第10話 小さな鶴は黒い獣に救われた


 小さな籠一杯にヤマモモを載せて、小さな千鶴は一生懸命駆けていた。

 溢れんばかりのヤマモモ。山盛りになった籠を満足げに抱えながら、千鶴は下り道を慎重に、けれど足早に駆けた。

 早く帰って、たくさん採れたと報告して、しっかり褒めて貰うのだ。


 千鶴の母はヤマモモが好きだ。毎年必ず摘まんでいる。

 小さな実は一口でなくなってしまうが、種を呑み込まないようにするのがちょっと難しい。何より酸っぱいので、子供の千鶴はちょっと苦手だった。

 果実水にしたり、砂糖漬けにしたりするのは好きだが、生で食べられない。

 酸っぱい顔をする千鶴に微笑みながら、なんてことない様子でヤマモモを齧る母は、父も呆れた顔をするくらいヤマモモが好きだ。


 だから、お母さんが喜ぶよ、と言われて山に入った。

 父からの言いつけを破ったことに気付いたのは、意気揚々と山に入って…目指す先がわからなくて途方に暮れてからだった。


 母に手を引かれ、山の入り口でヤマモモを摘んだ記憶があった。だから大丈夫だと思っていたが、一人で足を踏み入れた山はまったく別の場所のようだった。

 実際、入り口を間違えて別の場所に出ていることに千鶴は気付いていなかった。目的地を見失い、千鶴は完全に迷子だった。


『おっかあ…おっとぉお…っ』


 泣きながら母を呼び、父を呼び、父の仲間達を呼び…何度も繰り返して喉が枯れて、涙も枯れ果てそうになって。

 それでも足を止めなかった千鶴は、あっという間に崖から落ちた。


 大きな獣の上に落ちた。


 その獣は真っ黒い毛並みをしていた。


 父よりも、熊よりも、何よりも大きかった。千鶴が小さいからそう見えるのではなく、丸まっていても木の枝に鼻先がつくほど大きかった。

 崖から落ちた千鶴は、崖下で丸まっていた獣の背中に落ちた。ふかふかの毛皮に包まれて、落下の衝撃は吸収されて、ふかふかの毛皮を泳ぐように顔を出した。

 そのとき千鶴は自分がどこに落ちたのかわかっていなかった。

 自分が崖から落ちたことも気付いていなかった。

 必死になって毛皮から顔を出して…その先で、こちらを見ている赤い目をした獣と目が合った。


 それは炎に似ていた。

 囲炉裏を彩る物音は違う。黒い炭の奥で燃え続ける真っ赤な火のような赤。

 巨大な獣と見つめ合いながら、思い出したのは冬の日に眺めた囲炉裏の炭だった。


(真っ黒と、赤いのと、温かいのが、似てる)


 毛並みに埋まる千鶴は、獣の体温でぽっかぽかだった。


『おまえ、すごく、あったかいねぇ』


 今思い返せばとてものんきだった。

 猟師を親に持つ子供は獣の獰猛さを知っていた。しかし同時に毛皮の美しさも知っていた。野生が身に纏う毛皮は、不思議な魅力を持ち人間を引きつける。

 何よりそのとき千鶴はとても寂しかった。一人で山歩きした孤独から、温もりを求めていた。

 だからその美しく温かな毛皮に、全身で抱きついた。

 折角見つけた温もりが恋しくて、しっかりと、全力で。


『ぐすっ』


 あまりにも温かくて、千鶴は獣に抱きついたままべそべそ泣いた。

 小さい手で毛皮をしっかり握りしめながら、モフモフに埋まって泣いた。

 獣は千鶴を振り落としたりせず、じっと丸まったままだった。


 暫くべそべそしていた千鶴だが、泣き止んでからはずっと喋り続けた。

 寂しさが天元突破していた。沈黙が怖くて、相手が獣だとわかっていてもずっと話しかけ続けた。


『ほんとうは、山に入っちゃだめなのよ。でもね、おっかあにヤマモモを採ってあげるの。ちづるはおねえさんだから、一人でできるのよ。ほんとうよ』

『おっとうたちがね、ずっと犬の五助といっしょなのよ。ちづるもいっしょが良いって言ったのに、まだ早いっていじわるゆうの。そんなことないもん。ちづるはおねえさんなんだから、おせわできるもん』

『ほんとうはね、オンナはふもとでオトコを待つんだって。だけどおっかあはおっとうが苦労しないようにって、しゅーかいじょのおせわをしているのよ。ちづるもお手伝いしているの。だからね、ふもとの子たちとはめったにあそばないのよ。だからね、ちづるにもいっしょにいてくれる子がひつようだとおもうの』


 小さな口を動かしながら、必死に毛皮にしがみ付いていた。

 聞いているのかいないのか、大きな獣は時々体勢を変えるくらいで大きな反応もない。もしかしたら獣は巨大すぎて、千鶴程度では虫が乗っている程度にしか感じていないのかもしれない。

