第14話 仇が憎いと吠えた獣
おいちちゃん。
千鶴に向かってそう呼びかける源太の目は正気ではなかった。
にこやかなのに、肌が粟立つような悪寒を覚える。何よりこの状況でそんな穏やかな表情をする方がおかしい。
源太が一歩近付く度に、千鶴は地面を擦るように後退した。立ち上がろうにも膝に力が入らない。
三郎が唸り、今にも飛びかからんばかりに体勢を低くする。千鶴は尻餅をついたまま溺れたように喘いだ。
「おじさん…まさか、新次朗おじさんを…」
血の匂いが濃い。
源太から、獲物の解体後に近い、血の匂いがする。
源太はカクリと首を傾げた。穏やかな顔のまま、ああ、と思い出したように呟く。
「新次朗はなぁ、酷いんだ。俺にくたばれなんていう」
「新次朗おじさんが、そんな酷いことを?」
とても信じられない。篤郎ならば勢いで言いそうだが、新次朗がそんな言葉を吐き出すとは思えなかった。
酷いだろう、酷いだろうと源太が頷く。
「新次郎はそう言って俺を刺そうとしたんだ。俺は抵抗して、そこにあの獣が来たんだ。悪いのは新次朗なんだよ」
「新次朗おじさんが…!?」
何が起きている。
新次朗が源太を罵倒し殺そうとしたと?
何故。
酷いだろう、と源太が続けた。
「万造を殺したお前など死んじまえというんだ」
「――――……え?」
何を言われたのか理解できず、思わずぽかんと源太を見上げる。
視線の先で、源太はヘラヘラ笑っていた。いつもの愛想笑いだ。
あちこち返り血で汚れながら、笑っていた。
「ひでぇよなぁ。俺ぁ幸せになりてぇだけなのに。悪いことなんざ少しもしていないのに、くだばれって言うんだ。新次朗も、松助もひでぇ奴らだよぉ」
へらへら、へらへらと源太は笑う。
いつも見ていた笑顔のはずなのに、何故だろう。
吐き気が込み上げてきた。
「篤郎はなぁ、篤郎は言うことは酷いがいつも最後には助けてくれる。もうアイツだけだ。俺を助けてくれるのはアイツだけ。今回だって助けてくれた。きっと獣に喰われちまったが、そのおかげで俺と千鶴ちゃんは助かった。アイツは本当にいい奴だ」
千鶴は百が篤郎を喰らうとは思っていない。百が篤郎に撃たれる心配はしているが、篤郎の心配はしていなかった。
しかし源太は百を獰猛な獣と思っているはずなのに、まったく篤郎を心配していない。
むしろ必要な犠牲だったと言わんばかりに、喰われていることを前提に話す。
へらへら、へらへらと。
先程まで声を上げて恐慌状態だったとは思えないほど、源太は笑う。笑う。笑う。
三日月のように口を歪めて笑う。
千鶴は彼の言葉をゆっくり咀嚼して…血の気が引いた。
つまり…。
つまり「歪」はどこにもいないのか。
「源太おじさんが、おっとうを殺したのかい」
問う声は震えた。
地面についた手が、土を掻く。
「「歪」じゃなくて、おじさんが殺していたのかい。ずっと一緒に狩りをしていた仲間だったのに、それなのに…っ」
「それなのに新次朗は俺を殺そうとしたんだ。酷いだろう」
まるで万造の件だけ聞こえていないとばかりに源太が憐れっぽい顔をする。
千鶴は怒りで言葉も出なかった。ブルブルと身体が震えて、自然と手が懐に伸びる。
「ああ、新次朗は最初から俺を疑っていたんだ。万造が死んだのは「歪」の所為じゃないなんて疑っていたんだ。仲間の俺が言っているのに、信じちゃいなかった。酷い奴だ、酷い奴だ。篤郎は信じてくれていたのに。新次朗は信じていなかった。そうだ、松助もだ。アイツも俺を信じていなかった」
笑っていた源太が、再びブツブツと言葉を繰り替える。口元は笑っているのに目がうつろで、首がカクカクと揺れていた。
「疑っていたが確証が得られなかったんだなぁ。そりゃそうだ。俺は仲間だからな。仲間なのに、アイツは酷い奴だ。俺が千鶴ちゃんのところに行くのを邪魔して、自分は様子を見に行って。問題ねぇなんてそんな、源一以外の男が千鶴ちゃんの傍にいて問題がねぇわけねぇだろうに」
源太が一歩千鶴に近付いた。止まっていた足が踏み出される。
三郎は唸り、千鶴は懐に手を突っ込んだ。
