第20話 鶴と獣の帰る場所


「うわああああああああああ!」

「ぴぎっ!」

「あああああぁあああ!? わあああああああ!」


 百が千鶴の大声に驚いたように頭を押さえる。至近距離での叫び声は、獣の耳に大打撃だったようだ。しかし千鶴は叫びを止められなかった。

 百をただの猫だと思っていたときは、驚いてもすぐ切り替えることができた。見た目は人間の成人男性でも、中身は猫なのだからと。猫だと思えば仕方がないなと思えた。思えたがしかし。

 この猫は猫でも雄なのだ。千鶴は百が雄だとわからされた後である。


(裸で同衾はだめだろうどう考えても!)


 たとえ千鶴がしっかり着ていてもだめだ。これはだめだ。

 真っ赤になって布団から這い出た千鶴は、必死に周囲を見渡した。見渡したが、こんなときに頼りになる三郎の姿はどこにもなかった。


 千鶴が寝かされていたのは襖で区切られた小さな部屋だ。布団を敷いたら物の置き場所に困るような小さな部屋。よって千鶴は遠くへ逃げられない。

 布団から身を起こした百は、真っ赤になって狼狽える千鶴を見て目を瞬かせた後、にっこり嬉しそうに笑った。


「ちづる。かわいい」

「ひぃ…っ! 待て待て立つな立つな!」


 着物がないことをまったく気にしない百が布団から出そうになって慌てる。必死に顔を逸らして見ないようにしているのにまったく頓着しない。大慌てで襖に貼り付いた千鶴は、襖の向こう側が騒がしくなっていることに気付いた。

 どうやら千鶴の悲鳴が部屋の外に届いていたらしい。

 人の気配を感じて、千鶴は更に慌てた。このまま襖を開けられるのは困る。

 だって百の耳は獣のままで、尻尾まで生えているのだ。そんな人間はいやしない。


「あああっ、百! お前はとにかく布団に…出るな出るな! じっとしていろ!」

「かわいい」

「言ってる場合か!」


 混乱した千鶴は引き返し、布団から出ようとしている百を押し込めようとした。

 だというのに長い尻尾が千鶴に絡みつく。布団を掴んで引き上げようとする千鶴を、百は嬉しそうに抱きしめて擦り寄った。

 触れ合う場所が熱い。百の頬が、千鶴の頬に合わさった。

 そのままスリスリと首を振るので、百の口元が頬に当たる。布団を握ったまま、千鶴は目を回した。


(そ、それどころじゃないんだよー!)


 しかし無情にも襖は勢いよく開かれた。


「千鶴! 起きたのか…い…」

「千鶴ちゃんおはようございまー…」


 そこにいたのは麓の友人。八重と富子の二人だった。

 八重は心配そうに、富子は明るく声を上げ、どちらも途中で勢いをなくした。

 二人が見たのは、乱れた布団と裸の男。

 男は面妖な風体をしていたが、二人が気になったのはそこではない。


 男の膝に乗り上げるようにして、真っ赤になった千鶴が抱き上げられている。

 千鶴は完全に照れ顔で、目元が赤く潤んでいた。


 八重は同じく真っ赤になって背中を向け、富子は笑顔を輝かせた。


「お邪魔しました。ごゆっくりどうぞぉ~」

「ま、ま、ま、待って! 待っとくれちが、ちがうっ!!」


 すすすすっと閉められる襖に悲鳴を上げた。何故二人がここにいるのかわからないが絶対誤解をされている。真っ赤になって狼狽えながら手を伸ばした。


「違う…つまり合意ではない?」


 ぴたりと、襖の動きが止まった。

 そして再び勢いよく開かれる襖。


「そうなれば話は変わりますぅそこの方! 千鶴ちゃんから離れてくださぁい!」

「あ、あ、あ、だめだむりだなんで裸なんだいおかしいだろう! 梅吉さん、梅吉さん! 助けて梅吉さーんっ!」


 たすき掛けしながら富子がキリッとした顔で言い放つ。その背後で振り返ろうと頑張ったが挫けた八重が両手で顔を覆い、梅吉に助けを求めだした。後ろから見える耳が真っ赤だ。

 離れろと言われた百は、ムッとした顔で富子を見上げる。布団の上に座っているため、長身の百でも見上げる形になった。


「やだ。ちづるは俺の」

「声がいい! 顔もいい!」

「富ちゃん!?」

「見てくれだけなら正直言うことなしですが、未婚の千鶴ちゃんに無体を働く男性はお呼びでないですぅ!」


 言うことなしなのか。この耳と尻尾に対して思うところはないのか。

 キリッとした顔で強気に宣言する富子はとても頼もしい。ふわふわと掴み所のない話し方をするが、富子は芯がしっかりした女性なのだ。


 臆することなく睨まれた百は、むすっとした顔で千鶴を抱え直した。


「みこん、ちがう」

「え?」

「ちづる、俺の嫁」


 俺の嫁だけ流暢だった。


 流暢だったので聞き逃した。富子もぽかんとした顔をして、八重も思わず目を丸くして振り返っている。


(今なんつった?)


