第17話 罠は空のまま朽ちた
源太の顔が裂けた。
うつ伏せに倒れたところを三郎に押さえ込まれていた源太の顔が、中央から四方に裂けた。
源太を押さえ込んでいた三郎が飛び退いて、吠えながら距離をとる。
まるで花が咲くように、閉じた花弁が開くように顔が裂けていく。
皮が、鼻が、目が、口が一枚一枚裂けていく。いいや、肉も骨もめくれていく。
だというのに血の一滴も零れ落ちない。音だけが肉が裂けて骨の砕ける音そのままで、聞くに堪えない鈍い音だけが夜闇に響いた。
あまりにも唐突な現実離れした光景に、千鶴の口がぽかんと開く。
花が咲いた。
源太がいたところには真っ黒い茎のような影が一つ聳え立ち、彼の皮と肉、そして骨を花弁に花が咲いた。
醜悪な、冒涜的な、吐き気を催す邪悪な花が。
なんて「歪」な花だろう。
どこまでも「歪」な――――…。
「…いびつ?」
呆然と呟きが落ちる。
勢いよく揺れた花弁が、骨の硬さで三郎を襲った。
「三郎!」
横薙ぎに払われた三郎の身体が地面を滑る。千鶴は悲鳴を上げて動かない三郎に駆け寄った。抱き起こせば、意識はあるが不自然に痙攣している。骨を折ったのかもしれない。
抱えたりせず、安静にするのが一番だろう。しかし突然攻撃してくるような生命体がいる中に放置することはできない。千鶴は歯を食いしばりながら三郎を抱えた。
振り返れば、源太だった花は骨のように硬質的に。筋肉を使って力強く。皮で膜を張りながら周囲を攻撃していた。
(あれが「歪」…? どういうことだい。源太おじさんが「歪」だった? いいや、人間だった。おじさんは人間だったはずだ)
少なくとも十一年間、源太が人間以外の姿になったことはない。他の猟師たちだってそうだ。
(源太おじさんは人間だ)
「歪」は、他の生き物と違う。
彼らはどうやって生まれたのかも不明で、突然姿を現わす。どこにでも現われる可能性のある怪物。「歪」な姿をした化け物。
解明されていないからこそ、国は「歪」の発見次第報告義務を…。
(人間、だった)
――――「歪」がどうやって生まれるのか、誰も知らない。
何故現われるのか、どこから生まれるのか、どうやって増えるのか。
(まさかこれが、答えだってのかい)
「歪」な花弁が、醜悪な肉の塊が千鶴に振り下ろされる。
避けることもできず固く目を瞑った。三郎を守らなければと身体を丸め…そんな千鶴を守るように、千鶴を前足で囲った百が吠えた。
咆哮は衝撃を生み、肉の花弁が吹き飛ばされる。その部分だけがえぐれて、動きが止まった。
吹き飛んだ花弁が打ち上げられた魚のように震えた。震えて、黒い茎の部分が膨らんで…吐き出すように肉の花弁が生える。
ずるりと黒い粘液をまき散らしながら肉が咲いた。
あまりの醜悪さに目眩を感じる。
(削っても元に戻る? なんだいこいつ、どこまで生き物として「歪」なんだ)
一体どうしたらいい。
新次朗は自分から関わらなければいいなどと言っていたがとんでもない。目の前で暴れる「歪」は、たとえじっとしていても千鶴を嬲り殺す勢いだ。
源太であった頃の原型など一つもない。
いや、もしかしたら…襲いかかってくるのは、源太の潜在意識があってこそなのだろうか。
(おじさん…結局確かめもせず、犯人と決めつけちまった)
万造を、いちを殺したと叫んだ彼の言葉を信じて、千鶴は彼に刃をむけた。
裏取りもせず、証拠もないのに、彼の証言だけで刃を振り上げた。
家族のように思っていた相手に。嘘だと叫ばず怨嗟を叫んだ。
千鶴は仇が欲しかった。憎しみを、怒りをぶつける相手が欲しかった。
父の教えを思い出さなければ、赤く染まったのは千鶴の手だった。
(こんなことになって、もう本当のことはわからねぇ…なによりもう、人ですら…っ)
肉の塊がしなやかに、鞭のようにしなった。
百が吠えて打ち落とすが、百が出す振動では吹き飛ばすことはできても根本的な解決に繋がらない。
(どうしたらいい。どうしたら…!)