「松助もだ。万造が死んじまったからって、千鶴に詫びてぇって言い出して。今更おいちちゃんのことを話すなんて、だから俺にも本当のことを言えだなんて詰め寄って。どいつもこいつも俺のことを考えてくれねぇ」
「…松助おじさんが、何だって?」
懐に手を入れたまま、千鶴が問いかける。
篤郎は、松助がいなくなったといっていた。その探索に新次朗と源太、篤郎が夜中にもかかわらず乗り出しているのだと。
そうだ。松助だけが、見つかっていない。
源太は今まで見たこともないくらい、明るい顔で笑った。
「おいちちゃんはなぁ、松助の所為で死んだんだ」
脳裏を過る、変わり果てた母の姿。
肩を落とす父の姿に、涙する仲間たち。
――――その中に、松助もいた。
しかし、源太もいた。
何を信じたらいい。
「…おっかぁは、事故だ」
「事故だ。事故だが事故じゃねぇ。あれは松助が悪い。俺じゃねぇ。松助が悪いんだ。アイツは千鶴ちゃんのことも、危険な目に遭わせようと…」
千鶴は源太の言い分が信じられなかった。
どこまでが本当に、どこまでが虚言なのかまったくわからない。しかし彼が万造を殺し、母のいちが亡くなった事故にも関わっているらしいことは確かだと思った。
「おじさんは、松助おじさんは、あたしにそれを伝えようとしたってのかい」
「今更だよなぁ。おいちちゃんも困るだろう?」
「…なんで、それと源太おじさんが本当のことを言うのが繋がるんだい」
源太は、千鶴をいちと呼ぶ。
だが千鶴はそれを指摘するよりも、彼に語らせることを選んだ。明らかに正気ではないが、だからこそ秘めていたことが口から出ている。
そう、正気じゃない。
彼の目は、視点は、千鶴を見ていない。
彼がそう呼ぶように、千鶴にいちを見ている。
「俺は悪くねぇ。悪くねえんだよ」
諭すようにそう言いながら、源太は両手で目元を覆った。
血で汚れた手が、目元を汚す。彼の顔にべったりと血が付着した。
「いいやァ…俺が殺した。そうだ、俺が。万造の妻を奪ってやったんだ」
カクカクと震えながら、顔をかきむしりながら、源太は叫んだ。
「万造の妻を…俺が、俺が! そうさ、奪った…俺が奪ってやったんだ! 松助じゃねえ、俺が!」
それは、千鶴が望んでいた答えだった。
獣が吠える。
三郎でも、百でもない。千鶴の腹の底で獣が吠えた。怨讐の獣が咆哮を上げた。
千鶴は懐から小刀を取り出した。
それは猟銃と同じく、護身で携えていた小刀。
素早く鞘から抜き放ち、もつれる勢いで身を起こして源太へ叫びながら突進する。
「ああああああああ!」
「ひぃいいいっ!」
突進してきた千鶴を、源太は身をよじって避けた。勢いがよすぎて前のめりに転がる。小刀が土を抉った。
「なにすんだおいちちゃん! なにをっ」
「うるせぇ人殺し! おっとうだけじゃねぇ! おっかぁまで殺しやがって!」
振り返りながら立ち上がり、千鶴は小刀を右手で逆手に、垂直に構える。柄を左の手の平で固定し、胸の高さで狙いを定めた。
源太は狼狽え、すっかり腰が引けている。あんな風に語っていながら、千鶴が反撃に出るなんて考えもしなかった顔だ。
千鶴が逆らうわけがないと思っていた。源太の語る幸せとやらに、千鶴も賛成すると思っていたのだ。
なんだったか。源一と千鶴の婚姻だったか。
「するわけねぇだろ! 親を殺した男の息子と祝言なんざ、挙げるわけがねぇだろうが!」
深く愛し合っているなら考える。しかし千鶴は源一とそんな仲ではない。
ここ数年顔を合わせてもいない。源太が源一を薦める度に、いい嫁になれると言われる度に社交辞令だとばかり思っていた。だって千鶴と源一は本当になんにもないのだ。
だというのに源太は本気で、それ以外の幸せがないと思っている。
(ふざけるな。ふざけるなよ。まさかそんなことのために、おっとうは殺されたってのかい)
母が何故殺されたのか、それはわからない。もしかしたら虚言かもしれない。
それでも怒りは千鶴を突き動かした。恐怖を塗りつぶし、憤怒が千鶴を支配する。
三郎が吠えている。
源太に向かって吠えていたはずが、今では千鶴に吠えている。しかし三郎は、千鶴の前に飛び出しては来なかった。
