鶴の仇討ち

こう

第1話 仇を求めて歩む鶴


 雨が降り出したのは、千鶴が山に入ってすぐだった。

 山の神様は女だから、女は山に入っちゃならねぇ。山神様が嫉妬して、よくないことが起きるから。

 狩りについて行きたいと我が儘を言った幼い千鶴に、父がそう言い聞かせた記憶が蘇る。

 千鶴が山に入ってすぐ雨が降り出したのは、山神様が怒っているからだろうか。それとも千鶴の行動を叱っているのだろうか。

 雨の中、ひたすら山の奥を目指して進む千鶴の足は既に重い。重い足取りの傍には飼い犬の三郎が寄り添って、か細い鳴き声を上げながら千鶴に何か訴えている。


(ごめん。ごめんな三郎)


 帰ろうと、戻ろうと訴えているのだろう。三郎は父と一緒に狩りに出ていたから、山の危険は知り尽くしている。

 だから狩りをしたことのない千鶴が山奥に…狩り場に近付くことを、止めようとしている。


(大丈夫だ。撃ち方は知っている)


 衝動的に抱えたのは、一度も獲物を撃ったことのない猟銃。

 猟銃の使い方は知っている。手入れだって自分でしている。しかし実際に獲物に構えたことはない。

 何故なら千鶴は女だから、猟師として山に入ることができなかった。

 千鶴の父親は、命のやりとりは男の仕事だと言って娘を狩りに連れて行かなかった。そもそも狩り場は山なので、山神様の領分である。山神様を不快にさせないためにも、娘は連れて行けなかった。

 千鶴が猟銃の扱いを教わったのは家が山に近く、護身のために威嚇として使用するためだ。


「あっ」


 足下がぬかるみに嵌まり、草鞋が滑る。猟銃を抱え体勢を整えられなかった千鶴はその場で転んだ。着ていた撫子の小袖が泥まみれになる。そもそも山歩きに適していない千鶴の格好は、山と不釣り合いだった。

 転んだ拍子に肩と膝を強かに打ち付けて、衝撃で足に力が入らない。

 それでも抱えた猟銃は取り落とさなかった。しかしこの雨だ。火薬はしけって使い物にならないだろう。

 わかっていたけれど、縋るように猟銃を抱え続けた。

 転んだまま起き上がらない千鶴を心配した三郎が吠えた。ぐるぐると千鶴の回りを駆けているのがわかる。わかるが、顔を上げられない。

 転んだ衝撃で、必死に堪えていた涙がこぼれ落ちたから。

 千鶴のつり目がちな目元から、絶え間なく涙がこぼれ落ちていた。


(ああ…余計に火薬がしけっちまう)


 抱きしめる猟銃はもう、濡れて使い物にならない。千鶴は銃身を額に押し当てて、歯を食いしばった。食いしばった歯の隙間から、獣のような呻き声が漏れる。

 苦しくて苦しくて、叫び出してしまいそうだ。


 ――――おっとうが死んだ。


 この山で。この奥の狩り場で。

 男手一つで千鶴を育ててくれた父親が、無残な姿で発見された。


 千鶴の父は猟師だ。狩猟で生計を立てる猟師。

 同じ狩り場を持つ猟師達と、集落で暮らしている。山の麓にある町に肉や毛皮を卸し、内臓は薬として重宝された。特に熊の胆は高値で取引されたが…熊と出会えば猟師も命がけだ。


(…熊にやられたなら、まだ諦めがついた)


 熊や猪に襲われて命を落としたのなら、山の決まりに従って弔えた。父は山の動物たちに、生存戦略で負けたのだとそう思うことができた。


 だが父を殺したのは「歪」だった。


 誰もその存在を解明できていない。どこから来て何を好み何故存在するのかわからない、魑魅魍魎に近しい自然の摂理に反する歪な生命体。

 動物のような、人のような形をして、けれど確実にそれらではない。いびつに歪んだ影のように黒いそれらを、人は「歪」と呼んでいる。


 それは攻撃的で、人だろうが物だろうが関係なく破壊する。幸いこちらからの攻撃も通用するが、物陰から躍り出る熊のような存在で、年に何人も被害に合っている。


(おっとうが、その一人になった)


