第13話 獣は逃げろと吠えた
銃声が聞こえてすぐ、篤郎は千鶴に松明を押しつけて猟銃を抱え走り出した。千鶴は慌ててその後をついて行く。三郎が吠えたが、このまま家に戻って床につくことはできない。
(間違いなく銃声だった…それも間違いなくこの奥からだ!)
松助を探していた新次朗と源太が獣と遭遇して、発砲しただけかもしれない。
しかしうっかり探していた松助を撃ったとしたらことだ。何よりこの暗闇で、本来の目的は狩りではない状態で獣と遭遇したとして、一発で仕留めることはできたのか。
(篤郎おじさんが急行したのもその懸念だろう。新手の存在で逃げる獣ならよし、逃げないなら加勢しなくては)
目的は人捜しだ。狩りではない。
むしろ…相手が獣でも松助でもなく「歪」だったら。
松明の火の粉がうっかり猟銃に引火しないよう気を付けながら、握る手に力を込めた。
獣道に慣れた猟師と慣れない千鶴では、進みに差が出る。それでも背中に食い付いて、見失わないように駆けた。
その先で。
猟銃を構えた源太と、倒れた新次朗――――を、逞しい前足で囲い込んだ、巨大な獣と遭遇する。
その獣は獰猛に歯をむき出して、肉食獣らしく低い威嚇音を響かせていた。
「…百?」
呆然とした千鶴の呟きと、獣の咆哮は同時。
千鶴の呟きは誰にも届かなかった。
そして千鶴は、目の前で据銃の姿勢をとる篤郎に気付いて咄嗟に声を上げた。
「やめとくれおじさん!」
「うるせえ黙ってろ…! 新次朗がやられた! ありゃ化け物だ!」
闇に紛れてよく見えないが、千鶴の持つ松明と地面に落ちた灯りでぼんやり照らされる新次朗の下から、流れ出る液体が地面を汚しているのが見えた。幸い落ちた松明は土の上で、周囲に引火する前に消えるだろう。しかしそんなことを気にしている暇もない。
据銃した篤郎だが、発砲することはなかった。それは躊躇ったのではなく、手前にいた源太が振り返ってこちらに駆けてきたからだ。
「ああああ、篤郎! 助けてくれ…新次朗が! 新次朗が!」
獣を前にして背を向け走る彼に、篤郎は馬鹿野郎と悪態を吐く。しかも篤郎の弾道を遮る位置におり、獣が突っ込んできても発砲はできない。源太を巻き込んでしまう。
しかし獣は逃げる獲物を追わず、こちらを睨み付けるだけだった。足元に転がる新次朗を食い散らかすこともない。
「新次朗がこいつに襲われたんだ…! きゅ、急に現われて! 俺ぁ撃ったが当たらねえで! こいつが新次朗を、こいつがぁっ」
(そんなわけねぇ! だって昼間は、あんなに…っ)
仔猫のような百を見て、神の御遣いと認めた新次朗。そんな新次朗に、百も噛みついたりしなかった。
千鶴の膝から引き剥がされたときも威嚇はしたが噛まなかった。百はちゃんと、噛んではならない相手をわかっていた。
それなのに、源太は百に新次朗が襲われたという。百を化け物と罵りながら混乱している。
…暗闇だから百の毛皮がわからないのだ。
闇の中から現われた巨体を見て完全に混乱している。今更神の御遣いと言っても信じて貰えそうもない。
(どうしたら…絶対何か誤解がある。誤解があるはずなんだ!)
