第16話 鶴が欲しいと罠を張る


 いちの死は事故として処理された。

 間違いではない。松助はいちを突き落としたわけではないし、源太はわざと驚かせたわけじゃない。

 嫌がるいちに迫っていた松助が手を振り払われたのも、二人を仲裁するために入ってきた源太に驚いたのも、全ては間の悪い事故だった。二人がいちを殺したわけではない。


 いちの葬儀はしめやかに執り行われた。いちの両親は泣いていたが万造を責めることはなかった。事故なのだから、誰も悪くないから。ただ幼い娘を残して死んだ女を誰もが悼んだ。


 源太と松助は、その後あの時の話を蒸し返すことをしなかった。

 二人きりになってもあの時の話をしたことがない。お互い事故だったのだと言い聞かせ、自分は悪くないと罪悪感を封じ込めて生活していた。罪悪感を抱いていたのは松助だけで、源太は思い出しては笑いそうになって仕方がなかった。


 万造が泣いている千鶴を抱き上げて肩を落としている姿が、とても憐れだった。黙々と作業する万造がふとした瞬間妻を探す視線が、溜まらなく惨めだった。

 そんな悄然とした姿を見る度、万造の不幸を感じる度に、源太の心が慰められる。胸の空く思いだった。

 源太は万造の不幸を喜ぶほど、彼を嫌っていたのだ。


 可哀想なのは千鶴だった。幼くして母を亡くした千鶴は、落ち込む父を見て母の代わりになろうと必死だ。自分も辛いのに、父のためにと母の真似をしている。

 それでいい。それがいい。

 だって千鶴はいちの分身なのだから、千鶴がいちの真似事をするのは当然のことなのだ。

 源太がいちの死を悲観しなかったのは、千鶴がいたからだ。いちの分身がいたから、いち本体が死んでも立て直せた。そう、千鶴と源一が添い遂げれば源太の念願は叶う。


 だがそれは上手くいかなかった。

 源一が、源太と同じように狩りに向いていなかった。


 それは仕方がない。源太だって向いているわけではない。だがだからといって、猟師にならず肉屋になるのは頂けない。それは妻の実家で、家業を継いだことになるが源太は猟師なのだ。

 猟師の嫁にならなければ、猟師である源太とそれに嫁ぐいちの姿がぶれてしまう。

 成長してから距離が空いたのも痛手だった。源一は千鶴を好いていたが、だからこそ近づけなかった。千鶴は源一に興味が薄く、自ら近付くこともない。源太は必死になって二人の間を取り持とうとしたが、から回って上手くいかない。

 このままでは千鶴が別の男の嫁になってしまう。源太は焦っていた。


 …だから、山で万造と二人になったとき、何度目かわからない言葉を口にした。


『なあ万造。そろそろ千鶴ちゃんを源一の嫁にくれないか』


 この時代、親が決めた相手に嫁ぐのが当たり前だ。源一もそうだったし、篤郎や松助だって結局は親の紹介で見合いをして嫁を貰っている。新次朗は明るい性格なのに蓑を愛しすぎていて女と上手くいった話を聞かない。


『千鶴ちゃんも十六だ。いちちゃんが嫁に来た年だよ。あの子もそろそろ家庭を持って夫を支える嫁にならなくちゃ』


 十六で婚姻し、十八で千鶴を生み、二十三でこの世を去ったいち。

 今でもその死に様が瞼の裏から離れない。今では彼女の笑顔より思い出しやすい光景だ。


『…確かにいい年だが、相手は源一でなくてもいいだろう』

『そう言うなよぅ。うちの子は千鶴ちゃんが大好きなんだ。親としちゃあ叶えてやりてぇんだ』


 何度も繰り返したやりとりだ。源太は周囲を警戒している万造に言いつのった。まだ狩り場から離れているし、話していれば獲物は近付いてこない。狩りが成功しなくてもいいから、万造に頷かせたかった。

 しかし源太を振り返った万造は、今まで有耶無耶にしていた万造は…怒りを堪える目で、源太を見ていた。


『それで、千鶴の気持ちは二の次か』


 低い声は獣の唸り声に似ていた。

 かひゅ、と喉が鳴る。一気に喉が貼り付いて、源太はゆっくり唾を飲み込んだ。


『千鶴は源一なんざ興味もねぇ。俺は唐変木だがそれくらい分かる。頼りねぇ倅にしっかり者の嫁を嫁がせたいとしょっちゅう言うが、それが千鶴である必要はねぇ。アイツにその気がねぇのに、頼りねぇ男に嫁がせられるか』