 呆然と百を見上げる千鶴に、百が笑う。

 多分それは、獣の状態でよく見た誇らしげな顔だ。


「俺のヨ」

「わん!」


 言わせねえよ! とばかりに響いた鳴き声。


 声の主は開いた襖の向こうから現われて、千鶴に絡まる尻尾を踏みつけた。百の悲鳴が上がる。

 悲鳴を上げながら、百の姿が陽炎のように揺らいで人から獣の姿になった。しかしいつもの巨体ではなく、仔猫のように小さい姿だ。

 恐らくだが、ちゃんと部屋の狭さを考慮したのだろう。

 飛び込んできた声の主…三郎は吠えながら百の小さな身体を転がして、呆然としている八重と富子の脇を通り、百を部屋から連れ出した。

 二匹の鳴き声が遠ざかる。


 目の前で人から猫になり、三郎に転がされていった百の姿を見送り…ゆっくり千鶴へ視線を戻した富子と八重は、戸惑ったように口を動かし…。


「ご結婚おめでとうございますぅ」

「違うだろう!?」

「待っとくれ…」


 ここで祝いの言葉が出てくるのは、富子の柔軟性が高すぎる。




「ああ、起きたか」

「若い娘っ子たちは集まると姦しいなぁ」

「新次朗おじさん、篤郎おじさん」


 千鶴が寝かされていたのは、麓にある新次朗の家だった。万造の葬式をしたときに休むのに使わせて貰った家だ。

 彼は未婚だが稼ぎがあったので、小さな家を一つ所持している。もっぱら物置状態だが、人が休む空間は確保されていた。


 気絶した千鶴の世話をしてくれたのは、友人の二人。嫁入り前の娘を連れ込むわけには行かないと、新次朗が気を利かせてくれたのだ。

 …ちなみに、このときに獣姿の百を確認しており、二人は既に百が山神様の御遣いだと知っていた。人の姿になれると思っていなかったようだが、百の耳と尻尾を見ても動じなかったのは見てすぐ察したからだ。ちなみにそれは富子だけで、八重はそれどころではなかった。

 富子の柔軟性と理解度が高すぎる。


 軽く身なりを整えて、千鶴は新次朗たちの待つ囲炉裏へと出た。二人はあぐらを掻いて、ゆったり座っている。千鶴は布団を敷いているのに普通に座っている新次朗を見て仰天した。


「新次朗おじさん、具合は…」

「はは、まあ腹に穴が空いたがそれくらいだ!」

「大怪我だろうが蓑馬鹿野郎」


 源太に腹を刺された新次朗だが、着ていた蓑が盾となり致命傷を避けることができたらしい。

 布団の上に座っている新次朗の横に座った篤郎。その手前に腰掛けた千鶴の膝に、すかさず百が飛び乗った。仔猫ほどの大きさをした百は仔猫のように甘えてくる。

 こればかりは中身が雄だとわかっていても、ついつい首の付け根を撫でてしまう。ゴロゴロ甘え全開の子猫に微笑が漏れた。


 その様子を見て二人が複雑そうに視線を交わしていたなど、千鶴は気付いていなかった。


 ちなみに百を転がして行ったはずの三郎だが、八重と富子に洗われている。泥まみれだったが千鶴が起きるまで洗わせてくれなかったらしい。百は三郎の居ぬ間に全力で甘えていた。


