第18話 神は人に語らずただ告げる


 千鶴は呆然と、先程まで百がいた場所を見た。

 展開についていけない。山に入ってから千鶴はひたすら翻弄されていた。


 松助が行方不明で、新次朗が血を流して倒れていて、源太が万造を殺した犯人だった。篤郎は…多分大丈夫だ。

 突然源太が「歪」になって、三郎が吹き飛ばされて、百が千鶴たちをここまで連れてきて。それで、突如現われた女の人が百を木の枝で明後日の方向に吹き飛ばした。


(どうなってんだい。百は山神様の御遣いだ。それをぶっ飛ばすなんて…)


 そんなことができる、許されるのは、許されるのは…。


(山神様だけ)


 この山の神は女性である。

 つまり目の前の、人ならざる姿をした女性は…。


 気付いた瞬間。

 千鶴はその場に平伏していた。


(や、山神様! 山神様だ…! そうか、山神様なら「歪」だってどうにかできる! で、できるんだよな? できたんだよな? 一発だったし、あたしが想像できないくらいの力をお持ちなんだ…!)


 千鶴は混乱していた。今日はずっと混乱している。

 平伏したまま目を見開いて、処理しきれない現実から逃避しそうになる。

 だってまさか、仇の正体がわかったと思ったらそれが結局「歪」になって、更にそこから山神様が顕現なさる事態になるなど、誰が想像した。


 気になることは多い。源太はどうなったのかとか、新次朗や松助の安否。篤郎は今どこに居るのか。相手が百だったから間違いなく無事だろう彼のことだけは扱いが軽くなった。千鶴は混乱していた。


「顔を上げろ」


 枝がぶつかり合うような激しい声だった。

 呼びかけに肩が震えた。恐れ多さに身が竦んだが、言われたままに顔を上げる。

 恐る恐る顔を上げた千鶴は、音もなく目前に迫っていた存在に飛び上がった。目と鼻の先で、山神が立ったまま千鶴を見下ろしている。


 千鶴の目の前に、凝縮された山が立っていた。


 土の上に木が立つように、木に葉が成るように、彼女の身体は自然を体現している。

 土色の肌に、木の根のように複雑に絡み合う衣服。枝のように細い手足の爪先は赤く、まるで枝の先になる木の実のようだ。

 髪は木々に生い茂る葉のようで、季節に合わせてか深緑が色づく手前の枯れ葉色になっている。チラリと見ただけだが、微かに赤みも確認できた。きっともう少しすれば見事な紅葉色となるのだろう。


 そんな髪の奥にある目と、目があった。

 力を込めて見開いている単眼。一重の大きな目は、腐葉土と同じ色をしている。地面に散りながら、次の命のために朽ちていく枯れ葉色だ。


 千鶴をじっと見下ろす視線から目がそらせない。

 人の形をしているが、人間らしい表情は浮かんでいなかった。大きな目はじっと千鶴を見下ろすだけで何も浮かんでおらず、それなのに見られているだけで身体が震える。

 視線を逸らすことなく見詰め返していた千鶴は、ふと山神の肌がひび割れていることに気付いた。岩肌のようなひび割れ。閉じられた唇も痛々しくひび割れている。


(痛そうだ。あ、油…今度祠に油も供えないと。馬油でいいだろうか…)


 麓の友人、富子が勧めてくれた乾燥によく効く油が脳裏を過る。

 確かに、水仕事で荒れる手元によく効いた。山の動物たちの油は臭みが強く、保湿には向いていない。

 混乱している千鶴は、何故か次のお供えを考えた。続いて山神の胸元に挿された花にも気付く。

 それは千鶴が今日、祠に飾った花だった。同じ花が山神様の胸元にある。


(撫子がお好きなのか。次も撫子を飾ろう)


 千鶴は混乱していた。

 そんな千鶴をじっと見下ろしていた山神が舌を打つ。


「――――この娘、本気で妾に対する嫌悪がない」

「えっ」


 落とされた一言。しかしその意味が分からず、不敬にも聞き返した。聞き返したが、千鶴の疑問は拾われなかった。


「妾の領域に女がいるのは気に食わない。ああ、美しく若い娘。男が狂ってしまうほど美しい娘が妾の前にいる。妬ましくて妬ましくて、若さを山の養分として吸い取ってしまいたくなる」