 いつ誰がどこで襲われるかもわからない。それが「歪」だ。

 父の遺体を見た。

 全身を殴打された酷い状態で、爪や牙を持つ獣たちにやられた姿ではなかった。肉がへこみ、潰れ、酷い有様だった。

 父の仲間の猟師も、仕方がないと言っていた。仕方がないと…。

 山の出来事は、全てが山の御意志だから、と。


(納得できねえ。納得いかねえ。あたしはそれを飲み込めねぇ!)


 仕方がないなんて言葉で片付けたくない。

 片付けられる訳がなかった。

 葬儀を終えて、一人になった。その瞬間、衝動のまま山に入った。

 父を殺した「歪」は討伐されていない。まだこの山のどこかにいる。それを求めて、仇を探して、千鶴は山の奥へ奥へと足を踏み入れた。

 踏み入れてすぐ降り出した雨は、山の御意志とやらなのか。

 山の決定に従えと、山を下りろと千鶴を責めているのか。


(山で起きたことは山の御意志…おっとうが死んだのは、仕方がないことだって山神様も仰せになるのか)


 泥にまみれて嗚咽を零し、千鶴は大地に問いかける。

 人を生かし、人を試し、人を脅かす自然に問いかける。


(山神様…仇を討ちたいと願うあたしの気持ちは、どうすりゃいいんですか)


 勿論答えは返ってこない。

 千鶴の嗚咽と三郎の鳴き声が、雨音に紛れて響いていた。

 どれくらいそうしていただろう。

 雨に打たれて身体は冷え切り、節々が痛む。途中から寄り添ってくれた三郎の体温で暖を取れたためか、千鶴はゆっくり顔をあげられた。

 変わらず雨は降っている。

 仇を憎む心も変わっていない。


(だけど、この雨じゃ…仇を探すこともままならねぇ)


 宛もなく彷徨えば、力尽きて行き倒れる。志半ばで倒れるのは望むところではない。


「ごめんな三郎…帰ろう」

「わんっ」


 随分山の奥まで入り込んだ。

 痛む身体を起こし、帰り道を探して顔を上げ…ぎくりと、身体を強ばらせた。


 人の手の入らぬ山の中。猟師達が行き交う細い道の先。

 木々の隙間、獣道から、こちらを凝視する獣の目玉が二つ。


 咄嗟に据銃して、すっかり雨に濡れていることを思い出す。火薬がしけって使い物にならないと考えてから時間は経っていない。

 使い物にならない銃口を向けた先で、ゆらりとそれは姿を現わした。


 犬や狐より大きくて、熊に近い巨体。

 雨に濡れてしっとりした毛皮は滴がキラキラ光り、見たことはないが真珠とはあのように輝くのだろうと漠然と思った。

 太い四肢はしっかり大地を踏みしめて、水たまりから泥が跳ねる。その毛皮は泥に汚れても、白さを失わなかった。


 ――――白い、獣。


 現れたのは、見たことのない大きさの白い…。


(猫…?)


 白い毛並みに縞模様。丸みを帯びた耳に細く長い尻尾。それは千鶴の知る猫に似ていたが、猫と断言できるような大きさではなかった。

 そう、熊のように大きな猫だ。

 こんな動物、見たことがない。

 白い獣は立ち止まらず、真っ直ぐ千鶴に向かってくる。

 千鶴はゆっくり、猟銃を降ろした。


(山に棲む白い生き物は神の遣いだから、狩ってはならない…)