抱えた三郎も心配だ。
しかし嵐のように暴れる「歪」に、千鶴は為す術もない。
(いや…諦めちゃならねぇ!)
千鶴は暗闇の中、視線を走らせた。
百が吠えているのは「歪」に対しての対処法が「それ」だけなのかわからない。しかし飛び出さないのは、千鶴と三郎を守っているからだ。
もしかしたら爪と牙も有効かもしれない。しかしそれは至近距離まで近付かなければ意味をなさない。中距離から、離れた状態での対抗手段がこの咆哮なのだろう。
(きっとそうだ。だからせめて、百が距離を詰められる隙ができれば…)
この場から、千鶴と三郎が離れるのが一番だろう。しかし「歪」がそれを許してくれるとは思えない。意識など、自我などないようで、あれは執拗にこちらに向かって攻撃を繰り返す。
(…見つけた!)
抱きかかえていた三郎を、そっと地面に下ろす。
真っ黒な目が心配そうに千鶴を見上げている。痛むだろうに、前足が千鶴を追うように藻掻いた。その前足を手の平で包み、呟く。
「ごめんな」
再び百が吠える。
その瞬間、千鶴も駆けた。
小袖の裾をまくり上げ、身を屈め、獣のように低い姿勢で疾走する。
百の咆哮で弾けた花弁。それが再生する前に、百の足元から躍り出る。身体の大きな百が全身でぎょっと驚いたのがわかった。
駆けた千鶴は、転がるように地面に落としたままだった猟銃を拾い上げた。
振り返りざまに据銃する。肩と頬、目の位置に水平に。急な動きでぶれないよう足裏を木の幹に押し当てた。
照準は、正確でなくていい。灯りの少ない夜闇で狙いが定まるとは思えない。千鶴は百を誤って撃たなければそれでいい。
地面に落ちた猟銃の銃口に土がついているかもしれないとか、異物の付着は考えない。考える余裕はない。
(この一発が、「歪」を怯ませることができたなら…!)
千鶴は引き金を引いた。
照準は夜闇で明確な狙いを定めていない。猟師としてはあり得ない、父が知れば叱責するだろう撃ち方。
千鶴が撃った弾丸は、広げられた花弁の一部を弾き飛ばした。
狙ったわけではない。当たれば儲けものと思っての行動。
だから千鶴は知らないし、気付いていない。
――――それは、源太の脳だった場所だった。
【お゛、あ゛お、お゛ぉおおおおおおおお゛お゛っ!】
夜の山に響く背筋が凍るような絶叫。
それが源太の声だった「歪」のものだったのか、千鶴には判別できない。
しかしそれが断末魔だった。
絶叫と共鳴するように震える「歪」な花。抉れた部分が元に戻らず、ブルブル震えるその場所から黒い粘液があふれ出る。まるで血液のようにあふれるそれは、大量に地面を汚した。
その光景に、隙ができればと思っていた千鶴は呆然とする。
(まさか、致命傷…?)
倒せたのか。そう思いながら銃口を下げ。
「え、わあ!?」
突進してきた百が、器用に千鶴を背中に乗せた。
彼は三郎を咥えていて、千鶴を掬い上げるように背中に乗せた。流石に騎乗はできなかったが、百の背中に担がれるように乗せられた。
そしてそのまま、全速力で走り出す。
「も、百!? どうし…っ」
振り落とされないよう毛皮にしがみ付いた千鶴は、百の背中で顔を上げ…背後で闇が凝縮するのを見た。
夜闇より一層濃い闇。
そこだけぽっかり穴が空いたと錯覚しそうになるくらい濃い闇が、渦を巻くように「歪」を呑み込んでいく。
百の足は速い。ぐんぐん遠ざかるのに、やけにはっきりとその闇は目に焼き付いた。
そしてその闇が。
複数の塊になって爆ぜるように飛び散った。
「ひぃ…っ!?」
咄嗟に頭を抱えて百の毛皮に身を伏せる。その横を爆ぜた何かが通り過ぎた。
百は背中に目があると錯覚しそうな動きで飛んでくる塊を避け、木々を縫うように走る。通り過ぎた先で、塊がぶつかった木が黒く浸食されていくのが見えた。
(なんだいあれは。触れたらそこから黒くなって…待っとくれ。あれはどこまで飛び散った? このままじゃ山が真っ黒になっちまう!)
