【番外編】黒い獣は怒りの獣
百は、獣は、山神の「憤怒」から生まれた。
今でこそ白い毛並みの百だが、元々は黒かった。恐らくどす黒い怒りから生まれた所為だろう。目だって攻撃色の赤だった。危険を知らせる赤だった。
封じられても収まらぬ怒りからこぼれて生まれた獣は山神の怒りを表すように暴れん坊だった。山に入るものを襲い、木々をなぎ倒し、生き物を傷つけた。強い怒りの具現は生き物に恐怖を与え、獣の正体を本能的に悟った動物たちは畏敬から獣に近付かなかった。
獣は「憤怒」だ。噴き出す怒りだ。山神の怒りを感じ取り、いつだって怒っていた。
だが人ならざるものとて、怒り続けるのは、疲れた。
山神の怒りから生まれた獣の存在意義は怒り続けること。しかし怒りから生み出された獣は、何に対して怒っているのかわかっていなかった。
怒りから生まれたから、怒っている。
山神が怒っているから、怒っている。
怒っているが…獣自身の自我が芽生えるほどの年月が経てば、思考するだけの知識がつけば、どうしても理性が生まれる。
理性が生まれれば考える。
どうして自分はこんなに怒っているのだろうか、と。
存在意義だから。
怒りから生まれたから。
己は怒りそのものだから。
だが大本の怒りから切り離された存在は独立し、自我を得て、わからなくなる。
怒って、怒って、怒って、怒って。
自分が何に対して怒っているのかわからなくて。
怒ることに疲弊して。
獣はグッタリと、母の膝で丸くなるように、山の一部に同化するように丸まった。
丸まっても、胸を燻るいらつきは収まらない。
日の光が嫌いだ。醜い姿を照らす太陽が嫌いだ。
穏やかな風が嫌いだ。荒む心を逆撫でるような風が嫌いだ。
小動物が嫌いだ。愛される条件を詰め込んだような、小さな姿が嫌いだ。
だから日の届かない場所で、風の当たらない場所で、小動物が近寄らないよう丸まっていたのに。
その日、獣の上に小さな命が降ってきた。
誰もが暴れる獣を恐れ、滲み出る神威を恐れ、近付くことも触れることもなかった獣の上に、獣の嫌う小さな命が降ってきた。
あまりにも突然だったので、獣もよくわかっていなかった。そこそこの勢いで降ってきた小さなそれは獣の腹に埋もれ、毛皮から必死に顔を出す。小さな手が毛を引っ張ったが、チクリともしなかった。それだけ小さくてか弱い存在。
ぷは、と頑張って呼吸をしている姿を凝視する。それは人間の子供だった。
人の子供も、嫌いだ。
姿を見ただけで泣き叫び、化け物と罵ってくる。山に迷い込んだ人間を丸呑みにしてやったことは何度もある。特別美味くもないが不味くもない。人間などその程度の認識だ。
叫ぶようなら、ひと呑みしてしまおうと思った。気分ではないから、煩くされたら苛立って考える間もなく呑み込むだろう。
獣を見つめる小さな存在の大きな黒い目は既に濡れていた。恐らく道に迷ったのだろう。幼子が迷い込むのは珍しくない。
濡れた目でじっと獣を覗き込んで、小さな手で獣に触れて。
「おまえ、すごく、あったかいねぇ」
そう言って、顔をくしゃくしゃにして笑った。
憤怒の権現である獣を目にして、笑った。
安心したように。
「ぐすっ」
小さな子供はそのまま獣の毛皮に顔を埋めて泣きだした。ぴったり貼り付いて、グスグスとぐずり出す。
獣は戸惑った。それは初めての経験だった。
獣を恐れ大声で泣き喚く子供が常で、獣に貼り付いてすすり泣く存在はいなかった。
そもそもこの子供、泣いてはいるが獣を恐れてのことではない。獣の知らぬ理由で泣いている。
泣いたらひと呑みにしようと思っていた獣だが、獣にしがみ付いて泣く子供を振り落とすことができなかった。
子供は獣を温かいと言ったが、獣にとってもそれは同じこと。
小さな小さな存在なのに、子供が貼り付く小さな箇所から、じわじわと温もりが広がっていく。
それは、獣が初めて受けた抱擁だった。
獣が初めて得た…他の生き物との触れ合いだった。
だって獣は生まれたときからこうだった。他の生き物のように母の胎から生まれ乳で育ったわけではない。生まれたときから「憤怒」で、怒りで、暴れる獣から誰もが逃げた。追いかけ蹂躙するのが役目だった。
だから触れ合いなど知らなかった。
高い声で泣き喚くなら耳障りでイライラしただろうに、すすり泣く子供の声は虫の鳴きのように小さい。獣は煩くないそれを、そのままにすることにした。
が、泣き止んだ子供は煩かった。
ずっとずっと、小さな口を動かして必死に獣に語りかけていた。
「ほんとうは、山に入っちゃだめなのよ。でもね、おっかあにヤマモモを採ってあげるの。ちづるはおねえさんだから、一人でできるのよ。ほんとうよ」
