第21話 仇を討った鶴と助けた獣
急いで集合所…家に帰ろうとした千鶴は、新次朗の家を出てすぐ大きくなった百の背中に乗せられた。
百も千鶴を乗せるコツを掴んでしまったようで、額で千鶴を掬い上げ、そのままコロンと背中に転がしてしまう。千鶴は慌てて百の毛皮を握りしめ、疾走する百から落っこちないよう努力した。
八重と富子が三郎を洗っているので挨拶やお礼をしたかったのに、百はまっすぐ帰ると思ったらしい。千鶴が何か言う前に颯爽と駆け出してしまった。
(確かにこれだと早いけど…! ああ、ごめんよ三郎! またすぐ戻るからな!)
とにかく祠の掃除をしなければ。すっかり日が高いので、いつもの時間を過ぎている。決められているわけではないが、いつもより遅れている時間に腹の底がソワソワと落ち着かない。だから申し訳ないが三郎のことは後で迎えにいくことにした。
百は身体が大きいだけあって一歩が大きい。千鶴が時間をかけて登る坂道もあっという間だ。
一日も空けていないのに、家に辿り着いたときは長らく帰っていなかったかのように感じた。それだけ濃密な夜だった。
姿勢を低くした百から降りて、納屋から掃除用具を持ってくる。その途中で花を吟味して、撫子がまだ盛りだったので拝借した。酒も忘れず用意して、小走りに庭先へ向かう。
祠はいつもと変わらず建っていた。毎朝掃除する、小さな石造りの祠。
千鶴は深呼吸をしてから、祠に向かって一礼した。
なんてことのない、小さな祠だ。昔猟師の誰かが作った、気休め程度の祠のはずだった。
しかしその祠を掃除して、酒を供え、花を飾る千鶴の行いを、山神はしっかり見ていた。
(願いを叶えるか、叶えないかじゃねぇ…見られている。かの方は人の行いを見ている。それだけで気が引き締まるじゃないか)
気合いを入れた千鶴は、いつも以上に丁寧に祠を磨き上げた。
その様子を後ろから機嫌良さそうに眺める百は、長い尾をぱたぱたと揺らしていた。ゴロゴロ喉を鳴らしながら千鶴を見守っている。
丁寧に磨き上げ、酒を供え、花を飾る。
汗を拭って、千鶴は祠の前でしっかり手を合わせた。
今まで願っていたのは猟師たちの無事だ。
最近の願いは父の仇を討つことだった。
ならばそれが果たされた今願うことは…。
(まだわからねぇ)
何を求め、何を目標にすべきか。何を願うべきか千鶴にはまだわからない。
特別願うことはないけれど、千鶴は手を合わせて目を閉じた。この山に棲まう神を思って、ただ静かに頭を垂れる。
(わからねぇ。まだ何の整理もついちゃいねぇ…だから今は、一つ一つ…できることをしていかねぇと)
仇が居なくなったからって、喪失が埋まるわけではない。怒りが鎮まるわけではない。傷が癒えるわけではない。
むしろ近しい人を失って傷が増えた。今はまだぼんやりとして現実味が無いが、きっとこれからこの傷は膿んでいく。
膿んで腐り落ちないように、心の整理をしなくては。
そのための祈りだ。そのための時間だ。
千鶴はゆっくりと、山そのものを想った。
広大で、温かく生き物や植物を抱きながらも生存戦略の厳しい山。恩恵と災厄どちらも等しく与えてくる山を想う。
きっと、大自然から見れば千鶴たちなど些事だろう。大いなる自然の中で、短い生涯を足掻く人間同士の諍いなど些事だ。
それでも当事者にとっては人生を揺るがす大事だから…。
(地に足着けて生きるためにも、抱えて、背負って行かなきゃな…)
やがて静かに息を吐き、顔を上げる。
ずっとゴロゴロきゅるきゅる喉を鳴らしていた百を振り返った。
「ありがとうな、百。今も、昨夜も…たくさん守ってくれてありがとう。本当に助かったよ」
礼を言いながら首筋を撫でれば、獣の表情がわかりやすく明るくなる。相変わらず人間味の強い獣は嬉しそうに千鶴に擦り寄った。大きくて力が強いので仰け反りそうになるが、なんとか踏ん張った。
「掃除用具を片付けたら、三郎を迎えにいこう。八重ちゃんや富ちゃんたちにお礼も言わなくちゃ」
そう言って掃除用具を片付けた千鶴だが、納屋から出てすぐ百に頭で家の方向に背中を押される。麓の道へ向かおうとした千鶴は、ぐいぐいと軌道修正された。
「なんだいどうした。早く行かないと日が暮れちまうよ」
困惑した千鶴だが、百は千鶴の背を押し続ける。力が強くて、とうとう戸の前まで追いやられた。
仕方がないと、千鶴は家の戸を開けた。
そこにはいつもと変わらない土間と囲炉裏が…なかった。
あったのは、赤い柱に支えられた立派な板間。見知らぬ、清涼な、柱の赤が目を引く板間。
