第11話 獣は獣だった
「ああ…どうしたもんか…」
千鶴は頭を抱え、紺色の甚平を手に天井を見上げていた。
その足元で三郎が、ふすっと鼻息荒く身を屈めている。お怒りを示すように力強く地面を蹴っていた。
「ほんとうに…どうしたもんか…」
日が暮れて、すっかり外は暗くなっていた。
夕方。日が暮れだした頃。
ヤマモモの下拵えをしながら昔を思い出していた千鶴は、人の姿をした百に突然口付けられた。
驚いて咄嗟に平手を繰り出した千鶴だが、百を盛大にひっぱたいた後、ひっぱたいた事実に悲鳴を上げた。
「ああっ! ご、ごめんよ百! つい咄嗟に…っ」
叩かれた百はきょとんとして何が起きたのかわかっていない顔をしている。その顔を見て、千鶴の中で罪悪感がキリキリ痛みを訴えた。
百は獣だ。人も身を取っていても獣だ。今のは、人の姿で獣の感覚のまま行動した結果だろう。
三郎だって千鶴の顔を舐める。顔が三郎の涎だらけになることだって珍しくない。
千鶴は獣からの親愛に対して、平手なんて攻撃を返してしまったことになる。
(ど、動物虐待だ…っ)
千鶴は猟師の娘だが、狩りと暴力の違いくらいわかっている。
きょとんとしている百の頬が赤くて、千鶴は盛大に慌てた。
布巾を濡らして絞り、叩いてしまった頬に当てる。百はきょとんとしたまま千鶴を見下ろしていた。
(ぐう…っ真っさらな目をしやがって!)
胸が痛いというか胃が痛い。咄嗟とはいえ手を出してしまった。
土間の隅で丸まっていた三郎が立ち上がっている。軽く歩き回って様子を確認されていた。
三郎は、百に厳しい。きっと先程の行動も三郎にとってはお叱り案件なのだろう。
(だけど待ってくれ三郎。こいつは人の形をしているが身も心も獣なんだ)
他意はない。他意はないのだ。
「百…本当にごめんよ。驚いちまって…その、さっきのはね、獣の姿ならまだしも今の格好だとよろしくないというか」
「だめ?」
「だめというかよろしくないというかいけないというか」
「だめちがう?」
「んんんんん…っ ああいうのはね、夫婦がするもんというか」
「めおと」
それってなぁにおいしいの?
なんて言い出しそうな顔で、百が首を傾げる。千鶴は困った。獣に夫婦を何と説明したらいい。
「連れ添い…嫁っていってわかるかい?」
「嫁!」
百の顔がぱっと明るくなる。
どうやら理解したらしい。
「そう、人間はね、ああいうことをしていいのは嫁相手だけだ。だから…」
「ならよし」
「え? …ん!?」
大きく頷いた百が、逞しい腕で千鶴を抱きしめる。突然距離が近付いて逞しい胸元に抱き込まれた千鶴は目を剥いた。
毛皮にくっついたことはある。人の姿でもよくくっつかれていた。だが正面から抱きしめられたことはなかった。
逞しい腕が絡みつき、千鶴の肩に百の額が寄せられる。千鶴を抱えた状態で身を屈め、百の頭が千鶴の顔、その横にあった。
「な、なにを」
「ちづ、ちづる。すき」
「へぁ?」
「すきすき」
ぐいぐいと押しつけられる額。頬が触れ合って、耳が擦れて、千鶴はぽかんと口を開けたまま固まった。
見た目は成人男性なのに幼い語彙。しかし幼いのは語彙だけで、発せられる声は見た目に相応しく深く、かすれている。
そんな相手が、千鶴の耳元で、吐息のかかる距離で…。
「ちづるがすき」
そう言って、皮膚の薄い首に柔らかく歯を立てた。
獣のような挙動。しかし千鶴を抱きしめるのは人間の腕。
幼子のような語彙。しかし声音は成人男性の低い声。
人のなりをしているが中身は猫だと、獣なのだと思っていた千鶴。身が危うくなるとしたら、牙と爪で切り裂かれ喰われる方だと思っていた。
しかし。
今感じている危機感は――――彼女が予想していなかった別方向の…。
かくりと、膝から力が抜けて土間に座り込む。
そんな千鶴に絡みついたままの腕。上から覗き込むように一定の距離を保った瞳。見上げた先で赤い舌がちろりと覗き、白髪の頭部で獣の耳がぴくぴく揺れた。
獣の耳が。
獣の。
「ちづる」
三日月にゆがんだ夕焼け。笑んだ口元から犬歯が覗く。
獣が笑った。
「ワァ――――ッ!?」
「ぺぷっ」
混乱した千鶴は両手を突き出して百を突き飛ばした。完全に油断していたらしい百は簡単に突き飛ばされ、土間をコロリとひっくり返り。
三郎の前で止まった。
仰向けになった百の夕焼けと、雄々しく立つ三郎の黒い目が交差して…。
だしんっ
「ぷあー!!」
三郎の前足が百の頭を踏んづけた。百が奇っ怪な悲鳴を上げる。
その隙に立ち上がった千鶴は囲炉裏に上がり、部屋の奥へと走って襖を閉めた。向こう側から断続的に百の悲鳴が聞こえるが、千鶴は両手で首を覆ってその場にしゃがみ込んでいた。
憐れっぽい悲鳴。百の助けを求めるような声が聞こえるが今は無理だ。首に触れているせいか自分の鼓動を強く感じる。いつもより早い、緊張しているときの鼓動が。
あり得ない。あり得ないはずだった。
だってあれは獣で、猫で、じゃれているだけ。そうとしか思えなかったしそう信じていた。人のなりをしていたって、中身は三郎と同じ獣なのだと。
思っていたのに。
腕が、身体が、息づかいが、視線が――――全部が、男だった。
(なんだいあれ…なんだいあれ!)
