第12話 夜中だろうと鶴は飛ぶ


 闇の中歩くのは、明るい中を歩くより時間がゆっくり進むように感じる。

 目と鼻の先だと思っても、足元もよく見えない闇の中を進むのは苦労する。月明かりで足元がぼんやり見えるだけマシだとしても、苦労する物は苦労した。

 自分の足音がやけに大きく感じる。山から聞こえるフクロウの鳴き声。風で擦れる木々の音。獣の気配に気を配りながら千鶴は進んだ。


 暗闇は別に、怖くない。

 千鶴が大切な人を失うのは、いつだって昼間だったから。


(おっとうが亡くなったのも、昼間だったな)


 朝方、狩りに出掛けた男達を見送って暫く。

 予定よりも早く帰ってきた彼らは、獲物ではなく父を抱えていた。

 真上で輝く太陽。お天道様の下で揺れる父の手は、現実味を感じられないほど白かった。


(おっとうは一人でいるところを「歪」に襲われて、他の猟師たちが気付いたときには手遅れだった。おっとうは全身を殴打されて、骨が見えるまで肉がえぐれて、目も当てられない状態だった)


 千鶴が呆然としている間に猟師たちが取り仕切って麓で葬儀を行い、父は墓に入った。季節的に遺体が腐る前に処理したのだとわかっている。わかっているが、千鶴の気持ちは置いてけぼりだった。

 そして新次朗が「討伐隊に連絡はしない」と宣言して…。


『…どういうことだい、おじさん』


 葬儀を終えて、麓に居を構える新次朗に一室を借りて集まった千鶴と猟師たちは、今後どうするかと話し合っていた。

 呆然としながらも参加していた千鶴は、新次朗から飛び出した信じられない言葉に耳を疑った。

 思わず新次朗を凝視するが、新次朗はいつもの闊達とした笑顔を封じて真剣な顔で千鶴を見返している。


『「討伐隊」に報告はしないと言ったんだ』

『なんでい? だっておっとうは「歪」にやられたんだろう? それなら「討伐隊」の出番じゃないか! 「歪」が出たら報告義務だってあるだろう! それを無視するってのかい!』


 座ったまま畳を手の平で叩く。普段は集合所に滞在することが多い新次朗の家は埃っぽく掃除が行き届いていない。それでも一服する程度のことはできるからと集まったが、舞った埃に苛立ちが増した。


『「歪」が出たのは俺たちの狩り場だ。山の出来事は山の御意志。「討伐隊」とは関係のないことだ』

『そんなわけがない! 「歪」と山は関係ねぇだろ!』

『お、落ち着いてくれ千鶴ちゃん』

『落ち着いていられるわけがねぇ!』


 宥めようとした源太を睨み付ければ、彼は完全に萎縮して黙った。肝の小さい源太に歯噛みして、千鶴は声を絞り出す。


『おじさんたちも何か言っておくれよ! こんなのおかしいだろう!』

『だ、だけど新次朗が決めたなら、それに従えば…』

『何言ってんだい!』

『万造は油断したのさ』


 鼻水だらけで目を真っ赤に腫らしながら、篤郎が悪態を吐いた。

 彼は新次朗の隣で、絶えず鼻を啜っている。それでも口から飛び出るのは悪態だった。


『「歪」如きにやられるなんて情けねぇ。調子の名折れだ。恥ずかしくて他に言えやしねぇよ』

『…!』


 そっぽを向きながらぼそぼそ吐き出された言葉に目の前が真っ赤になる。暴力的な衝動が湧き上がり、勢い任せに立ち上がれば気付いた篤郎の肩が跳ねた。真っ赤な目が千鶴を窺い、すぐ逸らされる。


『獣にやられたならまだ言い訳がたつ。猟師は獣と戦ってんだ。それが「歪」にやられたってんなら目も当てられねぇよ』

『篤郎おじさん…!』

『やめろ篤郎。ごめんな千鶴ちゃん。こいつも混乱してんだ』


 篤郎が素直な物言いのできない男だとわかっていたが、今回ばかりは聞き流せそうもない。拳を戦慄かせる千鶴の前に新次朗が割り込むが、一番怒っているのは篤郎の言動ではなく新次朗の決定だ。