 しかし、茂みからひょこっと顔を出したウサギは、巨大な獣の姿を確認して一目散に逃げ出した。まさに脱兎だった。

 偶然その様子を目撃した千鶴は、大きな目を瞬かせて獣を見た。


『もしかしておまえ、ひとりぼっちなの?』


 よくよく見てみれば、獣がいるのは寂しい場所だった。

 崖下の、草木も生えない土の上。木々に遮られ、日の光も届かない。

 獣は真っ赤な目で千鶴を見返した。獣の表情などわからないが、千鶴は炭の中にある火みたいに赤い目が、じりじりと消失に向かっているように見えた。

 消える前の、爆ぜる瞬間のような目。

 危ういような、もの悲しいような。赤い目から、幼い千鶴には言い表せない感情を感じ取った。


 それなら、ねえそれなら。

 千鶴はよいしょと、毛皮を掴んで獣の顔に近付いた。

 鼻先がくっつきそうなほど近付いて、千鶴より何倍も大きな獣の瞳を覗き込む。


『ねえ、ちづるといっしょにおうちかえる?』


 ぱちりと、獣が瞬きをした。


『おっとうにはね、ちゃんとちづるがおねがいするよ。おっかあはね、ヤマモモたくさんあげたらゆるしてくれると思うの』


 自信ありげに頷いて、自分の小さい鼻を獣の鼻にくっつけた。


『ひとりぼっちはさみしいから、ちづるといっしょにいてくれる?』


 返事はなかった。

 獣だから当然だ。

 しかし獣は、すくっと身を起こして移動をはじめた。千鶴はびっくりしたが、しっかり毛皮を掴んでいたので落ちなかった。


 獣の上から見下ろす山の姿は、彷徨い歩いたときとまるで印象が変わっていた。あんなに恐ろしかった木々も、暗く感じた山道も、獣の上から見れば恐れも不安もない。

 いつもより空が近くて、つい毛皮から手を放して空を掴もうとして。

 目の前に、ヤマモモの実が現われた。

 きょとんと見つめていれば、振り返った獣がじっと千鶴を見ている。


『…おまえ、ヤマモモのところまであんないしてくれたの!?』


 きゃあっと歓声を上げて、千鶴は大きな獣に感謝を込めて抱きついた。


『うれしい! ありがとぉー!』


 千鶴は大喜びでヤマモモを摘んだ。千鶴が想像していた以上に成っていた実を籠に載せて、小さな籠はすぐに一杯になった。

 その後、山の入り口まで獣は千鶴を送り届けてくれた。見慣れた道に気付いて、滑るように獣から下りる。下りやすいように、獣も丸まってくれていた。


『ありがとう! おっとうたちにおねがいして、またくるね! そしたらいっしょにおうちにかえろう!』


 獣は反応しなかった。

 飛び跳ねてお礼を言う千鶴をじっと見て、のっそり山へと戻っていった。


 そんなことがあって千鶴は、意気揚々と本日の戦利品を抱えて家へと向かっていた。

 慎重に、けれど喜びで足元が跳ねる。小さなヤマモモの実が落ちないよう気を付けて…。


 家から、血相を変えた篤郎が飛び出していくのが見えた。

 遠くから、松助の珍しい怒鳴り声が聞こえる。

 麓の方から駆けてくる新次朗と、飛び出した篤郎がかち合った。大きな声で何か話し合っている。


 どうしたんだろう。

 千鶴はきょとんとしたまま、小さな足を動かして家の中に入った。


『おっかあ、ただいま』


 おかえり、の声はなかった。

 代わりに、父がいた。こちらに背を向けて座っている。

 何故か肩を落として項垂れて、振り返らない。千鶴は不思議そうに首を傾げて、土間を突っ切って父の背中に近付く。


『おっとう?』


 様子がおかしい父を見上げて、ふと気付く。

 座り込む父の前に、横たわる影。

 それは――――…。


『千鶴…お前』


 父の声が、震えている。


『何処へ行っていたんだ…っ』


 それは、責める言葉ではなかった。

 絞り出したような安堵の滲む声だった。純粋に、姿の見えない千鶴を心配しての言葉だった。


 しかし千鶴は、責められたと感じた。


 だって千鶴は、父の言いつけを破って山に入った。

 女が山に入れば悪いことが起こると言われていたのに、言いつけを破って山に入った。

 山に入って。

 そして。


『…おっかあ?』


 父の前に横たわっているのは、母だった。

 優しくて、温かな、美しい。


 ――――なんで、首がそんなにまがっているの?


 美しかった母は、無残な姿で転がっていた。

 大事に抱えていたヤマモモは、土間に落ちて散らばった。


(…おっかあは、誰もいないところで足を踏み外して、囲炉裏から土間に落っこちて、運悪く首の骨を折った)


 日が傾き、空が茜色に染まる頃。

 千鶴は水につけていたヤマモモを取り上げて、汚れを水でよく洗いながら十一年前に事故で亡くなった母のことを思い出していた。

 当時五歳だった千鶴は、それでも母のことをよく覚えている。

 優しく美しく、温かみがあって、時々つまみ食いをするお茶目な所もあって大好きだった。

 だけど優しい記憶よりも、哀しい記憶の方が強く焼き付いてしまっている。


(あの日は誰も、いなかった。おっとうたちは麓に毛皮を売りに行ってて、あたしは一人で山に入って…おっかあはここで一人だった)


