4-3
もうすぐ昼時だ。店には続々と弁当やおにぎりが搬入されてきて、接客しながらそれを十一時半くらいまでには並べ終えないといけないから、店の中が少しバタバタする。
レジで肉まんの補充をしてたら、自動ドアが開く音がした。いらっしゃいませー、って考えるよりも先に言葉を発して、入り口を見やった。
「あれー、悟くんじゃん」
黒いコートに黒いパンツと、なんだか黒ずくめな格好をした悟くんだった。悟くんは小さくこちらに手を上げて、レジからわりと近いところにある売り場の商品を迷わず選んで持ってきた。風邪薬。
「もしかして、泉美ちゃんの風邪薬?」
悟くんは、財布から千円札を取り出しながら頷いた。悟くんが代わりに風邪薬を買いに来るほど、泉美ちゃんの体調は悪いのか。
昨日の夜から本人を見かけてないからあんまりピンと来なかったけど、なんだか急に不安になった。身近な人が病気になるのって、なんでこんなにドキドキするんだろ。
「早く良くなるといいね」
心からの言葉だったけど、私の思いなんて知らない悟くんはさしたる反応も示さなくてちょっとさびしい。私は職務に気持ちを戻すべく、風邪薬のバーコードを読み取った。
と、悟くんが私の指を凝視してるのに気づく。絆創膏。
「おっちょこちょいで困っちゃうよ」
笑って、左手で絆創膏を隠すように撫でた。急に、クマ野郎に笑われたことを思い出して頬が紅潮する。なんだか恥ずかしい。
悟くんに見透かされたような気がして、お会計は八四〇円になります、千円からお預かりします、って型どおりのセリフを少し早口で言った。こういうセリフは余計な感情が挟みこまれる余地がなくて、さらりと乾いて私の体を出ていく。
――女の子でしょ?
いやいやいや、実はそうじゃないんだよ、おばあちゃん。
「小倉さんは」
ふいに口を開いた悟くんが、眼鏡の奥から私を見てた。ここに来てから、初めて悟くんが私をまっすぐに見たような気がした。
「コンビニ以外のバイトはやらないの?」
素朴な疑問のようだった。
吐き出されたレシートを悟くんの手のひらに乗せて、その上に釣銭を乗せながら、そうだな、って考える。私がなんで、コンビニでバイトをするのか、か。
「できることをちゃんとやりたいから、今はコンビニしかやらない」
口にしてから、笑えるって思った。白々しい。何が、どれが、とははっきり言えないけど、どこかが――いやもしかしたら、このセリフ全部がすごくすごく、嘘っぽい。
余計な感情を振り払う。ありがとうございましたーって定型文を口にして、私は悟くんを見送った。
ランチタイムのピークを終えた店内は、嵐が過ぎ去ったあとのような空気になる。空になったおにぎりや飲み物の棚を補充して、午後一時半を回ったところで私のシフトは終わった。
お先に失礼します、と頭を下げて休憩室に向かったら、クマ野郎がパイプ椅子で仰け反ってた。
こいつも同じ時間で上がりだったのか。
本能的に警戒心が働いたのか、少しだけ体が強張った。クマ野郎と二人だなんて面倒だ、って考えていたのが顔に出てたんだろう。私ってば、ホントに学習できない。
むっくりと起き上がったクマ野郎に、朝と同様にどつかれた。
「この男女」
クマ野郎は唾と一緒にそう吐き捨てて、イライラしてるのか、ずかずか足音を立てて休憩室を出ていった。タバコでも吸うんだろう。制服が臭くなるから着替えてからにすればいいのに。
その姿が休憩室からなくなって、はぁ、とため息が漏れてしまう。
クマ野郎はいつも一方的だ。一方的に私に苛つき、一方的に私をどやし、そして初対面だったあの日、一方的に私にキスをしてきた。
――俺、あんたみたいなの、結構タイプなんだけど。
でかくて少し汗臭い体に壁に追いつめられ、私は呆然とし、憮然とした。あの、いや、その。
――私、女じゃないんだけど。
これでもかって目を見開いたクマ野郎の顔、今でも思い出せる。クマ野郎にしてみれば、そんな顔を私に見せたことこそ一生の不覚ってヤツなのかもしれない。
彼は社員さんが使ってる机をひっくり返して私の履歴書を探し出し、赤くなって青くなった。ふざけんじゃねぇぞ! って、そりゃこっちのセリフだよ。
こういうとき、ホントに親父が恨めしい。
女の子だと思って『真澄』って名前をつけたのは、ま、よくある話だし、まだいい。幼い私に、「ちゃんとした社会人は自分のことを『私』っていうんだ。じゃないと会社勤めなんてできないんだぞ」なんて擦り込んだことが何より恨めしかった。学校の友だちの真似して、「僕」や「俺」なんて口にしようものなら殴られて、寒空の下、家から放り出されたこともある。「私」を使うほかなかった。気がつけば、「私」以外の一人称は家じゃ怖くて口にできなくなってた。中学生になって、高校生になって、何度も一人称を変えようってがんばったけど、幼い頃に植えつけられた恐怖のあまりの大きさに愕然とした。体の震えと吐き気に勝つことはとうとうできなくて諦めた。