しかしそれを説明し、弁明できる状況ではない。
「新次朗が、新次朗が…!」
「うるせぇ腰抜け! 退いてろ!」
篤郎が怒鳴る。源太は頭を抱えて悲鳴を上げて、そのまま走った。走って、呆然と立ち尽くす千鶴に気付く。
ああ、と源太の口から言葉にならない声が漏れた。
獣が吠える。
それは空気をヒリつかせるほど強く、相手を竦み上がらせる程の威力を持つ咆哮だった。
犬の遠吠えとは違う。遠くまで響くのではなく、目の前の相手に叩き付けるための咆哮。
篤郎は冷や汗を掻き、源太は飛び上がり、千鶴は…何も怖くなかった。
飛び上がった源太が、千鶴の手を掴んだ。それは松明を掲げていた方の手で、突然の衝撃にうっかり松明を取り落とす。
「にげ、逃げるんだ千鶴ちゃん…!」
「ま、待…っ!」
「馬鹿野郎!」
篤郎がまた怒鳴る。千鶴が落とした松明が落ち葉に引火したのだ。慌てて踏み潰すが、目の前には巨大な獣もいる。篤郎はあっちもこっちも忙しい。
だというのに源太は千鶴の手を引いて逃げ出した。獣相手に再び背中を見せて走り出したのだ。
篤郎は忙しく、足元の火を気にしながら走り出そうとしている巨体を相手取ることになった。
「馬鹿野郎が!!」
流石にその悪態は、正当な物だった。
暗闇の中、千鶴は源太に手を引かれるままに走っていた。
立ち止まろうにも、思いのほか強い力で引っ張られて止まれない。足場が悪く何度も転びそうになるが、幸か不幸か何度も踏み止まっている。
「おじさん! 源太おじさん落ち着いとくれ! おじさん!」
呼びかけるが源太は止まらない。背後から遠ざかる篤郎の悪態が響き、三郎が吠えながら追ってくる気配がある。百がどうしたのかわからないが、銃声は続かなかった。
しかし源太は止まらない。完全に混乱状態で、千鶴を連れて逃げることしか考えていない。
肝が小さいとは思っていたが、巨大な獣を前にして背中を向けるなど自殺行為だ。これが百相手でなかったら、千鶴に届く前に背中から襲われている。
そう、百は源太の背中に襲いかからなかった。篤郎が猟銃を構えてはいたが、それでも襲いかかってこなかった。
(やっぱりおかしい。百が面識のある新次朗おじさんを襲うなんてあり得ない。余程のことがない限りそんなことしないだろう。でもおじさんが血を流して倒れていたのは本当だ。一体何が…)
落ち着いて考えたくても、必死に走る源太に着いていくのでやっとだ。
源太は余程混乱しているのかずっと口の中で何か言っていた。千鶴を引っ張る手も汗で濡れている。興奮状態の息づかいが苦しそうだ。
「おじさん! も…獣は追って来ていないよ! おじさん!」
百が篤郎に襲いかかるとは思わないが、双方に誤解があるならわからない。すぐ引き返して弁明しなくてはならないのに、源太はドンドン現場から遠ざかって…。
不意に気付く。
自分たちはどこを走っているのだろうかと。
周囲は闇に包まれている。松明の明かりもない。木々に遮られて月明かりなど通らない。
源太の足に迷いはないが、これは恐慌状態だ。明確な目的地があって走っているわけではない。千鶴は青ざめた。
夜の山で迷うことほど死に直結することはない。
「おじさん…おじさん!」
無理矢理、重心を後ろにかけて踏ん張った。足が土を抉って滑る。
走っていた源太は対応できずつんのめって転がった。それでも千鶴の手を放さなかったので一緒に転がる。転がった衝撃でやっと手が離れた。
しかし抱えていた猟銃が千鶴の手から離れてしまう。幸い暴発はしなかった。
「い、たぁ…っ」
覚悟していたとはいえ、転べば痛い。千鶴は打ち付けた腕をさすりながら身を起こし、額から流れた汗を手の甲で拭った。
拭って…ぬらり、と付着したそれに、硬直する。
鉄錆の匂いが鼻をかすめた。
それは嗅ぎ慣れた匂いだ。獲物を処理するときには欠かせない。切り離せない香り。
(血だ)
血が、千鶴の手に付着している。乾いていない血は、千鶴の額も汚した。
(誰の血だ)
千鶴の血ではない。確かに転んだが、打ったのは腕であって手ではない。だって手は源太に握られていたから…。
(源太おじさんの血?)