『な、た、確かにうちの源一は頼りねぇが、千鶴ちゃんを思う気持ちは人一倍だよ! きっと幸せになれるさ!』

『俺が気にくわねえのはな、源太』


 深く息を吸い、万造は声を荒げないよう注意しながら言葉を吐いた。


『千鶴を俺にくださいって、源一が一度も頭を下げに来ていねぇことだ』


 子供たちにその気があるなら考える。

 しかしそうではなく、嫁ぎ先を決める家長に頭を下げに来る気概もないのなら、娘を渡すことはできない。


 源太は慌てた。源太自身が見合いで婚姻が決まったため、そんなこと考えもしなかった。何よりいちは自ら万造に嫁いできた。だから源一に万造と話をつけてこいなんて助言をしたことはない。


『千鶴が欲しいなら源一が動くべきだろう。それが出来ねぇ奴にはやれねぇよ』

『だけど源一には千鶴ちゃんしか…』

『…源太、お前…それをやめろ』

『ええ? なんのことだい』

『「源一には千鶴しかいない」なんて、息子を洗脳するのをだ』


 何を言われたか分からなかった。


『千鶴は聞き流して相手にしちゃいねぇが息子は違う。父親からずっとそう言われて育って、当たり前に千鶴が嫁に来るもんだと思っている。アイツが俺のところに来ねぇのも、嫁に来るのが当然だと思っているからだ』

『なんのこと…何を言っているんだ万造』

『昔から「源一は千鶴と一緒になるんだ」「源一の嫁は千鶴しかいない」と繰り返し聞かせているのは知ってんだ。倅の初恋を励ましているのかとも思ったが…源一が千鶴ばっか見てんのは、お前がそう仕組んだからだろ』


 言葉も出なかった。

 そんなことはないと言いたいのに、喉が貼り付いて言葉が出ない。

 万造は源太を睨み付け、深く呼吸する。怒鳴らないようにしているのだ。


『お前が何を思って息子の名前を決めたのか知らねぇが、お前のところに千鶴は嫁にやれねぇよ』


 ばれている。

 ――――源一の由来に、気付かれている。


『話は終わりだ。そろそろ狩り場なんだから、余計な話はするんじゃねぇ』


 そう言って、万造は源太に背を向けた。


 ばれていた。

 源太がいちに抱いた気持ちがばれていた。


 …もしかして、いちの死因にも疑問を持っているのではないか?

 十一年。掘り返さなかったのは幼い千鶴のためだろう。余裕もなかった。しかし今、千鶴は嫁に行ける年齢まで育った。

 それなのにこのままにするのか。今日もこれでいつも通りなかったことにする気なのか。

 猟師として優秀な万造は、私怨で動かないと言い切る万造は…このまま、私事を飲み干して山の御意志に従い、あるがまま生きるのか。


 源太に見向きもせず。


 そう思ったら。

 源太は足元の石を手に、後ろから万造に殴りかかっていた。


 何度も殴った。

 一度目の殴打で前のめりに倒れた万造の背に跨がって、後頭部を何度も殴った。

 藻掻く腕が地面に落ちたので身体をひっくり返し、仰向けにしてまた振りかぶった。何度も何度も叩き付けた。肉がえぐれて、骨が見えるまで何度も叩いた。


 源太は血が苦手だ。生きていた獲物が動かなくなる様を見るのも、皮を剥いで肉を削ぐのも嫌いだ。覚悟が足りなくていつも躊躇する。


 だけど、だけど。

 なんだ。

 こんな簡単なことだったのか。


 そうか。

 源太は抵抗されるのが恐ろしかったのだ。

 抵抗されて、反撃されて、傷つけられるのが怖かった。

 だけど。


 無抵抗の獲物を叩くのが、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。


 何度も何度も動かなくなった万造を石で叩きながら、源太の顔は恍惚に歪んでいた。


 万造の死は、流石に事故として扱われなかった。

 当たり前だ。明らかに獣では考えられない殴打痕ばかりだったのだ。獣の牙と爪痕は、猟師にとって見極められて当然の痕跡だ。

 だから源太は「歪」が出たと言った。

 万造が「歪」にやられて動転して、川に落ちた源太は見逃され、「歪」は山の奥へと消えたと証言した。

 源太は気弱で肝が小さく、万造を殺害するような男ではない。仲間たちはそう判断するだろう。

「歪」が出たと「討伐隊」へ報告されたとしても、「歪」は山奥へと逃げたのだ。山へ逃げた熊だって必ず見つけられるわけではない。だから報告義務を果たしたとしても、虚偽の報告だとばれないと思った。