『新次朗おじさんもそう思っているのかい? そう思っているから報告を放棄するってのかい!』


「歪」に襲われて死ぬのは猟師にとって恥だから、と。


 千鶴にその感覚はわからない。動物と「歪」が違うことはわかる。熊にやられた方がまだマシだった、という気持ちもわかる。

 だがそれは気持ちの生理的な問題で、猟師として沽券に関わるなどそんなこと思ってもみなかった。


 千鶴の問いに、新次朗は押し黙る。

 即答が返らなかった時点で同意と判断した千鶴は、かっとなって手を振り上げた。

 振り上げて、振り上げた手が止まる。

 歯を噛み締めて、逆の手で拳を強く握りしめて…ブルブル震える手を、勢いよく下ろした。

 新次朗を見ていられなくて身体ごと視線を逸らした。


『…万造さんは、立派な人だ』


 ぽつりと落とされた低い声は、今まで黙っていた松助のもの。

 彼はじっと部屋の隅に腰を下ろし、一連のやりとりをただ見ていた。相変わらずむっつりした顔で黙っていて、しかし彼の目元も今日ばかりは赤い。


『欲に駆られて余計な狩りはしない。命のやりとりをするからには憎しみで銃を握っちゃならねぇと、命に感謝して糧にしろとずっと言っていた。山の教えに従って、山では何があっても生きるためだけに狩りをしろと言っていた』


 淡々とした声は、しかし感情を抑え込むように籠もっていた。押さえ込むのは悲しみか苛立ちか、もっと他の何かか。千鶴には判断出来ない。

 その言葉は、千鶴も父から聞いていた。頻繁に千鶴に語って聞かせた。

 命のやりとりは男の仕事だと。命のやりとりだからこそ覚悟がいるのだと。そこに憎しみや恨みを持ってきたら狩りではなくなってしまうと。

 奪った命は糧にして、全て使い切らなくてはならないと。猟師として当然の教訓だと語って聞かせられた。


『誰よりも山の意思に忠実だった。だから山の御意志だから仕方がないと…新次朗さんはそう言うんだろう』


 覚えている。覚えている。覚えているさ。

 だけど、それとこれとはまた話が違うだろうに。

 それと「歪」の報告は別だろうに。


 新次朗の声は聞こえなかった。背中を向けていたから、彼が頷いたかもわからない。

 しかし松助はそれ以降何も言わなかったから、恐らく肯定したのだろう。千鶴は胸の前で拳を握りしめ、納得できない怒りに震えた。

 そんな千鶴の横で、オロオロしていた源太が身を屈めて話しかけてくる。


『万造のことは仕方がねえ。それより千鶴ちゃん。「歪」がでたから、あの集合所は危険だ。これから俺たちも狩り場を移す…だから千鶴ちゃんはこれを機に、麓で生活した方がいい』


 後半は明るい声で言われて、千鶴はカチンときた。


 気遣ってそう言っていることは分かる。「歪」が出たから山に近いあの場所は危険だと言うのも分かる。居を移す、と言うのは分かる。

 だが、それなら何故、危険だとわかっていて「討伐隊」に連絡しないのだ。


 何より…仕方がない。それよりもと、この件を軽く扱われたことに苛立った。


(仕方がないって、なんだい。そんなことよりって、おいておける話じゃないだろう)


 千鶴の居住よりも「歪」の報告義務の方が大事だろう。義務を放棄する意味の方が重いだろう。だというのにそんなことを言うのか。


(納得いかない。納得いかない。このまま流さちゃならねぇ…!)


 傷むほど拳を握りしめ、歯を食いしばりながら千鶴は首を振った。


『どこにも行かねぇ』

『ち、千鶴ちゃん?』

『あたしはどこにも行かねぇ。あの場所はおっかあとおっとうが過ごした場所だ…あの場所が、あたしの居場所だ!』


 涙で充血した目で猟師たちを睨み付ける。

 彼らは押し黙って、千鶴の言葉を聞いていた。


『あたしはどこにも行かねぇ!』


 そう叫んで、千鶴は麓から集合所へと戻った。そしてそのまま猟銃を抱え、山に入ったのだ。


 それから、約一ヶ月。

 千鶴の様子を見に来た新次朗はいつも通りだった。こちらもそれに引きずられたが、やはりあの時できた溝を感じた。

 千鶴はまだ納得できていない。彼らの決定に、言動に、納得できていない。


(…まさかそれで衝動的に入った山で、神の御遣いに出会うことになるとは思わなかったけどね…)


 その神の御遣いだが、やはり山の入り口付近でも姿が見えない。

 闇の中でもあの白い毛皮はよく見えると思ったが、そもそも近くにいないらしい。もし近くにいるのなら、千鶴が近付いてきたことに気付いて姿を現わすだろう。

 しょげていても、百は千鶴の存在を無視しない。そんな確信があった。


(困ったね。流石に山に入るのは心許ないし、三郎も許しちゃくれないだろうし)


 三郎は賢くて頼りになるので、足元でこの先に言ってはならぬとばかりに千鶴を見上げている。むしろ忠告するように軽く唸ってすらいる。


「わかった、わかったよ。戻るよ…流石に山には入らないさ」


 そう言って、もう一度だけ山を見上げて。

 その先で、ぼんやり揺れる灯りに目を剥いた。


(あれは…松明の明かり? 誰か山に入っているのか)


 こんな時間に一体誰が?

