【番外編】黒い獣は涙を流す


『馬鹿な子だ。人間の子供の言葉を信じたのか』


 待っても来ない子供に苛立ってとうとう暴れた獣は、必要以上に暴れすぎたらしい。


 山のご神木とも言える大樹に爪痕を残し、怒った山神が顕現して獣を木の根で締め上げた。

 山神の怒りから生まれたが、獣が山神と顔を合わせたのはそれが初めてだった。

 山神も自分からこぼれた怒りが形をなしたことを知っていたが、干渉するつもりは無かった。血肉を分けた息子と言っても過言ではないが、愛着を覚えるような存在ではない。何より自らの怒りが山を蹂躙する様を見るのは、怒り狂う自分の醜悪さを突きつけられるようで不快だった。

 その息子が自身の神木を傷つけた。ならば仕置きが必要だ。

 そう考えて躾をした山神は、急に暴れた獣の動機を知って鼻で笑った。

 山神の怒りの一部とは思えないほど憐れで愚かな獣だ。


『人間はすぐ嘘をつく。子供は純粋に嘘をつく。いいやそのときは本気だが、数歩進めば他に興味が移る。奴らの時間は短い。時間が限られているからこそ興味はすぐ移ろう。お前のことなど、子供はもう覚えていまい』


 山神に情はなかった。

 とても情け容赦なく、やっと自我を得て考える理性を得た獣を叩きのめす。獣が人を信じる姿を滑稽だと笑った。


 お前のような愚か者を構う暇はないと、獣は山神に放り投げられた。山神にそんなつもりはなかっただろうが、丁度投げられた先は獣が子供を送っていった場所だった。


 山神に叩きのめされた獣は、酷く消耗していた。

 黒い巨躯が少しだけ縮み、そうなると身体が楽になる。身体を縮めると楽になると気付いて、仔猫のような大きさまで縮んでみた。どうやら容赦のない山神は、それだけ獣を消耗させたらしい。

 てちてち歩いた獣は、山の奥に戻ろうとして…方向転換して、子供が向かった先に進んだ。


 子供が獣を忘れているというのなら、今度こそひと呑みにしようと思った。

 そうすれば、怒りと一緒に滲む悲しみが消える気がした。


 獣は小さな姿を利用して、人が暮らしている家の茂みに突っ込んだ。小さな身体は丁度良く、一軒家の庭先に潜むことができた。

 獣はそっと身を乗り出して、様子を窺い…。


 べそべそと、泣いている子供を見つけた。

 膝を抱えて丸まって、べそべそ泣いている子供がいた。


 獣はびっくりして、硬直した。

 てっきり獣を忘れて遊んでいると思ったのに、子供はあの日より激しく泣いていた。自分の膝を抱えて泣いていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 べそべそ泣きながら、誰かに謝り続けている。

 子供の頬は、夕焼けに照らされて真っ赤だった。


「ちづるがわるい。ちづるがわるいんだ。おっとうに言われたのに山にはいったから。だからわるいことがおきたんだ」


 ごめんなさい、と子供は繰り返す。


「おっかぁ…ごめんなさい、おっかぁ」


 べそべそと、子供らしからぬ静かさで泣いている。

 獣はぎゅうっと心臓を絞られた。以前感じたのとは違う、苦しくて痛い。痛い。辛い。

 思わず飛び出しそうになって、しかし子供に近寄る男に足が止まる。彼は丸まっている子供をひょいと抱え上げ、丸い背中を撫でた。べそべそ泣いている子供は、意識が半分夢の中のようだ。

 男が振り返る。

 痛ましげな顔をした男は、茂みから飛び出そうとした獣に気付いた。気付かれたことに驚いて飛び上がり、獣は一目散に駆け出した。駆け出しながら振り返れば、男はもうこちらを見ていなかった。