 しかし驚いたことに新次朗は「歪」の出現報告をしないと宣言して。

 怒った千鶴は麓に降りず、猟師たちにもついてこず、変わらず集合所で生活して。

 篤郎はピリピリしているし、新次朗はじっと考え込んでいるし、松助は何を考えているのかわからない…源太が予想していた流れとまったく違う事態になっていた。


 万造が死ねば、過去のことは掘り返されない。

 千鶴は麓で生活し、源一と添い遂げることができる。

 源太はそれを機に引退して、仲睦まじい二人を見守る生活ができると思っていたのに。


 邪魔者はいなくなり、幸せになれると思っていたのに。


 それなのに、山に残った千鶴が山で猟師を拾ったと篤郎が言った。

 しかも千鶴が、その男を囲っていると言い出して。

 源一がいるのに。千鶴には源一がいるのに。一人しか愛さないと言ったいちが相手を決めたなら、源一は松助のように拒絶されてしまう。

 源一は源太なのに。間に誰か入るだけで、あの日拒絶されたのが源太になってしまう。

 それではいけない。

 それはいけない。

 そうだ、いちが源太を選ばないのなら、いちはあの日のように死ななくてはならない。一人しか選べないというのなら、他はいらないというのなら、そんないちはいらない。そうすれば万造はもっと悲しみ苦しみ不幸になる。


(あレ、デも万造は俺ガ殺シたかラ…)


 …ああ、結局邪魔者はいないんだ。

 全部排除すれば問題ない。源一と千鶴は幸せになれる。


 そう思って行動しているのに、邪魔者は増えていく。

 松助もそうだ。


『俺は千鶴に本当のことを伝えようと思う』


(今更何を言ってんだ)


『何も言えないまま万造さんが死んじまった。後悔している。俺が横恋慕した所為でいちがあんなことになっちまった。一言も詫びられねえまま、万造さんは逝っちまった』


(それがどうした。この十一年、事故を事故のまま扱ったことの何がいけなかった)


『いちの代わりに、千鶴をずっと守れたらと思ったが…千鶴からしてみりゃあ俺も仇とかわらねぇ。あの子に罵られても償わなくちゃならねえ…源太さん、アンタもだ』


(償わなきゃならねえこと、俺はしちゃいねぇ)


『新次朗さんも気付いている。「討伐隊」に話を通さなかったのも、人の手で殺されたもんだと気付いたからだ。あの人は俺たちを疑っている。猟師仲間の誰が親友を殺したのか、ずっと探っていたんだよ』


 だからもう気付いているはずだと松助は言った。

 そんなはずねぇと、俺は松助を崖から突き落として…その後は知らねぇ。松助が帰ってこないと慌てる篤郎に便乗して、一緒になってあたりを探し回っただけだ。

 後から新次朗が合流して。

 山かもしれねえって、暗くなった後にそう言って。

 三人で入ったのに、気付けば篤郎がおいていかれて。新次朗が源太を問い詰めてきた。


 自首しろと、身に覚えのないことを言ってくるから。

 恐ろしくなって源太は小刀を新次朗の腹に突き立て――――…。


 大きな獣が割り込んできて、悲鳴を上げながら発砲した。


 排除して排除して、そうしないと幸せになれない。

 どうしてみんな邪魔をするんだ。

 俺はただ。

 俺は。

 幸せになりたいだけなのに。


 俺が幸せなら、みんな幸せになれるにきまっているのに。


「おっとうの教えに反して殺すほどの価値は、アイツにねぇよ…」


 透明な滴を目元から零しながら、おいちちゃんが呟いた。


 源太を見ながら、殺す価値もないと。


 価値が。


 ない。



 麓の家。滅多に帰らない源太。疲れた身体を引きずって戸に手をかけた。

 向こう側から聞こえる男女の笑い声。妻ともう一人。息子ではない男の声。楽しげに睦み合う声。

 笑い声が響く。

 屹然としたいちの声が蘇る。若い男と逢い引きする妻。松助がいちに迫った理由。拒否したいちと、想われている万造と、逢い引きしているらしい妻と――――夫として価値のない源太。

 存在否定。否定否定否定。源太という男に価値はない。ずっと、ずっと妬みだけが立派に育って肥大して、醜く変質した矮小な存在。


「あは」


「あはは」


「あっはぁはははっはあっははは!」








 ピシッ

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