 千鶴はじっと目を凝らしたが、流石に輪郭はわからない。千鶴は迷った。


(一体誰が…猟師の誰かだとしても異常だ。こんな時間に「歪」のいる山に入るなんて殺して下さいって言っているようなもんだ)


 かつて自暴自棄になっていた千鶴が言うのだから間違いない。そうじゃなければ後ろ暗い理由がある人だ。

 いやな予感がして、千鶴は抱えていた猟銃を強く握りしめた。

 しかし、灯りを見る限り相手は人だ。これを使うわけには行かない。


(麓に降りて誰か呼んでくるか? いいや、この暗闇で麓まで移動するのは流石に無理だ。かといって灯りを持てば移動がばれる。どうしたもんか…)


 千鶴が迷っていると、不意に三郎が吠えた。

 突然の行動に思わず飛び上がる。吠える三郎に、松明を持った誰かも反応を示した。


「さ、三郎っ、何を…っ」

「千鶴か!?」

「えっ」


 名前を呼ばれて顔を上げれば、松明を持った誰かは音を立てながら近付いてきた。それはわざとそうしているようで、音で千鶴に自分の位置を知らせているのだ。つまり、敵意はないという表れである。

 そばまで来て、千鶴は松明で照らされた相手の顔を凝視した。


「篤郎おじさん…?」

「お前、こんな時間に何しているんだ。三郎が吠えたからわかったが、灯りも持たずにこんなところに居て、うっかり撃たれたらどうする気だ!」

「は、はあ? このあたりは今、狩り場にしていないだろう? 猟師がいるわけないのに何を…というかおじさんこそ何をしているんだい、こんな時間に」


 篤郎の父が死んだときの言動に対して思うところはあるものの、正論を吐かれて戸惑う。しかし千鶴にだって言い分はあった。

 狩りで山に籠もることはある。しかし現在は、このあたりを狩り場として使っていない。

 それなのに何故こんな時間に山に入っているのか。それもこんな入り口に近い場所で。

 千鶴の疑問に、篤郎は逡巡してから口を開いた。


「松助が姿を消した」

「松助おじさんが?」


 寡黙で、周囲を観察する静かな目をした中年の男。

 彼が姿を消したという。


「今日の夕方から姿が見えねえ。アイツは余計なこと何一つ言わないが、必要なことは言っていく奴だ。何も言わずいなくなるのはおかしい」

「だからこんな時間に探しているのかい」

「俺だけじゃねぇ。新次朗と源太も探している」

「おじさんたちも…」

「流石に千鶴のところには行かねえと思って顔は出さなかったが、まさかこんな時間に外を歩いているとは…」


 じろりと千鶴の抱える猟銃を見て、篤郎は疑わしげな顔をした。松助の失踪に関わっているかというより、今から猟銃を抱えて山に入ろうとしていたと思われている。

 違う、そうじゃない。千鶴は声もなく首を振って否定した。しかし篤郎の目は胡乱げで、千鶴の声なき主張をまったく信じていない。


「お前さん、一緒にいる男はどうしたんだ。まさかそいつと喧嘩してやけっぱちを起こしたか。寛大な千鶴を怒らせるとはそいつもわかっちゃいねぇな」

「そ、そんなんじゃないよ! おかしなことを言わないでくれ!」

「いや待てよ。そうだ男だ。そいつが松助に何かしたんじゃねぇか? アイツもアイツなりにお前さんを案じていたし、どんな奴か確認しようとここまで来たんじゃ…」

「それはもう新次朗おじさんがやっただろ! いい加減にしとくれ!」


 相変わらずな物言いに、千鶴は憤慨して小さく怒鳴る。普段は軽く流すことが多いのだが、百のことまで持ち出されては言い返さずにはいられない。

 しかし篤郎は、ぎゅっと眉間に力を込めた。


「新次朗がなんだって?」

「え?」


 お互い疑問で一拍停止したそのとき。

 山から、一発の銃声が響いた。


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