第22話 獣は鶴を嫁にする


 好意を伝えてくる百は、姿形の違う生き物だ。感情表現が同じとは限らない。

 しかし三郎が千鶴に好意を伝えるのと同じようで違う。

 百のそれは、確実に男女の色を含んでいた。


『ずっと守る。ずうっと、ずっと一緒』

「う」


 ふかふかした毛皮に包まれて、強い力で擦り寄られて、その温もりについ力が抜けた。

 父を亡くした寂しさに、つい温もりを求めてしまう。

 押し返すこともできず、ぐいぐいと翻弄される。

 気付けばごろりとうつ伏せで板間に転がされた。背中にのしかかるように百が乗ってくる。首裏に感じる吐息とざらついた舌の感触。生命の危機に似た悪寒と、腰が抜けるような感覚に目が回った。


『大好き。愛おしい。俺の嫁』


 熱に浮かされるような、蕩けるような声音で告げられて耳だけでなく全身が赤くなる。

 喪失の癒えていない千鶴に、少し強引な好意は毒だ。強引でありながらも甘える声音は、全部許してしまいそうになる。

 そう、仔猫が愛らしくて、何をしても許してしまうのに似ている。

 だがこれはそんな愛らしい仕草ではない。今にも丸呑みにされてしまいそうな淫靡な香りが漂っている。


(でも百だし、神様みたいなもんだし、確かに好意は伝えられていたけど、でも)


 グルグル混乱する千鶴を待たず、百の鼻先が千鶴の首を舐めた。ざらついた感触にぞくっとした。


『千鶴、好き』

(う、うわあああああああああ!!)


 混乱した千鶴は心の中で絶叫した。どうしたらいいかわからなくて絶叫した。

 その瞬間、大きな音がして千鶴の背中から重みが消える。


「えっ」


 振り返った千鶴は、白い巨体がひっくり返っているのを見た。

 そしてその腹の上には小さな影。


「わんっ!」


 怒りを込めた一喝。

 小さな身体で百をひっくり返した三郎が、叱りつけるように百の腹に乗っていた。


「さ、三郎ー!」

『こ、こいつ…! 母の加護をいつの間に…!』

「うんっ!?」


 ひっくり返ったままの百がジタバタと四肢を動かしているが、腹の上に乗った三郎を落とすことができないでいる。明らかに大きさが違うのに、三郎が振り落とされることはない。