親父がサラリーマンにコンプレックスを抱いてた、ってことに気づいたのはずっとあとのことだ。「私」を使えって強要した親父の一人称は「俺」だった。自分が親の代からの商店を継ぐしかなかった理由を、自分の一人称のせいにしてきたのかもしれない。その上、コンビニに店まで潰されて、挙句の果てに息子は就職できないでそのコンビニでアルバイトしてるなんてね。
同情するよ、ホントに。
駅前のコンビニを出て、近くのファストフード店で少し遅い昼食をとって、駅の反対側にあるコンビニへ向かった。本日二件目のバイトだ。今は三件のコンビニのバイトをかけ持ちしてて、平均して一日に二件のシフトを入れてる。スケジュール管理が大変だけど、それも最近は慣れた。細かい作業は任せろってね。
二件目のバイトを終えて、帰路に着いたのは午後九時半過ぎだった。深夜シフトに切り替わる前に私は店を出る。深夜シフトと早朝シフトは入れないことにしてた。フリーターなんだし深夜と早朝に入ればもっと稼げるのに、ってよく不思議がられるけど、そこはいつもの理由で断ってきた。今の自分が生活リズムなんてものにこだわる必要なんてないってことくらい、頭ではわかってるけどさ。どうしてもそこだけは譲れなくて、親父と私の親子の繋がりを強く意識させられてなんだかなーとも思うけどさ。
いつもの帰り道の途中で、区の体育館の脇を通った。今夜はバレーボールの音もせず、電気も消えてた。もうすぐ十時だし、さすがに使ってる団体はないのかも。って思ったら、入り口付近に人だかりができてるのに気づいた。体育館を使ってた団体が片づけを終わらせて出てきたんだろう。二十代か、三十代くらいの男女が二十人いるかいないか。その背中や足元には、大小様々な形のケースがあった。直方体のもの、丸みがあるもの、背負えるサイズのもの、人の半身ほどの大きさがあるもの。近くの外灯に照らされ、赤、青、黒、緑と様々な色があるのがわかる。
楽器のケースだ。
それもおそらく、管楽器。市民吹奏楽団かな。
体の奥の方で、ざわつくものがあった。けど、それを無視してその集団の脇を通った。お気楽な気分のままでいたいんだ、私は。
ハウスまではあと五分もない。いろはちゃんにただいまって言って頭撫でて(あ、レイが許してくれるかな)、温かいごはん食べてお風呂入って。そんなことを考えながら、少し足を速めたときだった。
「スミ?」
ざわざわが強くなった。
「やっぱりそうだ! うわ、久しぶり! 何やってんの?」
黄色い声をまき散らすみたいにまくし立て、人だかりの注目を集めながらこちらに駆け寄ってくる人物。パーマのかかった短い髪がふわりと浮いたのが見えた。肩から斜めがけにした楽器ケースのベルトをパープルのジャケットに喰い込ませ、赤いセルフレームの眼鏡をかけた女性が目の前に現れた。
「あたしだよ、
中野佳苗は、舌をクルクル回すようにしゃべってぱしんと私の肩を叩いた。胃液がせり上がってくるような息苦しさとともに、頭の奥から背中にかけて冷たいものがすぅっと流れ落ちてくような感じがした。
「あいっかわらず細いなぁ」
佳苗はあははっと声高に笑った。あはは、っていかにもつられましたみたいな調子で私も笑う。笑う、笑う、笑う。
何もおかしくなんかないけど。
佳苗と話すと昔からそうだった。佳苗はいつだって一人で勝手に笑う。周りが何も笑えてなくても気にしなかった。あの頃から十年以上経ってるわけだけど、つまりは佳苗は中学時代から何も変わってないってことか。
「あたし、ここでフルート吹いてんのよ。社会人の吹奏楽団。スミはこの辺に住んでんの? すぐ近く? すごい偶然! まさか近所にいるなんて思わなかったわぁ。連絡してよぉ、水臭い。で、今何やってんの?」
佳苗はひとしきりしゃべり切って一息つくと、私の足の先から頭の上までを順繰りに見た。私はコンビニのビニール袋一つだけしか持ってなくて、まぁわかると思うけど、明らかに普通のサラリーマンって感じじゃないよな。
なんとなく気まずくなって束ねてた毛先を指に絡めた。その、と答えてから周囲の様子に気づいて声のトーンを落とす。佳苗の後ろにいる楽団員たちが、興味津々でこちらの様子を窺ってる。……やだなぁ。何緊張してるんだろ、自分。お気楽な小倉真澄だったら、初対面の人が大勢いようがいまいが関係ないじゃん。
「フリーター。駅前のコンビニで、バイトしてる」
へぇ。佳苗は少しだけ目を見開いた。でも大して意外だとも思わなかったのかもしれない。
