第15話 鶴が欲しいと空を見て


 源太は万造より二年早く生まれた。


 山に囲まれた麓では、狩猟に関わる仕事が主流で二人の両親も猟師だった。親の仕事を引き継ぐのが当たり前だったので、源太も万造も揃って猟師として教育を受けた。

 しかし源太は血が苦手だった。動き回っていた獲物が一発の銃弾で事切れ、その皮を剥いで肉を削ぎ、己の手を汚すのが苦手だった。耐えきれないほどではないが、恐ろしかったのだ。

 恐れは躊躇いに繋がる。だから猟師でありながら源太の成功率は低く、もっぱら罠に頼ってその後の解体も仲間に頼っていた。


『情けない奴だなぁ』

『いいや、源太の罠は獲物に気付かれ難い。鉄砲だけが狩りじゃねぇ』

『そうだそうだ、万造の言うとおりだ。お前はよくやっているよ』


 源太より一つ年上の篤郎が呆れる度、二つ下の万造が素っ気なく庇うようなことを言う。それに乗っかって励ますのが万造と同い年の新次朗で、源太は彼らの言葉を聞きながら引きつったように笑っていた。


 源太は罠で狩るのが上手かった。しかしそれは撃つのが怖いだけだ。

 万造はそれも狩りだと言うけれど、そういう万造は撃つのも罠を仕掛けるのも上手かった。

 山に入れば必ず獲物を捕ってきて自分で血抜きを行い、皮を剥ぐ。処理も丁寧で、業者は万造が処理した獲物を降ろして貰おうとよく声を掛けていた。


 源太はだめだ。躊躇いが先に出て、処理が甘くなる。

 きっと源太は猟師が合っていなかった。出来損ないだったのだ。

 自分より年下の、愛想のない男がもくもくと処理をする様子を眺めていた。


 年上の篤郎は嫌みったらしく源太に「これもできないのか」「あれもできないのか」と揶揄ってくるが、できないからこそそう言われる方が納得できた。篤郎は年上だし、源太より狩りが上手くても諦めがつく。


 新次朗は明るい奴だが、おかしな奴だった。蓑が大好きで、自分で作った蓑細工ばかり使用していた。年下で狩りも上手くて人当たりもよい奴だったがそんな所があったから、源太は彼を調子のよい奴だと思う程度で済んだ。妬み嫉みはあったが、それは全て万造に集中していた。


 だって、万造は源太より年下なのに、誰からも頼られていた。

 寡黙で真面目で。狩りが上手くて。処理も素早く丁寧で。

 人付き合いは得意でないが、何でもできるから誰からも頼られた。

 篤郎からも、新次朗からも。

 ――――いち、からも。


 いちは、うら若い娘だった。

 烏羽のように艶やかな黒髪に、嫋やかな目元の美しい娘。田舎町では滅多に見ないべっぴんな娘だった。


 万造といちは、ヘタすれば親子ほど年が離れていた。それでも彼女は万造に嫁ぎたいと親に訴えて、万造の元に押しかけて、ご恩を返させて欲しいといじらしい献身を見せた。

 いちは、幼い頃大好きなヤマモモを求めて山に入り、野犬に食い殺されそうになった所を万造に助けられたことがあるらしい。

 幼い頃から万造に夢中で、猟師の妻になりたいと世話をしていた。その献身に万造が折れて、二人は祝言を挙げたのだ。


 猟師仲間はそんな経緯を知っているから「おいちちゃんが勝った」などと囃し立てたが、源太は祝福の声を掛けられなかった。そのころ、源太は親の決めた娘と見合いを終えて結婚することになっていた。

 いちとは比べものにならない年増だ。源太より年上で、既に源太は頭が上がらない。


(万造は若くて綺麗な嫁を手に入れたのに、俺は口うるさい年増と一緒になるのか)


 ずるい。


 源太より年下で、無愛想で、人付き合いが得意ではないのに。

 狩りができて、頼られて、若くて綺麗な妻まで手に入れた。


 ――――なんてずるい奴なんだ。


 長年降り積もった不満は源太の胸に淀のように溜まっていった。少しずつ積もっていったから、それを誰かに察知されたことはない。源太はいつも自信がなさそうで気弱で、誰に対してもヘラヘラしていた。