 そう言った山神の目は苛立ちに満ちていた。先程まで何の感情も見えなかったのに、突然浮かんだ怒りに身が竦む。

 千鶴は山神が山神となった経緯を思い出した。山に女が入れば悪いことが起こると語った父の声が過る。思わず小さく喉を鳴らした。


「しかし、お前は妾を醜いと一欠片でも思わなかった」


 唇のひび割れを労りはしたが、それだけだった。

 見たまま純粋に心を痛め、対策を考えた。それだけのことだった。

 何の厭味もなく、山神が必要とし好むものを考えた。

 山神は気に食わないが、善意だった。


「妾を山そのものと表現した。その信仰心故に、見逃してやろう」


 人ではなく、女ではなく、山だと。

 山神が模る女の姿よりも、山神を山そのものだと受け入れた。

 猟師たちの無事を祈りながら、毎日祠を磨き続けた娘。山神へ奉納し祈り続けた娘。

 それは立派な信仰である。


 赤い爪が、千鶴の鼻先に突きつけられた。


「馬鹿息子は甘やかせばつけあがる。罰など当たらないからちゃんと躾けろ。あれをああしたのはお前だから、お前が責任を持って引き取るんだ」


 馬鹿息子とは。


「それと、馬油はいらない。塗っても意味がない。代わりに酒と花を忘れるな」

「は、はいっ」


 心を読んだ言葉に反射的に頷く。

 頷いて、驚いた。

 心を読まれたことではない。千鶴が毎朝日課にしている祠へ清掃、供えている物がばれている。千鶴が自己満足で行っていたことが、山神様に。

 それを続けろと。

 神様が言った。


「は、はい…っ」


 神様にとって、特別な言葉ではない。

 しかし千鶴にとっては、あの場所に居続ける何よりの許しだった。


「なにより、お前はもうこちら側だ」

「えっ?」


 思わず疑問の声が出た千鶴だが、山神は人間の疑問など拾ってはくれなかった。

 山神は、枝から葉が落ちるように静かに消えた。

 千鶴が見上げ、瞬きをしたときには姿を消していた。

 まるで、一時の夢物語のように。


「…ゆ、ゆめ…?」


 夜の静寂が戻ってくる。いや、先程まで聞こえなかった夜鳥の声や虫の鳴き声が夜の山に響いた。

 呆然と座り込んでいた千鶴は、茂みの奥から不満そうな顔をした百が顔を出すのを見て正気に返った。


「も…っ、三郎!」


 吹き飛ばされた百の無事を喜ぶ前に、瀕死の状態だった三郎を振り返る。百は更に不満そうに鼻を鳴らしたが、山神の出現ですっかり忘れていた三郎の状態が気がかりだった。

「歪」に横薙ぎにされ、千鶴が抱え、百に咥えられた三郎の怪我は絶対悪化しているはずだ。


「わふっ」


 しかしそこにいたのは、元気に立ち上がり尻尾を揺らす三郎。

 どこも痛めていないというように、誇らしげに鼻を鳴らす三郎がいた。


「さ、三郎…!」


 思わず三郎を抱きしめる。背後で不満を訴える百のぷすぷす気の抜ける荒い鼻息が鳴り響いたが、それどころではなかった。


「よかった…! あたしはてっきりもうだめかと…っ」

「わふっ!」


 泣きそうな千鶴の頬を三郎が舐める。ぶんぶん揺れる尻尾から、三郎が滅多にないご機嫌状態であることがわかった。

 しかしわかるのは三郎がご機嫌だということだけ。

 それ以外のことはまったくわからない。

 どうして三郎が無事なのか。「歪」はどうなったのか。源太は。新次朗は。松助は。ついでに篤郎は。


「…そうだ、百。篤郎おじさんはあの後どうしたんだぁあああい!?」


 やっと百を振り返った千鶴は、先程と同じ要領で百の背に担がれた。今度は三郎を抱えていたため毛皮を咄嗟につかめず一度滑り落ちそうになったがなんとかなった。

 百は千鶴がしっかり捕まったのを確認してから、再び山の中を疾走しはじめた。


 暗くてよくわからないが、ぐんぐん風景が変わるのを感じる。

 木々が密集しているというのに真っ直ぐ走る百は木にぶつからない。まるで木々が百を避けているようだ。

 そしてあっという間に木々を通り抜け山から躍り出た。

 遮る物をなくした風が汗と泥まみれの千鶴の肌を撫で、欠けた月が山から出た彼らを照らした。

 飛び出した先に見えるのは人の営みの灯り。麓の町がすぐそこだった。

 おぉい、と呼びかける人の声がする。

 麓の入り口に灯りが集中していて、そこから複数の灯りが山へ向かって坂道を登りだしているところだった。声はそこから聞こえる。

 そして聞こえたと思ったときには、百があっという間にその集団の前に躍り出た。


 悲鳴が上がる。


 誰かが倒れる音がして、たくさんの松明に囲まれた百はその白い毛並みを存分に曝し…動きを止めた百の背中から、千鶴と三郎がやっと顔を上げた。

 百は雄々しく立ったままなので高さがあり、背中にいる千鶴は降りられない。なんとかその背中から前方を覗き込んだ千鶴は、松明を抱える見慣れた顔に安堵した。


「篤郎おじさん…! よかった、やっぱり無事だったか!」

「やっぱりってなんだ!」


 そこにいたのは町の男衆と、五体満足の篤郎だった。

 彼が先頭に立ち猟銃を抱え、男衆が松明を掲げている。男衆は突然現われた白い獣に混乱していたが、走って逃げ出す者はいなかった。よく見ればいつも世話になっている鞣し業者や、肉の卸先だ。その中の年若い男が一人ひっくり返っていたが、先頭の篤郎に注目していた千鶴はそちらを一切見なかった。