――――迷子になって泣いていたのに、そんなことは忘れたとばかりに言いつのる。
「おっとうたちがね、ずっと犬の五助といっしょなのよ。ちづるもいっしょが良いって言ったのに、まだ早いっていじわるゆうの。そんなことないもん。ちづるはおねえさんなんだから、おせわできるもん」
――――獣に必死にしがみ付く手は、とても他の生き物の世話ができるようには見えない。むしろされる側だろう。
「ほんとうはね、オンナはふもとでオトコを待つんだって。だけどおっかあはおっとうが苦労しないようにって、しゅーかいじょのおせわをしているのよ。ちづるもお手伝いしているの。だからね、ふもとの子たちとはめったにあそばないのよ。だからね、ちづるにもいっしょにいてくれる子がひつようだとおもうの」
――――それは確かにそうだ。こんな危なっかしい生き物、目を離す方が危ない。一人にしてはいけない生き物だ。
獣の毛を握りしめたまま必死に喋り続ける子供。縋るように握る毛が、とても不思議だった。
何故この子供は、獣を頼っているのだろう。子供より何倍も大きくて、真っ黒な毛並みの獣を。
あまりにも怒り疲れて憤怒の神威が消えたのだろうかと思ったが、茂みから顔を出した小動物が脱兎の如く逃げるのを見て考え直す。
きっとこの生き物は生存本能が欠落しているのだ。だから獣の脅威に気付けない。
しかし小動物が逃げたことには気付いたらしい。きょとんとした顔で茂みを眺め、大きな目を瞬かせた。
「もしかしておまえ、ひとりぼっちなの?」
余計なお世話だ。
獣は怒りで全てを破壊する憤怒なので、必然的にそうなるだけだ。
しかし子供はじっと獣を見上げ、いいことを思いついたとよじ登りはじめた。
「それなら、ねえそれなら」
少し動いたら振り落としそうで、獣はじっと動きを止めた。子供は至近距離まで近付いて、無防備にその鼻を獣の鼻先まで近付ける。
「ねえ、ちづるといっしょにおうちかえる?」
ぱちりと、獣は瞬きをした。
「おっとうにはね、ちゃんとちづるがおねがいするよ。おっかあはね、ヤマモモたくさんあげたらゆるしてくれると思うの」
自信ありげに頷いて、自分の小さい鼻を獣の鼻にくっつけた。
「ひとりぼっちはさみしいから、ちづるといっしょにいてくれる?」
子供は獣に期待しながらそう言った。
一緒にいてくれるかな。いてほしいな。そんな期待が込められた純粋な目。
子供はキラキラと純粋な目で獣を見ていた。
(一緒に)
一緒とは何だ。
一緒にいる存在など、獣にはいない。
一緒にいたいと願う存在が、そもそもいない。
いない、いてはいけない、のに。
「ねぇ、そーしよう!」
子供はにっこり笑うのだ。
ぎゅうっと、まるで心の臓が絞られるような締め付けを感じた。
ドクドクと鼓動が煩いくせに痛くない。強く脈打つ感覚が少し苦しい。
獣は勢いよく立ち上がり、歩き出す。子供は不思議そうにしながら落ちないよう毛を握った。子供は獣から手を放さない。放さなかった。
連れてきたのはヤマモモの群生地。気付いた子供は歓声を上げて獣に再び抱きついた。
「うれしい! ありがとぉー!」
臆面もなく放たれるお礼の言葉。
そう、お礼だって言われたことはない。
そもそも獣に話しかけてくる存在などいなかった。
暴れるだけの存在だから、誰も言葉が通じると思っていなかった。獣だって自分に言葉が通じるなんて思っていなかった。子供が語りかけてくるから、なんとなく理解しようとしたらできた。
小さな手が一生懸命ヤマモモを摘む。小さな籠はすぐ一杯になり、獣は子供を人の住む場所まで送っていった。獣が見逃した命を、他の獣が摘み取るのを防ぎたかった。
何もわかっていない子供は楽しげに笑い、獣の背中で寛いでいる。本来ならあり得ない光景を、他の獣たちが遠巻きに眺めていた。
「ありがとう! おっとうたちにおねがいして、またくるね! そしたらいっしょにおうちにかえろう!」
そう言って去って行く小さな背中。
獣は静かに、去って行く背中を見送った。
またとは、いつだろう。
山の奥へ進みながら、先程と同じ場所で丸まりながら獣は考えた。
またとはいつだろう。明日だろうか。明後日だろうか。今まで考えたこともなかった時間の経過を意識する。すると途端に、時間の流れがゆっくりになったように感じた。
獣はじっと丸まったまま、待った。
子供が落ちてきた崖の下。また子供が落ちてきても大丈夫なように崖の真下に丸まって、じっと待った。
待った。
待った。
待ったが…小さな子供は、現われなかった。
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