「そうなんだ」
という言葉は予想外にさらっとしてた。遅くまで大変だね。大したことないよ、別に。
「佳苗もこんな時間まで練習で大変だね」
「まぁでも、会社勤めだし、仕事帰りに練習しようと思ったらこういう時間になっちゃうのはしょーがないかなー」
そして佳苗はまた、あはは、と笑うのだった。
友だち? 近くにいた女性団員に訊かれ、佳苗が説明する。
「中学時代の部活仲間、吹奏楽部で一緒だったんだぁ」
佳苗の言葉に、女性団員とその周辺にいた別の団員たちがわっと寄って来た。
「楽器は何やってたんですか?」
佳苗の肩にかかってるストラップをちらりと見やる。佳苗は黒い布製のフルートケースを体に巻きつけるようにしてる。
「佳苗と同じ、フルートを」
わぁ、と私以外の人たちは一斉に盛り上がり始めた。
「フルート、最近転勤でメンバーが辞めちゃったばかりで、募集中なんですよぉ」
はぁ。
「よかったらどうです? 見学とか来てみません? ブランクあっても大歓迎ですよ!」
いやいやいや、と慌てて顔の前で手を振った。楽器なんて、もう何年触ってないかもわからない。そもそも、お気楽バンザイの私が社会人サークルで汗水流すとか意味がわからないし。
「もう、無理に誘っちゃダメだよぉ」
珍しく佳苗がまともなことを口にした。なんて感心したのが間違いで、佳苗は何かチラシのようなものを取り出すと、私の右手に掴ませた。
「これ、次の演奏会の案内。下にホームページのURLとメアドが載ってるから、興味が湧いたら連絡して」
結局自分だって宣伝してるんじゃーん。なんて、キャッキャキャッキャやってる佳苗たちに、それじゃ、とペコっと頭を下げて歩き出した。
「楽器やりたくなったらいつでもメールしてねー!」
なんとか笑顔を作って、佳苗に手を振って応えた。よく耐えた、自分。
帰宅すると、リビングには誰もいなかった。レイはまだこのハウスにいるんだろうか――って、いるんだろうな、今朝の様子だと。いろはちゃんを独り占めしててズルい。
ビニール袋の中には、丸めたコンビニの制服があった。たまには洗濯しようと持ち帰ってきた。洗濯機は洗面所。誰も使ってないのを確認して、洗濯機の蓋を開けて持ってたビニール袋をひっくり返した。
「マスミ?」
廊下から泉美ちゃんがこっちを覗いてた。化粧っけがないせいか、顔の印象がずいぶんとあどけない。薄ピンク色のジャージ姿もその容姿を一層かわいらしく見せている。
そういえば、泉美ちゃんが風邪ひいたって聞いてから、本人と話すのは初めてだ。
「体調は?」
「だいぶよくなった」
泉美ちゃんは笑う。ごめんね、という言葉に首を振る。私は別に何もしてない。
「起きてて大丈夫なの?」
「うん。むしろ、寝過ぎで目がさえちゃってて」
泉美ちゃんは洗濯機の方に目を向けた。
「コンビニの制服?」
訊かれて頷いた。
「ちょっと前なんだけど、この制服を着た人と道端でぶつかったの。すごい勢いで、ちょっとびっくりしたから覚えててさ」
「店の外で?」
「もちろん。あ、上から黒いジャケット着てたから、休憩中か何かだとは思うんだけど。その下に制服着てるの見えたんだ。もしかしたら、マスミの知ってる人かもねぇ」
クマ野郎だったらありえそうだなぁ。バイト中に店を抜けだすことなんてしょっちゅうだし。ホントにいいご身分だよ。
「――あ、それとは全然関係のない話なんだけど」
泉美ちゃんは洗濯機から私に視線を戻した。
「明日の夜って暇?」
「明日の夜?」
「久しぶりにみんなで飲まないかって」
泉美ちゃんの口ぶりからすると、どうやらその話をするためにここに顔を出したらしかった。
「バイトが明日は八時までだから、帰ってくるのが九時前くらいになるけど。それでもいい?」
「もちろん」
ハウスの住人で集まっての飲み会。かつては月に一度はやってたけど、住人が四人に減ってからのこの数ヶ月は、そういえばやってなかった。毎朝全員で顔を突き合わせてるし、単にだらだらダイニングで飲むだけだしってわけで、なんとなくなぁなぁになってたのだ。
「泉美ちゃん、病み上がりで飲み会なんていいの?」
「さすがにアルコールは飲まないよ」
泉美ちゃんはからっと笑う。だったら、来週にでもすればいいのに、とは思ったけど、私はごちゃごちゃ口出しするようなキャラじゃない。了解、って親指を立てた。
「それじゃ、明日」
泉美ちゃんは手を振って洗面所を出ていって、少しして階段を上る足音が遠ざかった。私は絆創膏の人差し指で、洗濯機の電源ボタンをいかにも軽ーい感じでピッと押した。
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