千鶴は思わず戸を閉めた。
間をおかずもう一度開けてみる。
やはり見慣れない赤い柱の板間が続いており、しかも奥行きがあり空間が広い。チラリと吹き抜けから立派な庭が見え、桜が咲いている。
季節が違う。そろそろ山が色づく季節のはず。
「な、どこ、え…?」
「ぎゃう」
「ぇわあ!?」
困惑する千鶴を、百が押した。蹈鞴を踏んで足を踏み入れた千鶴は、柔らかな風を頬に感じて狼狽える。風の清涼感がまったく違う。家の中に入ったのに向こう側に庭が広がっているってどういうことだ。
『千鶴』
背後から呼ばれた。
いつもの拙い声音ではなくしっかりと。明瞭に。
驚く千鶴の背後から、百の顎が肩に乗せられる。耳と頬を擽る白い毛。そよぐ髭が首を擽って身体が震えた。
耳のすぐ横でゴロゴロと喉が鳴る。後ろから体重をかけられた千鶴は、身体を丸めた百の懐に倒れ込んだ。百は四肢を巧みに使って千鶴を抱え込む。
『やっと連れて来られた』
「も、百…?」
獣の姿なのに、百の声が聞こえる。しかも人の姿の時より明瞭に。
目を見開く千鶴の顔を、ざらついた舌が舐めた。痛みを感じることはないが、巨大な獣の口元は迫力がある。
「お前、その状態でも話せたのかい? それにここはどこだい?」
『この状態でもしゃべれた。ずっとしゃべってた。だけど千鶴には通じなかった』
「うん…?」
確かにずっと鳴いていたが、あれがしゃべっていたときだろうか。ならば千鶴に通じなくて当然だ。千鶴は人の言葉しかわからない。
しかし今は、通じるようになっている。それが不思議だ。
『俺の言葉がわかるようになったのは、ここが俺の神域だからだ』
「しんいき…?」
『うん。母の縄張りの一角を貰った。昨夜頑張って作ったから、ちょっと母に怒られたが…あれくらいならいつものことだ』
「うん…?」
ちょっと理解できない。
『母を祀る千鶴のための場所を作ったと言ったら許してくれた。ほら、あれがいつも千鶴が掃除している祠』
「え!?」
顎で示された先を見てみれば、軒先から見える庭に立派な石造りの祠が見えた。
集合所の庭先にある手作り感が強い祠とはまったく違う立派な祠だ。
「あ、あれが…!? 形が全然違うよ!?」
『千鶴の信仰心を具現化したら立派になった。母も喜んでいた。母が千鶴を許したのは、千鶴が山そのものを尊敬していたからだな』
「何の話をしているんだい!?」
千鶴は混乱した。昨夜からずっとこれだ。
百が流暢にしゃべり出したのはこの際どうでもいい。びっくりが詰まった白い獣はもう何をしても驚かない。そう思っていたが、やはり神の御遣いはひと味違う。いつも千鶴の想像できない斜め上を行く。
『勝手に神域を改造したのは怒られたが、千鶴が母を祀り続けるなら信仰の場として許すと言っていた。俺の嫁として、山神信仰の助けとなれと』
「う、ううん!?」
千鶴には神域が何かわからない。残念ながら学が無いので、百の言葉の半分もわからない。
しかしとても気になる言葉が続いていた。
「百…百の、母って、誰のことだい?」
『山神だ』
実にあっさり告げられて、千鶴は一瞬意識が飛びかけた。
「お、お前…山神様の御遣いじゃなくて息子だったのかい!?」
『うん』
「そ、それってつまり神様じゃぁないか!?」
『うん、厳密に言えば神じゃないけど神みたいなものだ。母の神威を頂いている』
「かむいってなんだい!?」
『神様みたいな超自然的な高位の霊的存在。神様に近くて神様じゃない。だけど神様の末席に片足を着けているようなないような、そんな存在』
「どっちなんだい!?」
『俺がどっちなのかは、今後の人間が決める』
「に、人間が?」
『人間の信仰があれば俺もいつか神になる』
そう言って、百は千鶴の首筋に鼻先を突っ込み擦り寄り続けた。
『千鶴が俺を「神様の御遣いの百」として定めたから、人々は俺をそう認識した。俺は「山神の御遣いの百」として更に権威を得た。その前は、ただの「憤怒」だったのに』
「ふん…?」
『これからもきっと、そう認識され敬われる度に、俺も強くなる。千鶴が俺をそうしたから、千鶴が望むなら人も守る。千鶴は俺の嫁だから、俺は嫁の願いは叶える』
「え、ええ…?」
そう、千鶴が気になるのはもう一つ。
俺の嫁って何だ。
「あたしは…百の嫁なのかい…?」
呆然とこぼれた問いかけに、百は真剣に頷いた。
『千鶴はずっと求愛してくれていたし、俺も求愛していた。母も認めてくれた。だから千鶴は俺の嫁だ』
「きゅ…っ!?」
(いつした!? …された! 好きだと言われていた!)