 だから誰も気付かない。多少の妬心は当たり前で、誰もが抱えているからこそ、チラリと覗く程度では気付かれない。それだけ万造は優れていた。


 更に婚姻後、猟師たちのためにと集合所の管理をするいちの近くで過ごすようになれば、源太の妬心も深みを増した。

 男は憎いが女は欲しい…そんな妄執が、胸の淀みに居座った。

 息子が生まれ、源太は己の文字といちの字をとって源一と名付けた。長男だったので誰も不思議に思わず、源太は一人で悦に浸った。


 万造たちの間に娘が生まれたときは、これだと思った。


 己の分身である息子に、いちの分身である娘を嫁がせる。

 美しい嫁が手に入らなかった過去のやり直しができるのだと、源太は本気で考えた。


 考えたが――――いつだって万造は、嫁に欲しいと告げる源太に冗談でも頷かなかった。生まれたときから言っているのに、一度も頷かなかった。

 何度も、何度も訴えているのに。


(娘の父親になるとはこういうことか。早いうちに許嫁がいれば、千鶴ちゃんも困ることがないだろうに)


 そうなれば皆幸せなのに。


 源太は千鶴が源一の嫁に来るならそれで良かった。本当だ。

 だからあの日の出来事は、源太が画策したわけではなかった。


 十一年前の夏の日、源太は猟師たちと毛皮を売りに麓へ行った。

 女子供だけでは危ないから、松助が集合所に残っていた。集合所に残る男は順番で、その日は松助が担当だった。


 しかしその途中で荷台への入れ忘れに気付いて、源太一人が道を引き返していた。最終確認をしたのは篤郎だったが、グチグチと煩かったので逃げるように源太が取りに走ったのだ。

 引き返した源太は、ついでに水を貰おうと納屋に向かう前に集合所へ向かった。万造の居ない時にいちと会える下心もあった。


 だが集合所から聞こえる争うような声に、思わず息を潜めて様子を窺う。


『どうしてわかってくれないんだ!』


 叫んでいるのは松助だった。

 松助はいちの兄貴分で、万造たちより余程いちと年が近い。万造がいなければいちは松助に嫁いでいたに違いないと思う程度には距離が近かった。


 今でこそ寡黙を地で行く松助だが、元々はとてもヤンチャで同じ年頃の子供たちを率いる悪ガキだった。しかし成長するにつれ、口調を改め態度を改め、少しずつ落ち着きを手にしていった。

 周囲は大人になったと言うが源太にはわかる。


 あれは、万造を真似ていたのだ。

 惚れた女が好む男を模倣していたのだ。


『あなたこそどうしてわかってくれないの! わたしは万造さんを好いているの。想いを告げられても、答えられないよ!』


 なんと! 松助は二人きりになったのをいいことに、いちに言い寄っていたらしい。


 しかしそれも今更なことだ。だって万造といちの間には娘が一人生まれている。

 そう、いちの分身である千鶴が…そこまで考えて、はてと首を傾げた。


 千鶴はどこだ。


 流石の松助も、娘の前で母親に迫ったりしないだろう。この周辺で小さな影は見ていない。集合所にもいないなら千鶴はどこだ。


『いい加減にして松助。確かに麓じゃあ、女は少ない。夫が山に行っている間に他の男と逢い引きする妻が少なからずいるのは知っているよ。だけど私には万造さんだけだよ!』


 いちの言葉に衝撃を受けた。

 源太はそんな話、まったく知らなかったからだ。


 …子供を生んだ後の夫婦は、火遊びに興じることがある。源太は知らなかったが、特に夫の帰りが遅い場合、妻が若い男を床に誘うことはよくあることらしい。

 そして万造といちの年は十六も離れている。子供を生んだいちに、若い松助が声を掛けるのは不思議なことでもなかった。そう、女だって年老いた男より年若い男の方がいいだろう。そう判断する者は多いはずだ。


 しかしいちは拒絶した。屹然と、自分より大きな男を拒否した。


『このことは、万造さんに言うわ。もうわたしに言い寄るのはやめてちょうだい』

『待つんだいち、俺は』

『放して!』


 いけないと思った。

 屹然としているがいちの声は怯えが混ざっている。松助は普段理性的だが、惚れた女に拒否された男が平静で居られるわけがない。二人の仲裁をするために、源太は集合所へ足を踏み入れた。


 勢いよく開いた戸。

 驚いて振り返った男女。

 囲炉裏と土間の段差で、振り返った女の身体が傾いた。


 あ。


 三人がそう思ったときには――――女は落ちていた。

 不自然な体勢で、男の手を振り払い、手をつくこともできず。


 鈍い音を立てて、女の首が折れ曲がる。

 その瞬間を、一部始終を、源太は目撃した。


『ち、ちがう。ちがう、俺は、おれっ』


 松助の顔色が一気に悪くなる。源太も口を開けたまま視線が外せない。ガクガクと震えて、一目で絶命している女を凝視して。


『う、あ、ああああああ!』

『あああ! あ、あああああ!』


 叫びながら走り出した松助は入り口に立ち尽くす源太とぶつかった。源太も大声を上げながら松助に縋り付く。二人はもみ合い、入り口から離れ、もつれるように駆けた。追いかけているのか逃げているのかわからない状態で、何の装備もなく山に入る。

 意味もない叫びを上げながら、二人は獣道を転がった。


 ――――俺が殺した。


 漠然と二人とも、そう思った。


 事故だ。間が悪かった。運が悪かった。

 俺が殺した。俺が殺した。俺が殺した!

 事故だ。俺は悪くない。

 俺が殺した。俺が殺した!


 交互に湧き出る自己弁護と悔恨の念。

 そんなつもりじゃなかった、俺の所為じゃないと怒鳴り、意味もない叫び声を上げる。獣のような咆哮を上げる二人に獣は近付かず、汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら二人は頭を掻き毟った。


 暫くして、ぽつりと松助が呟く。


『千鶴を探さねぇと』


 混乱していた源太は、その言葉に頷いた。

 そうだ、千鶴を探さないと。

 いちの分身。あの小さないちを探さなければ。


 ふらふらと山から下りた二人は、その足で集合所に向かった。

 探さねばと思ったがどこに居るのかわからない。源太の足は自然と集合所に向かい、松助ものたのたとついてきた。

 集合所の手前で、騒がしい篤郎と新次朗の二人に遭遇する。

 どこに居たんだと問われて、千鶴を探していたと台詞がつるりと飛び出した。実際探していたから嘘ではなかった。

 悄然としている二人を見て、二人は納得したような顔をした。そしてすぐに痛ましげな顔をする。


『落ち着いて聞いてくれ。実はいちちゃんが事故で亡くなった』


 源太と松助が息を呑む。

 聞けば、源太が戻らないので何かあったのかもしれないと三人揃って引き返したらしい。そして集合所で、土間に落ちたいちの姿を発見した。そこにはいちの姿しかなく、松助や源太、千鶴は一体どこだと探していたらしい。

 千鶴は少し前に戻って来て、今は万造と共にいちの傍にいる。


『お前たちは千鶴ちゃんがいなくなったのを探していたんだな。いちちゃんはその間一人で、運悪くこんなことになっちまったんだろう』

『まだ若ぇのに…母親を亡くした千鶴が苦労するぞ』

『万造も気落ちしちまって見ちゃいられねぇ…今は家族だけにしてやろう』


 源太はゆっくり松助を見た。

 松助は呆然と、集合所を見ている。

 ――――二人がいない間に、いちの件は事故として取り扱われていた。


『…あ、ああ…うぅうううううっ』


 源太は口元を押さえてむせび泣いた。泣きながらその場にしゃがみ込んだ源太の肩を、痛みを堪える新次朗が慰めるように叩く。

 松助は立ち尽くしたままだった。


 唸るように泣き声を上げながら俯いて…源太の口は三日月のように大きく歪んだ。

 笑い声が漏れそうになって、両手で必死に押しとどめる。漏れる呻きは嗚咽にしか聞こえない。


(俺が殺した。おいちちゃんを、万造の妻を、俺が殺した)


 あれほど良心を苛んでいた言葉がするりと出てくる。

 伴うのは罪悪感ではない。

 信じられないほどの歓喜だった。


 妬ましい男が不幸だと、そう思っただけで、信じられないほどの喜びが源太を満たしていた。


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