柔く噛まれた首が熱い。触れた唇が気になる。獣のくせに。毛皮のくせに。もふもふのくせに。
『…いや、獣は獣だろう?』
『獣だからだめだ』
頭をよぎったのは、昼間の会話。
(獣だからダメだって…こういう意味だったのかいおじさん…!)
何を言われているか分からなかったが、今やっとわかった。
獣も人も関係なく、あれは雄なのだとようやく理解した。
千鶴はしゃがみ込んだまま頭を抱え、膝に額を押しつけて呻いた。
それから暫く自分のじっとしていた千鶴は、不意に百の憐れな鳴き声が聞こえなくなっていることに気付いた。
警戒しながら襖を開けて囲炉裏をのぞき、人影がないことを確認する。そのまま徐々に開いていって土間をのぞき、そこに百も三郎もいないことに気が付いた。
「三郎? 百?」
呼びながら土間におり、微かに開いた扉から外に出た。
すっかり空は暗くなっていて、それなりの時間部屋に籠もっていたのだと実感することになる。そういえば、ヤマモモを皿に載せてそのままだ。
ぐるりと周囲を見渡して、お座りしている三郎を見つけた。三郎はキリッとした顔で山を見ている。
近付いて、傍に甚平が落ちていることに気付いて…。
「…え、まさか百、山に入ったのかい」
「わんっ」
真っ暗になった空を見て、三郎を見て、甚平を見て…千鶴は途方に暮れたように頭を抱えた。
百は獣だ。
夜目の利く獣だ。
しかし、人も獣も夜の山が危険なことに変わりはない。
「どうしたもんかね…」
元々山で過ごしていた百だ。夜の山での過ごし方を熟知していて当然だろう。しかし繰り返すが、夜の山は人も獣も危険なのだ。
というか白い毛皮の百は夜こそ不利じゃなかろうか。山に白はとても目立つ。それとも神の御遣いだから平気なのだろうか。
ここで千鶴が百を探しに山に入るのは悪手でしかない。わかっているが、心配で仕方がない。
「…入り口を覗く程度ならいいかね」
山に入らない。ただ入り口まで近付いて、様子を見てみるだけだ。
というのも、こんな時間に百が山に入った理由が気になった。
千鶴が拒否したからか、三郎にこっぴどく怒られたからか。もしかしてしょげて山に帰ったのではないか。もしくはご機嫌伺いに狩りにでたのではないか。
後者だったら待てばいいが、前者だったら怒ってないよと一言伝えなければ。
(いや…驚きはしたけどね。驚きはしたけど、嫌いなわけじゃないんだ。何より神様の御遣いに、あの対応はちょっと不敬だったかもしれないし)
慣れてしまったが、本来ならこんな気軽にお世話できない相手のはずなのだ。
千鶴は念のため、夜なので手入れした猟銃を持って小刀を帯に仕込んだ。小刀は仕留めた獲物の内臓処理に使う物で、何なら猟銃より使い慣れている。
灯りは、持たない方がいい。片手が塞がってしまえば、猟銃が扱えなくなる。
幸い今夜は月が明るい。山に入るわけではないのだ。きっと大丈夫。
「ちょっと見てくるだけだよ」
準備を進める千鶴の姿を、三郎が心配そうに見上げている。
その頭を撫でて、千鶴は短い距離を歩き出した。
このとき、心配しながらも家で待つ選択をしていたら、どうなっていただろうか。
何年経っても、千鶴はそんなもしもを考える。
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