第19話 飛ぶ鳥だって届かぬ場所


『千鶴ちゃんはしっかり者だねぇ』


 いつだって、源太は千鶴を見ながら笑っていた。

 料理をする姿を見ながら、洗濯をする姿を見ながら、掃除をする姿を見ながら。

 彼はちょっと遠くからそんな千鶴の姿を眺め、満足そうに笑うのだ。


『いつでも嫁に行けるねぇ。源一ならいつだって千鶴ちゃんを嫁にできるよ。麓に行って嫁入りしないかい』

『源太おじさんはいつもそれだねぇ。あたしはここを離れる気はないよ』


 千鶴はいつだって野菜を切りながら、着物を洗いながら、埃を落としながらお馴染みの言葉で返した。

 本気にしていなかったし、本気だとしても同じ言葉を返しただろう。


『いやいや、それじゃあいつまでたっても源一の嫁になれないよ』

『源一の嫁にはならないよ』


 言葉を返しながら首を傾げる。

 そういえば、源太にはっきり拒否を告げたことはなかったかもしれない。いつだってハイハイとおざなりに相手をしていた。

 野菜を切り、着物を洗い、埃を纏めている千鶴の背後で、源太が不自然なほど黙った。


『おじさん?』


 不穏な空気を感じた千鶴が振り返る。


 視線の先で、源太の首が奇妙に曲がっていた。

 千鶴を凝視したまま、顎を基点に歪な音を立てながら、日が昇って傾くように、首が歪む。


 悲鳴を上げた。しかし喉から漏れたのは引きつった音だけで、とてもじゃないが助けが来るほど大きな声にならなかった。

 尻餅をついて見上げた源太は、瞬き一つしない真っ黒い目で千鶴を凝視している。


『千鶴ちゃんは嫁になるんだ源一と幸せに誰にも邪魔はさせねぇ幸せに俺ぁ息子がおいちちゃんがそうだったからたった一人と千鶴ちゃんが嫁に嫁に嫁においちちゃんが俺の嫁にィいいいいイィイッ!!』


 叫んだ口が裂け、花が咲く。咲いた花の花弁一枚一枚に、小さな口が生えていた。冒涜的な花弁を広げた花が何重にも哄笑を響かせる。


『二人の幸せヲ邪魔をするからァア――――万造は死ンだんだヨォお――――ッ!!』


 狂ったように響く笑い声。ぐねぐねと不気味に揺れた花は、小さな口だった部分を目玉に変えて千鶴を見た。幾千の目玉が千鶴を凝視する。


『千鶴ちゃんが源一を選ばねぇから俺はこうなっちまったんだ』


 やけに静かに、感情のない声音が落とされた。


『ちづるちゃんのせいだよ』


 やがて全ての花弁が膨らみ、それは種を飛ばすように弾けて消えた。

 まるで毒のように、千鶴に淀みを植え付けて。


 呆然と、千鶴は尻餅をついたまま源太がいた場所を眺めていた。

 それは集合所であったり、洗濯場であったり、庭先であったり様々だ。複数の視点で、複数の時間帯で、ただ一人の千鶴が座り込んでいる。

 音もなく、頭の中で源太の言葉が繰り返される。


『ちづるちゃんのせいだよ』


 母が死んだのも。

 父が死んだのも。

 源太が「歪」になったのも。

 全部千鶴の所為だ。

 荒唐無稽にもほどがある。

 しかしすとんと、言葉が記憶を突き刺した。


『あ、あたしが悪い、あたしが悪い…あたしが、ちづるが、ちづるがわるい…っ』


 頭を抱えた千鶴の手が縮む。

 みるみる小さくなって、五歳の千鶴が蹲り頭を抱えて丸まっていた。


 幼い日、母が亡くなった日。事故死だと思っていたあのとき。

 母の葬儀を終えた後、千鶴は頭を抱えて泣いていた。千鶴が言いつけを破って山に入ったから悪いことが起こって、母は死んでしまったのだと本気で思っていた。


 夕暮れ時。悲しそうな父の背中が見ていられなくて、外に出て茂みに隠れた。父に縋って泣いてはいけないと思った。だって母は千鶴の所為で死んだのだ。父にそれを告げるのは、父機嫌われてしまいそうでできなかった。