違う。だって源太はあんなに勢いよく走っていた。あれは怪我をした人間の走りではない。興奮状態で気付いていなかったのだとしても、それならどこで怪我をしたというのか。
だって源太は百に向かって猟銃を構えていた。
百は源太と向かい合っていたが、牙も爪も汚れていなかった。
倒れた新次朗を跨ぐように立っていたが、それだけだった。
あの場で血を流していたのは…。
(新次朗おじさんの、血?)
それもおかしい。
だって本当に百が新次朗を襲ったのなら、襲われた新次朗を受け止めるなりしたら、新次朗は源太の傍に倒れているはずで。
あのとき源太は猟銃を構えていて、襲われた新次朗の血をこんなに浴びるほど近くに立ってはいなかった。
一発の銃声。源太が発砲したのは間違いない。
新次朗が襲われて動転して発砲したというのなら、猟銃を抱える手が、こんなに血で汚れることなど…。
「今度こそ、今度こそ大丈夫。幸せになれる」
ブツブツと聞こえていた源太の声が、突然明確に聞こえるようになった。
転んだ源太は地面に手をついて、カクカク頭を揺らしながら身を起こしていた。
「幸せになれる。大丈夫だ。千鶴ちゃんは源一と幸せになれる。なれる。邪魔者はどこにもいない。大丈夫だ。大丈夫」
「お、おじさん…?」
暗闇の中、四つん這いのままカクカクと源太の首が揺れる。
その動きは絡繰り染みていて人間味がない。足元からぞわぞわと、夜の冷たい空気が忍び寄るような悪寒を覚えた。
ここで吠えながら走ってきた三郎が追いついた。尻餅をついている千鶴の前に割り込んで、源太に向かって吠え続けている。猟師仲間には決して吠えなかった三郎が、威嚇するように吠え続けている。
何故三郎は吠えている。
漠然とした不安が形を伴い、千鶴の視線は源太の挙動に釘付けだった。
カクカクと、揺れていた首が止まる。勢いよく、フクロウのような角度で源太が千鶴を振り返った。
暗闇と勢いでそう見えただけだ。わかっていても肩が跳ねる。
――――何の偶然か、木々の隙間から差した月明かりが源太を照らした。
取り乱し、汗を流し荒い呼吸を繰り返す男。
大きく目を見開いて、瞳孔が震えるほど千鶴を凝視する視線。
見慣れたはずの顔は焦燥に歪み…その手は、赤く染まっていた。
暗闇だ。赤く見えたのは思い込みかもしれない。
しかしその手は汚れていた。汗では言い訳できないくらい、別の液体で汚れていた。
動悸が収まらない。走っていたからだけではない。三郎の吠える声が小さく聞こえるくらい、千鶴の耳は己の鼓動を拾っていた。
源太は月明かりの下、ぎこちない動きで立ち上がった。手と膝を使わずに、吊られた人形のように起き上がり、千鶴を見たまま振り返る。
先程は気付けなかったが、源太の胸から下、そこだけ衣服の色が濃い。水で濡れたように、そこだけ、確実に。
「おじさん…まさか…」
呆然と、座り込んだまま源太を見る。三郎は吠えるのをやめて、唸り声を上げていた。
目玉が剥き出しで、飛び出しそうな程千鶴を凝視していた源太は…不自然なほど、柔らかく笑った。
「ああ…やっぱり、おいちちゃんにそっくりだねぇ」
いつも通り、どこかか細い気弱そうな声。
けれどその奥に陶然とした、取り憑かれたような狂気が滲んでいた。
「それでこそ、嫁に相応しい」
やり直そう、おいちちゃん。
血塗れの両手を広げて、源太は人が良さそうな顔で笑った。
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