「それで…ごめんなおじさんたち。あたしはあの後気絶しちまったんだよね。事情も大して説明できなくて…」

「いいや、説明はその獣っこがしてくれた」

「けも…百が?」


 撫でながら見下ろせば、千鶴の膝の上で腹を見せている仔猫が見える。

 ふわふわの毛並みとまあるい夕焼けの目で、可愛いを前面に押し出してくる獣。とても野生には見えない。

 千鶴は不安になった。


「…説明できたのかい? こいつが? 言葉足らずじゃなかったかい」

「まあ拙かったがなんとか」

「端的に、誰がどうなったかだけはわかったぞ」


 苦々しく篤郎が零し、千鶴も黙った。

 そう、それだけでいい。それだけわかれば、だいたいのことはわかってしまう。

 源太が何をして、どうなったのか…。


「…あたしも気になっていたこと、聞いていいかい」

「なんだ?」

「松助おじさんは…」


 いなくなったと聞いて、それ以降まったく姿を見ていない。

 そして彼は、この場にいない。

 篤郎は口をへの字に曲げて、新次朗は痛ましげに目を伏せた。


「松助は…山ん中で見つかったよ。酷い有様だった」

「松助は源太と話すっつってたからな…そのときだろう。お前ら揃いも揃って単独行動しやがって。そんなに俺が信用ならなかったのかよ」

「お前は正直者だから話せなかったんだよ」

「俺ほど捻くれた奴はいねえよ!」

「そうでもないぞ」

「ああん!?」


 憤慨する篤郎に苦笑しながら、どんな状態だったのかを聞いた。


 松助は崖下から発見されたらしい。

 損傷から考えて、崖から落ちた傷が致命傷。しかしその遺体は、山の獣たちに食い荒らされて酷い有様だった。一日だろうと、山に放置されれば獣たちが寄ってくる。

 人相がわかる状態で、死因も判別がついたが惨状だった…確認したのは自由に動ける篤郎だ。

 彼はぎゅっと口を引き結び、黙り込んでしまった。恐らく仲間の死に様を思い出したのだろう。


(…おっとうに引き続き、松助おじさんも…源太おじさんも…)


 一気に人が居なくなってしまった。

 この喪失が人為的なものであるからこそ、怒りが胸を焦がす。しかし怒りを向ける先が消えてしまったため、どこに向けたらいいのかわからない怒りが燻っている。


「源太おじさんは…」


 千鶴は源太を許したわけではない。あのときは、父の教えに従って手を引いただけ。麓の連中に突き出して、罪を償わせるつもりだった。

 それをしないまま源太が「歪」になって消えてしまったから、気持ちの整理が難しい。化生と成り果てたことにざまぁみろと罵る気持ちにもなれない。

 言葉を紡げず俯く千鶴に、新次朗が一つ頷いた。


「聞いた。あいつは「歪」になっちまったんだな」

「人が「歪」になるなんて話し、おじさんは信じられるのかい」

「そりゃあ信じられねぇが…神様の御遣いがそう言ったんだ。信じるしかねぇ」

「それに、丁度そのとき山の様子がおかしかった。俺たちはその獣っこに麓に放り投げられてすぐ山狩りするつもりだったんだ。だが山の様子がおかしくて二の足を踏んじまった」


 源太が「歪」になり、弾け、山が黒く染め上げられたのは麓からも見えていたらしい。

 夜だというのに黒く蠢くそれが確認出来て、夜闇より濃い暗闇に人々は二の足を踏んでいた。

 それでいい。神の御遣いである百がそれから逃げていたのだから、人間が触れていたらどうなっていたかわからない。


「まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった」

「新次朗おじさんはいつから源太おじさんを疑っていたんだい」

「…始めからさ。俺ぁ、始めから「歪」の仕業じゃねえとわかっていたからな」


 新次朗は「歪」に襲われた遺体を見たことがあった。

 だから万造の致命傷である殴打痕が「歪」によるものではないとすぐにわかった。

 もし本当に「歪」に襲われたのだとしたら、遺体が元の形をしている方がおかしいとわかっていた。


「だから「討伐隊」に連絡はしなかった。「歪」が出たと騒ぐ源太を疑った。だがその場で言及するにも証拠はねぇし、動機がわからねぇ。アイツは肝が小さいから、別の誰かを見間違えた可能性もある。だから一番源太を疑っちゃいたが、松助も篤郎も疑っていた」

「この蓑野郎。俺が万造を殺すわけがねぇだろうが」

「身内でこんな争いが起るなんてそもそも思っちゃいなかったんだよ。源太だってまさか、事故はあり得てもこんな…」


 新次朗は千鶴を見て言いよどみ、言葉を濁した。

 確かに父親が殺されるほど恨まれていたのかと衝撃は受けたが、源太の動機が千鶴には理解できず、どう受け止めるべきかわからない。彼は千鶴と源一が一緒になることで、自分が幸せになれると考えていた。千鶴の母の名も繰り返していたし、どういった感情で行動したのか、今となっては解明できない。