 それもまた、猟師である父からの教えだった。

 神々しい毛並み。普通の猫ではあり得ない大きさ。

 きっとこの猫は、山神様の御使いだ。

 その証拠に、三郎が吠えも唸りもしない。静かに獣を見上げている。


 いつ噛みつかれてもおかしくない距離まで獣が近付いた。

 橙の…夕焼けの色をした目が、じっと千鶴を見下ろしている。

 不思議と、恐怖は覚えない。

 獣がまた一歩、千鶴に近付いた。


(…山神様は、山の御意志に反したあたしに、罰として御使い様の餌になれって言っているのかねぇ…)


 それが山の御意志なら。千鶴もそれに従うしかない。千鶴はそっと目を閉じた。

 先程まで湧いていた反抗心が出てこない。それは、こんな美しい獣を見てしまった所為だろうか。それとも、親を失った絶望から、生きる活力が枯渇しているのか…。


 べちょん。


「…?」


 べちょん。


 白い獣は、濡れた毛並みを千鶴の胸元に額を擦り付けていた。


「え、わ、ちょっ」


 思わぬ力強さにひっくり返りそうになる。咄嗟に目の前の首にしがみ付いた千鶴はそのまま持ち上げられた。持ち上げて、爪先を地面に降ろす。千鶴は怖々と手を放した。

 触れた毛並みは柔らかかったが、残念ながら雨に濡れてべちょんべちょんしていた。

 立たされたのだと気付き、千鶴は戸惑いながら自分に擦り寄ってくる獣を見下ろした。

 獣は、立ち上がった千鶴の胸の高さに頭があった。その頭を、かなり積極的に千鶴に擦り付けてくる。

 戸惑っていると、やがてその動作は千鶴の身体を押すような動きになった。

 ぐるっと千鶴の身体を回して、背中を押してくる。じっと一連の動きを見ていた三郎が、さっと駆けて立ち止まり、千鶴に向かって一声吠えた。

 帰ろう、と言われている気がした。


「…なんだ、帰れって催促だったのかい…」


 肩越しに振り返ると、夕焼けの瞳と目が合う。人とは違う、獣の目だ。

 肉食獣の獰猛な目だというのに、見つめ合うことでひりつくような焦燥感が落ち着くのを感じた。

 不思議だ。生命の危機を感じない。


「…なあ御使い様。仇討ちは、そんなにいけないことなのかい」


 山の命を頂いている身で何を、というかもしれない。

 仇討ちを認めれば、人も獣も大量に死ぬ。だから山神様は認めて下さらないのだろうか。


「あたしは…おっとうが死んで、殺されて、泣き寝入りなんざできねぇ。この山に入り込んだ「歪」を、あたしに討たせちゃくれないか」


 白い獣は千鶴を見つめるだけで、何の反応も返さない。

 千鶴は使い物にならない猟銃を握りしめ、唇を噛んだ。


「そうじゃねぇと、あたしの怒りは、苦しみは…寂しさは、慰められねぇんだ」


 一人に、なっちまったから。


 千鶴の呟きに、橙の目が動いた…ように感じた。


「わんわんわんわんっ!」


 そのとき、不満を訴えるように三郎が吠えた。

 まるで自分を忘れるなと訴えるような力強さに、思わず振り返る。三郎は怒ったように吠え続けていた。


「…ごめん、ごめん三郎。そうだった。お前がいたね」

「わんわんっ!」

「ごめんごめん、ごめんって」


 先を行っていた三郎に近付いてしゃがみ込む。怒りの甘噛みをされ、宥めるように力強く撫でた。そのまま抱き込んで、額を合わせる。


「帰ろう」

「わんっ」


 もう一度三郎を撫でてから、千鶴は白い獣を振り返る。

 じっと千鶴を見つめる獣は、やはり襲いかかってくる気配がなかった。


「騒がせて、ごめんな。もう帰るよ…山神様に、よろしく」

「わんっ」


 千鶴は深く頭を下げて、三郎もお利口に吠えた。

 一人と一匹はゆっくり来た道を引き返し、白い獣は…。


 のそのそと、千鶴達の背後をついて来ていた。


(…なんでついて来てんだ…?)



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