千鶴は蒼白になった。
山が「歪」に歪められてしまう。
(あ、あたしが撃ったから? 間違ったのか? 「歪」には狩り方があったのか!?)
「討伐隊」がわざわざあるのも、それが理由なのか。
だとしたら千鶴はとどめを刺したのではなく、最悪な一手を打ったことになる。
(山神様、申し訳ありません…!)
後悔で胸がよじれそうだ。
きつく目を閉じた千鶴は自然と百の毛皮に埋まることになり…こんなときなのに、その柔らかさに既視感を覚えて目を開いた。
白い、白い毛並み。
明かりの差さない夜闇では、その毛色も判別できない。そう、闇の中では全てが黒く染まっていて…。
(…黒い、獣)
千鶴を背中に乗せてくれたのは。
大きさが全然違うけれど、色もまったく違うけれど、この懐かしさは。
(百、お前もしかして…!)
千鶴が気付きかけたとき、百が止まる。
速度が落としきれなかったようで、その衝撃で千鶴は百の背中から滑り落ちた。地面に転がり、大きな樹の幹に頭をぶつける。
頭を抱える千鶴の隣に、意識を失った三郎がそっと下ろされた。意識はないが、呼吸はしている。
百が千鶴たちの前に立ち、来た道を振り返る。
はじけ飛んだ塊が山の木々を浸食し、少しずつ黒い何かが拡大していった。木も葉も根も土も全て黒く染める「歪」だった何か。それがすぐそこまで迫ってきていた。
「ああ、山が…!」
千鶴の目には木々の異変しか見えないが、このあたりにいた動物たちはどうなった。鹿や猪だけではない。小動物や虫はどうなった。木の上で休んでいた鳥は。根元のキノコや山菜はどうなった。
これが全て「歪」を撃った所為だというのなら、千鶴の後悔では何も償えない。
父が愛して、生きた山が――――。
百が吠えた。
遠吠えとは違う咆哮。遠くではなくこの場で呼びかける。
がうがうと、先程の威嚇とはまったく異なる声。
「百?」
もう一度。
百は怒鳴るように吠える。
「煩い」
――――空気が震えた。
「煩い」
黒の浸食が止まる。
「煩い」
千鶴の前。百の前で、土が盛り上がり人の手が生える。
「妾の山で騒がしい」
そのまま隆起した土が、人の形をとった。
それは女性の形をしていた。
「誰であろうと、妾を汚すのは許さん」
怒りを孕んだ女性の声が、地響きのような声が山に響く。
「「歪」風情が烏滸がましいわ…!」
一喝。
百の咆哮より強烈な衝撃が震動となって山を満たす。
木々が揺れ、枝がぶつかり合い、一部の土砂が崩れるほど山が揺れた。落石が起きて木が倒れ、動物たちが驚いて逃げ出すほどの揺れが声と共に響いた。
百の咆哮が「歪」を弾き飛ばしたように、その一喝も「歪」を吹き飛ばす。
違いは弾けるのではなく剥がれるように吹き飛んだこと。剥がれた黒が空中で四散して、灰になって消えたこと。
千鶴が山も揺れるほどの一喝に身を縮めた一瞬で、山を浸食していた黒が…「歪」が消滅していた。
ぽかんと口を開けたまま縮まる千鶴の前で、百が振り返る。
何故か誇らしげな顔だった。
その向こう側で、一喝した女が振り返る。
「お前も許さん」
「ぎゃぴ!」
百は鞭のようにしなる木の枝でぶん殴られて遠くまで吹っ飛んだ。
(え、えぇ――――っ!?)
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