 子供の千鶴がいたとて、足を踏み外した母を助けることはできなかっただろう。

 だけど、ずっと考える。


(よくないことが起こるって言われていたのにあたしが山に入ったから…女が山に入ったから、よくないことが起こったんじゃないか)


 こじつけだと、人は言うだろう。そんなことはないと励まされるだろう。

 それでも幼い頃から焼き付いた思考は、言いつけを破ったから起った悲劇だと自分自身を責めている。


 洗ったヤマモモをザルに上げて水気を切って、いくつか木製の皿に盛り付けた。

 盛り付けたついでに、一つつまみ上げて齧り付く。


「…酸っぱいねぇ」


 年頃になっても、ヤマモモの生の酸味は苦手なまま。


 と、千鶴の背後からにゅっと伸びた男の腕が、ヤマモモを一つ攫っていった。

 振り返ると、人の姿になった百がヤマモモを口に放り込んだところだった。


「ああ、こら。種があるってのに」


 獣にはそんなこと関係ないのか、人になっても強靱な顎でまるっと咀嚼する。百は酸味を気にせずに、いつもペロッと実を食べる。千鶴の苦手な酸味は感じていないらしい。


「それにしても、一人で着替えられるようになったか。偉いねぇ」


 ちょっと目を離した隙に人の姿になって甚平に着替えた百を褒めれば、彼は得意げに口端を上げた。実を咀嚼したからか、口元が果汁で赤く染まっている。

 苦笑して布巾で拭ってやれば、嬉しそうにぐいぐい擦り寄ってきた。不思議なほど、獣のくせに人なつっこい。

 土間の端っこで丸まっている三郎は、相変わらずジト目で百を監視していた。それでもいきなり噛みつくのはやめたようだ。


(そういやあのとき出会った黒い獣…あれは、結局何だったんだろう)


 哀しい記憶が強すぎて、山での出会いは夢のように感じていた。

 しかしこうして山神の御遣いである白い獣、それも熊のように大きな猫がいたのだ。あの日山で見た獣も、実在していた可能性がある。


(だとしたら悪いことをした。また会いに行くって約束したのに。ヤマモモの群生地まで連れて行ってくれたってのに、不義理をしちまったな)


 獣相手に義理もないかもしれないが、あれが夢でないなら申し訳ないことをした。

 擦り寄ってくる百を片手で遇いながら、まったく懐かない様子だった黒い獣に思いを馳せる。

 あの獣がいなければ、崖から落ちた小さな千鶴は生きていなかっただろう。母と同じように、父をおいて天に昇ってしまったかもしれない。

 だとしたらあの日、父は妻も娘も失っていた。


(今となっちゃあ、あたしが両親を失っちまったんだが…)


 偶然とはいえあの日千鶴を救ったのは、黒い毛並みの獣だった。

 だからこそ、大人になって幼い日の不義理が気になる。次に会えたとしても人の身で、獣に恩は返せるだろうか。


(黒かったけどでかかったし、あれも山神様の御遣いだったのかね。百より大きかったし、もしかしてこいつの親だったり…)

「ちづる」

「うん?」


 呼ばれて顔を上げれば、百が不満そうに頬を膨らませていた。

 …成人男性がそんな顔するの、初めて見た。


「ちづる、おれ、みる」

「…! 百、アンタちょっと話せるようになったのかい?」

「ん」

「おぉー、凄いじゃないか! アンタやっぱり賢いねぇ」


 こっくり頷いた百の頭をわしゃわしゃと撫でる。扱いが完全に獣のそれだが、百は満足そうだった。

 満足げにもう一度繰り返す。


「ちづる、おれみる」

「んん?」

「ほかみるだめ」

「わん」


 咎めるような、呆れたような三郎の一声。

 しかし百は真剣な顔で、千鶴をじっと見下ろしていた。


 百の発言に、千鶴は首を傾げる。


(おれみる…俺を見る? 他見るだめ…? 動物の独占欲かい?)


 猫は縄張り意識が強い。他の猫が、匂いが入ってくるのを嫌うという。

 しかし千鶴は他の猫をここに入れたことなど…。


(…おっきな黒い獣ってもしかしておっきな猫だったのか…?)


 とにかくでかかったので、何の獣か考えもしなかったが。

 もしや、百を遇いながら黒い獣のことを考えていたのを咎められている…?


(…いや、そんな人の思考が読めるわけがない。言葉以外で通じ合っていると感じることはあっても、何を考えているかまでは伝わらないはず…)


 考え込んでいた千鶴は、ふと顔に影がかかって思わず視線を上げた。

 思ったより近くに、百の顔が近付いていて。

 薄い唇が、千鶴の無防備な口元に触れた。


「――――考える、おれのこと、だけ…おねがい」


 夕焼けの瞳が、縦長の瞳孔がきゅっと凝縮する。

 吐息が千鶴の鼻先をかすめ。

 呆然と見開いた視界に、離れていく百の口元が映り。


 声にならない叫びを上げながら、千鶴の右手が閃いた。


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