「千鶴お前…その獣はなんなんだ!? お前と源太がいなくなってすぐ俺の襟首引っかけて麓まで放り出しに来やがった! ご丁寧に新次朗の奴も引っかけて!」

「新次朗おじさんも…? 百お前、まさかあの時は新次朗おじさんを…」


 襲ったのではなく、助けてくれたのか。凶行に走った源太から。

 背中から見下ろせば、振り返った百が誇らしげに鼻を鳴らした。時々見るちょっと間抜けなその顔に、千鶴は泣き出しそうになる。

 感謝を伝えるために太い首を力強く抱きしめる。千鶴が手を回しても、一周できないほどの大きさ。百は千鶴に抱きしめられて、嬉しげにゴロゴロと喉を鳴らした。

 首の付け根を撫で回しながら、千鶴は顔を上げて篤郎たちを見た。


「おじさんたち、百は山神様の御使いなんだ。噛みついたりしねえよ。今の今までもあたしを助けてくれたんだ」

「…新次朗もそう言うから信じるが、普通はあり得ねぇことだぜ千鶴…」

「…新次朗おじさんは無事なのかい!?」

「立ち上がれねぇが生きてるよぅ。事情も軽く、奴から聞いた」


 よく見れば、篤郎の目元が濡れている。新次朗から話を聞いて、彼はまた泣いたのだろう。


「源太からも話を聞かにゃならねぇ。何よりアイツは千鶴を連れていきやがったからな。お前も危ないと探しに行くところだったんだが…」


 白い獣に乗った千鶴を見上げ、篤郎は目にしても信じられないと改めて目を擦った。町の男衆もざわめいている。


「何がどうなってんだ…?」

「あたしも何をどう説明したらいいか…」

「いいや、わかった。まずは一つだけ教えてくれ」


 頭を抱えた篤郎が、絞り出すように問いかける。


「源太はどうした」


 その問いかけに、千鶴は唇を噛み締める。


 篤郎は、新次朗が何を語ったのか言わなかった。源太が何をしたのか言わなかった。松助を探しに行くと言わなかった。

 千鶴は全てを知っているわけではない。源太が語ったことしか知らず、それがどこまで真実なのかもわからない。結局全てを明らかにする前に、彼は「歪」と成り果てた。

 そして…。


 山神の一喝を思い出す。

 骨まで震えるような一喝。山神を中心に黒い塊が消えていった光景が瞼に残っている。


 あれはつまり、そういうことだろう。


「源太おじさんは…」


 なんと言えばいいのかわからず、千鶴は口ごもった。

 人間が「歪」になったなど、目にした千鶴でも信じられない。それをここで語って信じられるだろうか。

 何より篤郎は新次朗から聞いている。源太が千鶴にとって、父の仇だと聞いている。

 千鶴がそれを知っているか、篤郎はわからない。しかし源太に手を引かれ山の中を彷徨っているはずの千鶴が白い獣と共に現われた。千鶴が事実を知って、仇を討った可能性がある。

 真実を語ったとしても、虚言と受け取られるかもしれない。


 確かに「歪」と成り果てた源太を撃ったのは千鶴だが、仇が討てたのか討てなかったのかよくわからない。

 恨んでいた仇が「歪」ではなく、共に過ごしていた近しい人だった。裏切られた事実が今更になって胸に穴を空けているが、その怒りも彼が「歪」に変貌した光景で上手く表現できない。

 父の教えを守って涙を呑んだのに、源太は結局その身を化生へと落としてしまった。千鶴の放った一発で弾けたが、隙を作るために撃った一発だった。あれで終わるなど、千鶴は欠片も思っていなかった。


 言い知れぬ切なさとやりきれなさが胸を焼く。


 そんな千鶴の顔を、三郎が慰めるように舐めた。

 いつだって傍にいてくれる存在に、千鶴の口元も緩む。感謝を伝えたくて温かな身体を抱きしめながらわしゃわしゃ撫でた。


 自分の背中で千鶴と三郎が仲良くしているのを感じ取り、百は嫉妬で獰猛な唸り声を上げた。百の眼前に立ったままの篤郎だけがびびって足を震わせている。男衆はじりじりと、町の入り口まで下がっていた。


(いい。正直に話そう。あたしだって全部わかっているわけじゃないけど、見聞きしたこと全部…あたしは、もう誤魔化されるのも誤魔化すのもいやだ)


 三郎を撫でながら、前を向く。気付ば篤郎以外がだいぶ下がっていた。


「源太おじさんは――――…」


 何があったのか告げようとして。

 ゆっくりと、意識が泥に沈むような倦怠感に襲われた。

 くらりと視界が回り、後ろから意識を引っ張られる。


 千鶴が覚えているのはそこまでだった。


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