 夕暮れ時。空に雲は見えないのに、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

 山に戻った獣は雨に打たれながら、考える。何故子供が謝りながら泣いていたのか。子供が言っていた意味を考える。


 山にはいったから何だろう。なにが悪いのだろう。獣はわからないが、人は何か決まりがあるようだ。

 しかしそんなものは迷信だ。山にはいったら不幸が起るなんて、そんな話はあり得ない。

 あり得ないが、しかし。


 …あの子供は、きっと不幸が訪れた。山から帰り、不幸にあってしまった。

 だから真実になった。あの子供にとって、山にはいったことはいけないことになった。悪いことになった。


 獣と出会ったことは悪いこと。

 あの時間が子供にとって、悪いことになってしまった。

 だから、だからあの子はもう山に来ない。

 だからあの子はもう、獣の前に現われない。


 コロリと目元から滴が落ちる。


 雨が降っているから。滴が当たっているだけだ。しかし視界がぼやけて、まるで水の中にいるような息苦しさを覚える。


 何だろう。これは何だろう。


 獣は怒ることしか知らなかった。だから他の感情をよく知らなかった。

 胸を締め付ける切なさも、零れ落ちる涙の理由もわからなかった。


 ぎゃうぎゃうと、苦しくて鳴いた。小さな姿で鳴いた。鳴いて、鳴いて、泣いた。涙をこぼして泣いていた。

 獣が涙を流す度、身体から色素が抜ける。黒い淀みが零れ落ち、雨が汚れを落とすように毛皮から滲み出ていった。

 真っ黒だった毛が白くなる。真っ赤だった目が橙になる。強い色が抜けて、獣の見た目が変わっていく。


『…信じられない。一時的だとしても、積年の憤怒を越える嘆きが怒りを押し流すなど…』


 いつの間にか、地面から首だけはやした山神が地面に転がる小さな獣を見ていた。黒い毛並みはだいぶ白くなった。しかし斑に黒い毛も残り、縞模様のようになっている。それでも白い部分が多く、真っ黒だった頃とは違う姿になっていた。


『お前、そんなにあの娘に執心していたのか』


 呆れたような声音で山神が問う。獣はギャウと鳴いた。ぎゃうぎゃうと、ジタバタと小さな四肢をばたつかせて泣いた。


 手が温かかった。笑顔が温かかった。言葉が温かかったのだ。

 噴き出す怒りに疲れて冷えた身体に、小さな命は温かかった。

 一緒と言ったのに。手を差し伸べたのは向こうなのに。

 獣にあんな約束をしておいて、勝手になかったことにするのが許せない。

 だけどあの日が子供にとって不幸だったのなら、獣はどうしたらいいかわからない。

 きっとあの子供はもう二度とここには来ない。

 あんなに優しい熱を教えておいて、勝手に消えるのは許さない。


『かと思えば根強い怒りもある…まったく、白くはなりきらぬ獣め。腐っても憤怒か』


 白い毛並みに縞模様。

 残った黒い毛並みは拭いきれない獣の怒り。


『愚かだとは思ったが、まさか人に傾倒する馬鹿息子だったとは』


 泥にまみれた小さな身体を、泥濘から姿を現わした木の根がつまみ上げる。山神の視線も高くなり、いつの間にか獣をつまみ上げるのは山神の手になっていた。首根っこを掴まれて、赤みが薄れて橙になった目が山神を写す。山神は自分の視線の高さに持ち上げた獣を揺らしながら、言葉を続けた。


『いいか。今後何があっても、お前から人の子に会いに行ってはならない。お前は憤怒だ。どれだけ悲しみに染まろうと怒りは拭いきれない。人の子への想いもいつしか怒りで染まる。そのときお前が人の子を襲うようなことはあってはならない』


 ぎゃうぎゃう。


『山を害する馬鹿なら捻り潰すけどね。そうじゃないなら手を出すな。人の営みに神が介入するのは無粋だよ』


 ぎゃう…。


『生きる時間も、感覚も、価値観も全て違うんだ。恋しいからと近付くな。あれはね、馬鹿な奴らと眺めているのが丁度いい距離だ』


 そう言って、山神は獣を放り投げた。茂みに落ちた獣の上に花が散る。


『お前にできるのは、見守ることだけだよ――――いいね、白恚はくい


 白恚はくい

 それは山神がたった今決めた、獣の名だった。


 それから獣は見守り続けた。

 祠に願う子供を見守って、彼女の望み通り猟師たちを見守った。どうやら子供の父親が群れの頭らしく、子供は大事に守られていた。子供は時々一人で泣いていたが、時間が経てばそれも少なくなった。


 やがて子供は娘となる。


 人間たちは群れながら、他の群れと同じように代替わりをしようと頭を狙った。しかし人間の流儀から外れていたのだろう、そいつは群れの頭にはなれなかった。

 群れは瓦解して、娘を守っていたものは散り散りになり――――。


 娘はまた、山に入った。

 また、泣きながら。今度は、怒りながら。


 獣は「憤怒」だ。

 娘の怒りに、獣は呼ばれた。

 …呼ばれた。呼ばれた。獣は娘に呼ばれたのだ。

 呼ばれて…。


 実はこのあたり、浮かれていたので記憶が曖昧だった。


 ふらふらと娘の怒りに招かれて、そのまま巣まで導かれ。

 毛並みを整えられ、餌を分け与えられ…匂いがつくほど近付いて。

 試しに、小さな身体を懐に抱き込めば。

 娘は…千鶴は、大人しくそこに収まって獣を撫でてくれた。


 これは。

 つまり。


(――――求愛されている!)


 生きる時間も、感覚も、価値観も全て違うといっていた母の助言などすっぱり忘れて。

 獣はそう確信した。

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