「うわああああ!」
「ぎゃああああ!」
千鶴が吠え、源太が叫ぶ。再び突進した千鶴から逃げようとした源太は暗闇で足を滑らせ転倒した。幸か不幸か千鶴の突きからは逃れたが、怯えて腰を抜かしていた。
四つん這いになって逃げようとする男の背に飛び乗って、しっかり後ろから襟首をにぎしり締める。
源太が情けない悲鳴を上げた。
「ま、待ってくれ。源一と千鶴ちゃんが一緒になればみんな幸せになれるんだ。ほんとうなんだよぉ」
「みんなって、誰のことだい」
「うぅうっ」
襟首を締め上げて、千鶴は歯を食いしばりながら呻くように呟いた。
「みんなって、誰だい。そこにあたしとおっとうはいないのに、みんなってなんだい。みんなって誰だい。自分だけの考えを、周りに押しつけてんじゃないよ!」
源太が言っている意味は分からないし、わかりたくもない。
(――――家族のように、思っていたのに)
癪に障る言動は多いが情に厚い篤郎。藁細工が好きな人当たりのよい新次朗。肝は小さいがよく気付く源太。無口だがいつも隣で助けてくれた松助。
家族のように思っていた。母をなくしてから特に親身になってくれたから、家族のように思っていたのに。
なのに嘘ばかりだった。母を死なせた輩が混じっていた。嘘だったのだ。親身になったのも助けてくれたのも千鶴を騙すためだった。
それどころか今度は父を。新次朗を。
松助は、篤郎は――――。
叫びながら、千鶴は右手を大きく振りかぶった。小刀を構えた手に、小さな刀身に、微かな月明かりが反射する。
(おっとうの、仇…!)
千鶴は仇を討ちたかった。
仇を討つとは、仇を殺すということで。
千鶴は父を殺したこの男を、殺す気で刃物を振りかぶり。
闇夜を切り裂く白い獣が、千鶴の前に躍り出た。
それだけだ。
三郎のように吠えたわけでも、突っ込んできたわけでもない。
ただ、現われただけ。
だけど千鶴は、闇に浮かぶ白に目を奪われた。
思い出すのは、父の言葉。
山に棲む白い獣は神様の御遣いだから狩ってはならない。
女は命のやりとりをしてはならない。
狩りは――――…。
『欲に駆られて余計な命を奪っちゃならねぇ。命のやりとりをするからには、憎しみで銃を握っちゃならねぇ。殺したからには、奪った命に感謝して自分の糧にしなくちゃならねぇ』
捕った獲物を解体しながら、父はそう言っていた。
まだ慣れない解体作業。半泣きで手伝っていた千鶴に、父は繰り返し教えていた。
『生きることは奪うことだ。だからこそ、奪ったからには感謝して、それを糧にするんだ。何一つ、無駄にしちゃならねぇよ――――…』
奪うからには、感謝して、糧に。
奪う、からには――――…。
(そんなこと、できそうもねぇ)
今ここで仇の命を奪ったとして。
千鶴はその命に感謝して、無駄にせず糧になどできない。
いらない。何一ついらない。
「は、はは…」
泣き笑いが漏れる。
乾いた笑いを漏らしながら、千鶴は源太の上から退いた。拘束から逃れた源太は逃げようとして、白い獣を見つけて悲鳴を上げる。すかさず三郎が飛び乗って動きを封じた。
ふらりと立ち上がった千鶴の傍に、白い獣が擦り寄ってくる。
夕焼けの目は不思議そうに、狩らないの? といわんばかりに千鶴を見ている。
「…憎しみで、狩りはしちゃいけねぇんだ…」
小刀を握る手は、硬く力を込めすぎてすぐ手放せない。
だから逆の手で、百の額を撫でた。新次朗と篤郎をどうしたのか気になったが、白い毛並みに血がついていない。だから無事だと信じた。
「おっとうの教えに反して殺すほどの価値は、アイツにねぇよ…」
握った小刀を突き立てられたら、もしかしたら気が晴れるかもしれない。しかし晴れないかもしれない。
仇を討ちたい気持ちは変わらない…しかし父の教えに反する程の価値が、源太にはない。
千鶴はそう断言した。
その断言を耳にして。
源太は、千鶴にいちを重ねていた彼は。
愕然と、目を見開いた。
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