思い至った千鶴だがしかし、百がいっているのは別のことだった。
『巣に招いてくれた。餌を分けてくれた。毛繕いで匂いもつけた。俺からの餌も受け取ってくれた。名前もくれた』
「あっ」
(あれって獣の愛情表現なのか…!?)
千鶴には学が無い。獣の愛情表現など知らない。
三郎の尻尾が感情表現に繋がることはなんとなくわかっていたが、それは知識ではなく経験だ。獣を巣に招き、毛を整え、餌を与えることに意味があるなど知らない。名前をつけることにも意味があったのか。知っていたとしても、人間と獣であるのだから該当するとは考えなかっただろう。
だけど百は人の言葉を理解し、その気になれば姿を寄せることもできる「超自然的な高位の霊的存在」だった。
「いや待て。あたしはそんなつもりじゃなくて」
『…だめなのか? たくさん求愛して千鶴は受けてくれたと思っていたが、だめなのか? 俺は千鶴がいい。昔からずっと千鶴がいい』
しょんぼりと髭が下がって耳が下がって尻尾も下がった。巨体が全身でしょんぼりを表現し、思わず千鶴の眉も下がる。これは卑怯だ。つい慰めるように撫でてしまう。
「その…ごめんな。よくわかってなくて。だけどあたしは人間だし、まさか神様の御遣いがあたしに懸想するなんて思えなくて…」
『種族はなんとかなるから気にするな』
「なんとかってなんだい…!?」
さらっとした声音が怖い。あっさりしているからこそ怖い。
慄きながら、千鶴は百の言葉を吟味する。
千鶴がいいと訴える声。昔からずっと、千鶴を知っていたような言動。
「…百、お前…もしかして昔、黒い毛だったりしたかい」
千鶴が覚えている大きな獣。黒い毛皮の、大きな獣。
山に入ったあの日、崖下に居て落っこちた千鶴を助けてくれた。大きな大きな黒い獣。
あの獣の目は赤かった。毛は黒かった。
しかし妙な既視感がずっとあって、昨夜背中に乗せられてそれがもっと濃くなった。
千鶴の問いかけに、百はぱっと表情を明るくした。
『覚えているのか!』
「夢かと思ったが、覚えているよ」
『夢じゃないぞ! そうだ、そのときから俺はずっと千鶴がいい!』
グルグル喉を鳴らして首筋を舐められる。柔らかい部分をざらついた舌が舐め回す。今にも甘噛みされそうで慌てた。
今にも喰われそうな勢いは流石に怖い。しかしそれを伝えて人の姿になられるのも困る。だって着る物がない。
『ずっと一緒といったのは千鶴が先だ。俺はずっと待っていた』
「う…っ」
確かに不義理になってしまったと思っていた。まさかあの黒い獣が実在して、ずっと待っているとは思ってもみなかった。
「そ、それは本当にごめんよ。色々あって…」
『知っている。だからもう怒っていない。見守るのは寂しくもあったが楽しかった』
「見守られてたのかあたし…」
あの雨の日、山の中で出会ったのが初対面だと思っていた。もしくは間をあけた再会だと思っていたが違ったらしい。千鶴は盛大に戸惑ったが、百は気にせず千鶴に擦り寄っている。
…もしかしてこれは匂いをつけるという、求愛の一環だろうか。気付いてしまって顔が熱くなる。
三郎が百をよく引き剥がしていたのは、百の目的を知っていたからだったのだ。また百が怒られているなぁとのんきに構えている場合ではなかった。
『好き。千鶴が好き』
人の姿で告げられたときより明瞭に。獣の姿の百が千鶴に訴えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます