが飛んできて避ける間もなく右肩にぶつかった。固いものが骨に当たった衝撃で一瞬全身がじぃんと痺れ、涙目になってしまう。

 研修用のマニュアルが入った大きなバインダーファイルが音を立てて床に落ちた。

「へらへらしてんじゃねーよ」

 落ちたファイルを拾う。すみません、と不本意ながら謝る。そろそろ歩いて、座ってるクマ野郎のすぐ近くの棚にファイルを戻した。

 クマ野郎はこの数日、ことに機嫌が悪い。

 私に対して当たりが厳しいのはいつものことだけど、昨日なんてバイトの高校生の女の子まで怒鳴りつけてた。いつもだったら、セクハラ親父みたいにニヤニヤしながら、いつセクハラするんだろってこっちがハラハラするくらいには馴れ馴れしく話しかけるのに。

 更衣室で着替えて休憩室に戻ると、クマ野郎の姿はなかった。店の中にもいなそうだったので、外でタバコでも吸ってるんだろう。お気楽な身分ですねー。なんて人のことは言えないけどさ。

 クマ野郎は私の出身大学よりも良い偏差値の大学に通ってて、家もそこそこお金を持ってて、誰もが聞いたことがあるような有名な企業から内定をもらってるんだという。へぇーそうなんだ、世の中って不公平にできてるんだなって、就職活動に失敗した私なので人並みには思う。でも、私に劣等感はない。バイトをサボってこそこそタバコを吸ってるようなヤツには、任された仕事をまじめに地道にコツコツとこなすことなんてできないんだから。

 なんて、考える自分に少し嫌悪感。いかんなぁ。クマ野郎といるときは、強く意識してないとお気楽になれない。くぅぅ。

 店に出た。レジにはバイト仲間の男の子がいた。私よりも三歳若いフリーターの子だ。「おはようございます」

 そう声をかけると、おはよーござっス! と勢いだけはいいあいさつが返ってきた。

 朝のコンビニは昼食を買い求める学生やサラリーマンでいつもそこそこ混むわけだけど、もうその波も引いた時間帯だった。もっと早い時間から店に入ってよ、って社員さんに苦言を呈されたことは何度もあったけど、すべて断ってきた。

 規則正しい生活をしたかった。

 何かをコツコツやるには、規則正しい生活が欠かせない。幼い頃に親父に教え込まれたそんな教訓が、今でも私の行動を制限してる。わかってる。そんなものにこだわったって、意味なんてないってことくらい。

長浦ながうらさん、裏にいましたか?」

 長浦さん、というのはクマ野郎のことだ。クマ野郎こと、本名、長浦大志だいし。首を縦に振った私に、はぁ、と若い彼はため息をついた。

「いいご身分ですよねぇ」

 自動ドアが開く音がした。いらっしゃいませー、といかにもコンビニっぽいトーンでお客さんにあいさつして、店の入り口に視線をやったまま、私は年上らしく、若い彼にこそっと忠告してやる。

「何気ない一言が命取りになることもあるから、気をつけた方がいいよ」

「確かに」

 彼は神妙な面持ちになって深々と頷いた。彼はこの店でバイトを始めた初日に、店の裏で私がクマ野郎に吹っ飛ばされるのを目撃してる。初日からあんなものを見せつけられて、よく続けてるなって私は密かに感心してる。こんな彼こそ、真のお気楽主義者なのかもしれない。

「そういや、例の殺人事件、どうなったんスかね」

「殺人事件?」

「あれ、知らないんスか?」

 フリーターくんは目をぱちくりとさせる。

「この近くであったんすよ。ワイドショーでやってましたよ?」

 小倉さん、ニュースとか見なそうですもんねぇ、なんて苦笑される。その言葉を否定する理由はない。ハウスのリビングにはあるけど、部屋にテレビはないのだ。もちろん新聞も読まないし。

「物騒だねぇ」

 獰猛なクマを飼っているこの店も物騒と言えば物騒だけど、なんてね。

「じゃ、俺、弁当並べてくるんで、レジの方お願いします」

 頼んだ、とよく働く彼を見送った。

 レジにチョコレート菓子を持ってきた腰の曲がったおばあちゃんに、いらっしゃいませー、と営業スマイルを浮かべて私は差し出されたチョコレートのバーコードを読んだ。

「お会計は一〇五円になります」

「二〇〇円お預かりします」

「九五円のお返しです」

 一連のやり取りは、工場のベルトコンベアーみたいにスマートだ。店側も客側も、台本に沿うみたいに決められた動作をする。……と、流れがストップした。

 レシートの紙が切れてしまった。

「レシートはいりますか?」

 訊くと、おばあちゃんは頷いた。そいつは急がねば。

「少々お待ちください」

 急いでレシートロールを交換。レジ下の引き出しにそれはある。あとはささっとロールを交換するだけで……。

「おい」

 突然、店の裏からクマ野郎が現れた。

 ぎょっとした瞬間、セッティングしかけてたロール紙が手から滑った。紙って意外と鋭いよね、なんてぼんやり思いつつ、ざくっと切れた右手の人差し指を見つめる。第二関節に斜めに赤い筋ができて、見る見るうちにぷくっと赤い滴が浮かんだ。

 クマ野郎がはっと鼻息荒く笑った。

「これだから――」

 バカは、アホは、マヌケは、ノロマは。

 とかそんな単語を何かしら続けようとしたみたいだけど、私が接客中だってことに気づいたらしく、クマ野郎は自重した。クマ野郎も一応は店員なんだって再認識した。

 さて、どうしよう。血だ。

 なんて指に浮かんだ血を見つめてたら、あらあらまぁまぁ、とおばあちゃんが肘から下げていた小さな巾着をまさぐり始めた。はい、と絆創膏を差し出してくれる。

 大丈夫ですよ、と辞退しかけたけど、おばあちゃんはそれを会計用のトレーにすっと置いてしまった。受け取らないわけにはいかない雰囲気。

「遠慮はしないの。傷が残ったら大変よ。女の子でしょ?」

 絆創膏をありがたくいただいた。

 ありがとうございました、といつもより感謝を込めてあいさつしておばあちゃんを見送った私の後ろで、クマ野郎が声を押し殺しつつも、顔を赤くして腹を抱えて笑ってた。

 くそぅ。

 だなんて私は思わない。お気楽極楽の私の辞書に、そんな言葉はないのだ。

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