 わからないまま終わってしまったのだ。すっきりしないが、犯人がいなくなってしまったのだから仕方がない。

 千鶴は深呼吸をして、込み上げるやりきれなさを誤魔化した。


「それで…そのだな、千鶴ちゃん」

「なんだい?」

「あー、その…」

「おい千鶴、お前さん山神様と会ったって本当か」

「篤郎!」


 やけに真剣に問われて、千鶴は緊張しながらも頷いた。頷いた千鶴に、篤郎が苦い顔をする。


「その獣っこが千鶴は山神様に認められたといったんだが本当か?」

「え…認められた?」


 目を丸くして膝に転がる百を見れば、仔猫は満面の笑みでぎゃうと鳴いた。肯定の鳴き声に、目を瞬かせる。


(山神様に認められた…? あたしが…? 一体何を…)


 思い出すのは、酒と花を忘れるなと言われたことくらいで…。


「…ああ! そうだ! 忘れちゃならねぇ!」

「お、おう? どうした」

「あたしは山神様に、お供えを欠かすなと言われていたんだった! ごめんよおじさんたち、あたし帰らなくちゃ…っ」

「…うわぁ…」

「山神様直々にか…」


 何故か新次朗と篤郎は苦い顔をして千鶴と百を見ているが、千鶴は大慌てなので気付いていない。立ち上がり、バタバタと身なりを整えて入り口へと走った。


「新次朗おじさん。改めて見舞いに来るから無茶しちゃだめだよ。篤郎おじさん。すまないが色々まとまったら教えておくれ」

「おう…だがいいのか。他に言いたいこととかねぇのか」

「言っても仕方がねぇ」


 思いのほか拒絶するような声が出た。

 篤郎がグッと黙り込み、新次朗が布団の上で身動ぎする。千鶴は二人に背を向け、絞るように声を出した。


「おっとうは死んじまった。おっとうを殺した源太おじさんは「歪」になって消えちまった。松助おじさんを悼む気持ちは勿論あるけど、ぶつける相手はどこにも居ねぇ…どうしようもねぇ。どうしようもねぇだろう」


 どうしようもない。

 万造の葬式は終わった。

 松助の葬式は、松助の家族が仕切るべきだ。手は貸すが、邪魔をしてはならない。

 源太が「歪」になったことは、家族に伝えられない。信じられないだろうから、彼は山で行方不明扱いになる。

 源太の家族は困るだろうが、一人息子の源一は成人しているし仕事もしている。辛いが、これ以上こちらが触れることはできない。千鶴もできれば関わりたくない。

 正直、できることはないのだ。千鶴にできることは。「歪」のことだって、詳しくはわからない。わからないからどうしようもない。

 晴れないものを抱えて生きていくしかない。


「あたしは…今まで通り、あそこで暮らすよ。山神様がいてもいい理由をくれたし、三郎も…百も居てくれる」

「ぎゃぁう」


 千鶴の後をついて回っていた仔猫が嬉しげに鳴いて、草履を履いた千鶴の足に擦り寄って尻尾を絡めた。

 勿論だと肯定されているようで、千鶴は微笑んだ。その微笑みを垣間見た新次朗と篤郎は黙り込む。そんな二人に振り返り、笑う。


「大丈夫。生きていけるさ」


 それは自分に言い聞かせる声音と笑顔で、どこから見ても強がりだった。

 だが生きていく上で必要な強がりだった。




 新次朗の家を飛び出した千鶴を見送り、猟師二人の間には暫く沈黙が落ちた。

 黙り込んだ二人の耳に、若い娘二人の焦る声が聞こえる。やれ千鶴がでっかい獣に乗って山に帰った。三郎が走り出したと騒がしい。

 騒がしい声を聞きながら、新次朗はゆっくり布団に戻る。千鶴の前でやせ我慢していたが、実はずっと痛かった。腹も胸もずっと痛い。実は頭も痛い。


「あー…万造が生きていたらなんて言うか…」

「何も言わずに猟銃を構えるだろ。アイツあれで子煩悩だぞ」

「まさかこんな形で来るとは思わなかったなぁ…」


 痛む頭を抱えながら横になり、新次朗は深く息を吐いた。篤郎も疲れたようにため息を吐く。


「まさか山神様に『御遣いの嫁』として認められるなんて、流石の万造も想像してなかったろうよ」


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