 だから千鶴は誰も居ない茂みに突っ込んで身を丸め、頭を抱えて泣いていた。


『ちづるがわるい。ちづるがわるいんだ…っ』


 母の死は、事故ではないと源太は言った。

 松助が関わっていると。源太が関わっていると――――真実はもうわからない。

 わからないが、わからないからこそ、千鶴は未だに母が死んだのは自分の所為だと思っている。


 そして、父が死んだのも――――…。


 害意を持って殺害した、源太が悪い。当然のことだ。

 だけど源太の動機に千鶴が関わっているというのなら。


『ちづるがわるい。ちづるが…』

『悪かねぇよ』


 大きな手が、千鶴の小さな手に触れる。

 頭を抱える小さな手ごと、大きな手が千鶴の頭を撫でていた。


『お前は何も悪くねぇ。何も悪くねぇよ』


 千鶴を撫でていた手が離れて、小さな身体を茂みの奥から引っ張り出した。一度抱え直されて、しっかりと抱き上げられる。


『お前は何も悪くねぇ』


 夕焼けで、相手の顔は見えない。

 それでも、優しい顔をしているとわかる声音だった。


 ――――いつも仏頂面で、表情の乏しい人だった。


 平時むっつり黙り込んで、初対面の人には必ず怖がられて。だけど相手を無碍にしないから、困ったときにはいつも頼られていた。

 微笑んだところなど数える位しか見たことがない。それくらいいつもむっつりしている人だった。

 だけど。


『アイツはなぁ、千鶴ちゃんを見ているときだけ笑うからなぁ』


 そのくせ千鶴ちゃんが振り返るとむっつりするから、とことん不器用な奴だよ!

 酒を飲んだ新次朗がいつもそう言って笑い、誰も否定せず、その人もきまり悪そうに視線を逸らしたから。

 だから千鶴は、不器用だというその愛を信じられた。

 小さな手で…大人の腕で、その人を抱き返す。


『おっとう…!』


 成長してから、父に抱きついたことなどない。

 それなのに幼い頃と比べて痩せた感触や骨張った硬さを感じた。抱き合ったのに体温は低く、その冷たさに涙がこぼれた。


『あたしの、あたしの所為でおっかぁが、おっとうが、おじさんが!』

『お前は何にも悪かねぇ』


 強く、頭を抱えるように強く抱きしめられる。


『アイツは一人暴走しただけだ。俺たちはそれに巻き込まれただけ。運がなかった。それだけだ』

『何がそれだけだ…っそんなの許されない、許されないよ! 許せない!』

『だがもうどうにもならねぇ』


 大きな手が、三郎を撫でる様に千鶴の頭を撫でた。結んだ髪がほつれてぐちゃぐちゃになる。子持ちなのに、撫で慣れていない不器用な手だ。普段は器用なのに、こういうときだけ不器用な人。

 だからこそ、いつだって真摯に真っ直に、言葉を残す。


『どうしようもねぇんだ』


 認めたくないことを、許したくないことを、納得できないことを飲み干せと言う。


『納得できねぇもんを抱えて、生きていくしかねぇ』


 何をしてもそれは晴れないとわかっているから。


『だけど余計なもんは背負わなくていい』


 千鶴の髪をぐちゃくぐちゃにした手は、丸まった千鶴の背中を音が鳴る強さで叩いた。


『お前は何にも悪かねぇよ』

『…っ』

『だから素直に、俺たちを悼んで泣いていい』

『…っひ、ぅ』


 喉が締め付けられる。

 鼻の奥が熱い。

 目が一気に潤んで、零してはならぬと目元に力を込めた。しかし痛いくらい背中を叩いた手が、今度は労るように優しく背中を叩くから。

 促されるように、千鶴は泣いてしまった。


『あ、ああ、うあぁあーっ』


 声を上げて、しがみ付いて、恥も外聞もかなぐり捨てて涙を流す。


『ばかぁーっなんで死んじまったんだよぉ、やだよぉ、なんでだよぉ…さみしいよぉ!』


 しがみ付いてもちっとも温かくない。それなのに離れたくない。


『なんでこん、こんなことになってんだい! 源太おじさんは何がしたかったんだよ! 意味がわからない、わからない、何もわからなかった!』


 わからなかったことが怖くて悲しい。

 父を殺された怒りと憎悪があるのに、共に過ごした記憶が相手の事情を慮る。そんなもの、あってもなくても許されない行為であることに変わりはない。変わりはないのに、共に過ごした時間が源太を弁護する理由を探してしまう。狂ったような言動をしていた理由を求めてしまう。