 それに対して百が告げた山神の加護とは。


「わんわんわんっ!」

『だ、だって皆認めたぞ。そう認識したぞ。もう固定されたぞ。違うぞこれは俺が狙ったわけじゃないぞ』

「わんわんわんわんっ!」

『違うぞ違うぞ本当だぞ。俺はいつだって本気で千鶴を嫁だと思っているが狙ったわけじゃないぞ。正直におはなししただけだぞ』

「わんわんわんわんわんっ!」

『な…っ、まさかは母そこまで考えて…? ち、違うぞ我慢していたんだぞだから噛まなかったぞ!』

「 わ ん っ ! 」

『そういう問題では、ない、のか…!?』


 さっぱりわからない。わからないが百が三郎に叱られているのはわかる。

 前からわかってはいたが、百が神の末席だとしても、三郎の方が力関係は上らしい。

 それからも何かごちゃごちゃとやりとりをした後、三郎が百の上で遠吠えをした。


 その瞬間赤い柱の板間が陽炎のように揺らめいて、見慣れた室内が現われる。


 広い土間に、四角い囲炉裏。その隣でひっくり返っている百と押さえ込んでいる三郎。

 起き上がった千鶴は周囲を見渡して、呆然と呟いた。


「…いつの間に移動したんだい…?」

『移動はしてない…繋げているから、もうここは俺の神域だ。さっきのは神域の奥で、わかりやすく別次元なんだ…だけどここなんだ…』

「いや意味がわからな…言葉は通じるままなんだね!?」

『千鶴とはもう繋がったから…』

「なにがだい!?」

「わふっ」


 機敏に百から退いた三郎が、千鶴の懐に飛び込んでくる。その身体をしっかり受け止めて、全身をわしゃわしゃと撫でた。


「ああ三郎! 置いていってごめんね。こんなに早く追いつくなんて…随分走ったんじゃないか?」

「わふっ」

『三郎は母から加護を与えられたから、俺の神域にも自在に入れる…』

「…えっ、山神様の加護…!?」


 驚いて見下ろすが、三郎に変わったことはない。しかし心当たりはあった。

 昨夜、大怪我をした三郎が回復したのは山神と遭遇した後だ。それからは稀に見るご機嫌で、怪我などない様子だったがまさかそのときに加護を得ていたというのか。


『放置すると俺が調子に乗るからと…』

「や、山神様…」


 どうやら三郎は、山神様公認の歯止め役として任命されたらしい。だから小さな姿で大きな百を転がすことができたのだろう。

 三郎は尻尾を揺らしながら、誇らしげに一声吠えた。

 成る程、ご機嫌なわけだ。


『うう…やはり好敵手…三郎が一番の障害だ…』


 めそめそ嘆く百は巨体のままごろりと寝そべった。その様子が情けなくてついつい近付いて、ふかふかの毛皮を撫でた。長い尾が嬉しそうに揺れる。

 撫でながら、千鶴は悩んだ。


 全力で好意を伝えてくる百の言葉は嬉しいが、正直考える時間が欲しい。

 頭から拒否するほどの嫌悪はない。種族の違いを抜きに考えれば、これほど千鶴を求めてくれる異性はいないだろう。家と土地のため、親が結婚相手を見繕うのが当たり前の時代で、ここまで好意を伝えてくれるのは素直に嬉しい。

 しかし今は混乱していてまともに考えられそうもない。


「あのな、百。あたしは今ちょっと混乱していて冷静じゃねぇから、伴侶とかそういうのはもう少し時間が欲しくて…」

『考えてくれるのか?』

「ま、まあね。しっかり伝えてくれたんだ。しっかり考えたいよ」

『本当か! 俺は嬉しい!』


 百はびょんっと身を起こし、動物なのにとてもわかりやすく笑って見せた。


『大丈夫だ。千鶴はもう俺の嫁として麓の連中が認識したようだから、誰も邪魔をしに来ない』

「うん?」

『新次朗たちが俺に千鶴をどう思っているのかと聞いてきたから、正直に答えた。山神も千鶴を認めたと言えば納得して貰えたから、俺から千鶴を盗ろうとする奴はいない。考える時間はしっかりあるぞ』

「うんん? …なんて答えたんだい?」

『千鶴は俺の嫁だと』

「っぁああ…!」

『どうした?』


 どうしたもこうしたもない! 百は本気でどうしたのだろうと思っているが、千鶴は真っ赤になって蹲った。三郎が哀れみの視線を向けてくる。


(成る程、おじさんたちが色々確認したのはそういうことか!)


 厄介なのは何が悪いのか、百がよくわかっていないことだ。

 百は本気で千鶴を嫁だと思っているし、そう主張している。無理強いはしないらしいが、嫁と言って憚らない。神の御遣いだと思っている相手の証言を、人間がどう受け取るかもわかっていないのだ。

 新次朗や篤郎が何を聞きたいのかよくわからないまま肯定するようなことをしてしまった千鶴も悪かった。しかし、しかしだ。


(嫁と思われているとは、思わねぇよ…!)


 そして過る山神の言葉。


『馬鹿息子は甘やかせばつけあがる。罰など当たらないからちゃんと躾けろ。あれをああしたのはお前だから、お前が責任を持って引き取るんだ』


 馬鹿息子とは。躾とは。責任とは。あれをああしたってなんですか。

 続いて頭の中で富子がいい笑顔で言い放つ。


『ご結婚おめでとうございますぅ』


 どうやら千鶴は自分の知らぬ間に、末席とはいえ神の嫁になっていたらしい。

 そしてその神は、どうやら千鶴を溺愛する気持ちで一杯だ。


 真っ赤になって蹲る千鶴の周りをぐるぐるする百の気配を感じながら、千鶴は固められた外堀に声にならない悲鳴を上げた。


 仇討ちをした鶴が、助けてくれた獣と一緒になるのは、時間の問題だった。


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