 だって本当に家族のように過ごした。

 とても近い他人だったのだ。

 信じられると思っていたのだ。

 千鶴の一方的な信頼だったと、突きつけられた事実が痛い。悲しくて許せない。


『やだよぉ、逝かないでおくれよぉ…っ一人はやだよぉ』


 いやだいやだと縋り付く。

 三郎が傍にいてくれるが、三郎だって犬だ。どう足掻いても千鶴より先に逝ってしまう。

 新次朗も篤郎も、今回の件で信じられなくなった大人だ。事実の解明に動いていたのだとしても、彼らは千鶴を除け者にした。除け者にされて信頼を寄せ続けられるほど、千鶴の心は強くない。

 松助だって安否がわからない。彼が今どこに居るのか、千鶴は把握できていない。


 千鶴は声を上げて泣き続けた。

 子供のように声を上げて、我慢していたものを吐き出した。仇を討つのだと強がっていた、弱い心を曝け出した。

 父は、万造は何も言わなかった。


 やがて泣きつかれた千鶴が膝を抱えて丸くなる。成長した姿が幼く縮み、丸い頬から涙がこぼれ落ちた。

 小さくなった千鶴を、万造がもう一度強く抱きしめる。

 何も言わなかった。

 別れを惜しむように、強く、強く。


(どこにもいかないで)


 願っても叶わないと、千鶴だってわかっている。

 それでも叶って欲しいと本気で願った。

 痛いくらいの抱擁。温もりのない抱擁。小さく丸まった千鶴は、それらを失う恐怖に更に小さく丸まった。

 冷たい身体でも、抱擁が終われば寂しい。隙間風に吹かれる心地になるだろう。


 いつか訪れる冷たさに備えて小さくなった身体。しかし抱擁が緩んで訪れたのは、ふかふかした温もりだった。


 涙に濡れた丸い目を開く。

 飛び込んできたのは、白い毛並み。

 小さな身体を包むのは、大きな白い獣。

 千鶴を抱えるように丸まった獣は、ぐるぐると喉を鳴らした。


「…百」


 夕焼けの瞳が、千鶴を見ている。

 あの日、一人で自分を責めていた千鶴を照らした空と同じ色が、千鶴を見ている。


「百、あたしは…」


 ぎゅるりらりりり…。


 独特な音が響いた。千鶴がくっついた胴体。白い獣の腹から、独特な音が。


 ぎゅらりらりりり…。


「…」

「…」


 ぎゅろりらりりり…。


 なんか新しい音が出た。

 見つめ合う夕焼けは、やっぱり何故か誇らしげだった。


「…く、ははっ」


 なんだか気が抜けて、思わず笑い声が漏れる。千鶴は手を伸ばして百の腹に触れた。温かい胴体。脈打つ命を大きく育った手の平に感じる。


「そうだね、神様の御遣いでも腹が減るんだ。誰だって、腹が減るんだ。生きて、いるなら…」


 涙がこぼれ落ちていく。


「どんなに、やるせなくっても…どんなに、くじけちまっても」


 生きているから、悔しくて、苦しくても、腹は減る。生きろと身体が訴える。


「ああ、くっそぉ…」


 目が、鼻が熱い。


「腹減ったなぁ…っ」


 くしゃりと顔が歪むのは、笑っているからだ。そう言い聞かせても、大粒の涙がこぼれ落ちていく。

 千鶴はふかふかと温かい毛並みに抱きついて、さめざめと泣いた。


 ぎゅるりらりりり…。


 独特な腹の音に、千鶴はまた笑った。

 ちゃんと、笑えた。

 そんな自分の笑い声で目が覚めた。

 目元が冷たい。眠りながら、泣きながら笑っていた。


(我ながら、器用なことで)


 苦笑して、目元を擦ろうと腕を上げ…られなかった。


 あれ。

 腕が重い。


 ぼやけた視界に瞬きを繰り返す。見慣れぬ天井。布団の感触。どこかに寝かされているのは間違いない。だけど…千鶴の動きを制限する、これは何だ。


 千鶴を抱き込む、この腕は。


 千鶴はゆっくり、視線をずらした。千鶴を抱える腕から肩に。肩から首、顎先、口元…ゆっくりゆっくり視線を上げて。


 夕焼けの人ならざる瞳と目があった。

 じっと千鶴を見ていたその目は、千鶴と目が合って、嬉しそうに歪む。


「ちづる」


 甘い、甘い鳴き声。

 ゴロゴロと喉を鳴らすように、千鶴を抱きしめながら横になっている百が名を呼んだ。

 人の姿をした百が。

 人の姿をした。

 裸の百が。


 裸の男に抱えられていた。


 千鶴は今度こそ、人を呼ぶほど大きな声で悲鳴を上げた。


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