【番外編】人と神と獣と


 千鶴が獣からの求愛に気付いて目を回した日。

 獣の勢いに負けて、獣の毛並みを布団にして千鶴が眠った夜。

 羞恥に悶える千鶴とご機嫌な百が寝静まった頃、百を一度踏みつけてから、小麦色の獣は外に出た。


 暑い夜が続いていたが、そろそろ風が冷えてくる。小さな獣は身体を揺らし、軽やかに駆け出した。

 それは普段では出せない速さ。木々の隙間をくぐり抜け、風と一体化したように山を駆ける。月が真上に昇る頃、小さな獣は神聖な大樹の前までやって来た。

 大樹に近付いた小さな獣は、十分な距離をとりその身を伏せた。

 そのまま微動だにせず、じっと待つ。

 大人しく、時を待った。


『なんだ。挨拶のつもりか? 殊勝なことだ』


 月が少し傾いた頃、大樹が揺れた。


『それとも聞きたいことがあるのか』


 横に広がる大きな枝に、山神が姿を現わした。枝の一つが動き出し、それ自体が山神となる。

 彼女は枝の上に腰掛け、伏せたまま動かぬ小さな命を嗤った。


『獣のくせに人間染みた理性だ。お前は獣の身でありながら人と暮らした時間しかない。お前の意識は獣より人に近い』


 伏せているのは恐怖からではない。畏怖を覚えている訳でもない。

 そうするべきだと、神に対して千鶴のとった挙動を覚えているのだ。


『人を真似るならば、姿形も似せてみろ。今ならできるだろう』


 山神の言葉に、伏せたまま小麦色の身体が揺らめいた。


 現われるのは小麦色の髪をした中年の男。

 その男は髪だけでなく肌も小麦色だった。少し粗野な印象のある、けれど貫禄を持つ大人の男。黒い目には知性が宿り、視線は伏せたまま山神の言葉を待っている。

 ちなみに、男は鼠色の着流しを着ていた。それは獣のが着ていた着物によく似ている。

 どこからどう見ても人間にしか見えない姿に、山神が愉快そうに口元を歪めた。


『馬鹿息子より化けるのが上手い。まぁあれは獣であることを忘れられないから仕方がないな。お前は、獣である身を忘れるくらい人と共にあったんだろう』


 男は反論しなかった。伏せたまま静かに耳を傾けている。

 その従順な態度に、山神は満足そうに肩を揺らした。だから発言を許してやることにする。


『それで、何を知りたい』

「「歪」の種は」


 低く渋みのある声音。

 自分の発した声を確認し、問題なく話せると確信した獣…三郎は、再び口を開いた。


「千鶴に植えられた「歪」の種は、どうなるのでしょうか」

『すぐにどうこう、ということはないだろう』


 問いかけの内容を予想していた山神は、考える素振りも見せず断言した。


『馬鹿息子が魂を紡いだから「咲く」ことはないだろう。あの娘も、父親の教えを守ろうと足掻いた。ならば滅多なことがない限りあのままだ』

「取り除くことはできぬのでしょうか」

『あれはな、種だがすぐ細やかな根を張る。中枢にだ。引き剥がせば相応の代償を伴うだろう』

「千鶴は…人には戻れぬのでしょうか」

『人として死なせてやりたいか?』


 ニヤニヤと口元を歪ませながら山神が三郎を見下ろす。三郎は黙り込み、首を振った。


「既にあの娘は百の嫁…眷属の一人になりました。そこから抜け出せば「歪」の花が咲く。もはやあの娘には眷属として長い時を生きるか、「歪」な花として狂い咲くかの二つしかありませぬ」


 ――――「歪」とは。

 珱国の外からやって来た外来種。

 植物の一種である。


 多くの人々は「歪」を神出鬼没な未知の化け物と思っているがそうではない。あれは珱国の外から種が持ち込まれた植物に過ぎない。

 一般的な植物と、咲くために必要な土壌が違うだけ。

 地中で種が栄養素を取り込み芽吹くように、それが成長に必要としたのは土ではなく生き物だった。

 更に言うなら必要なのは血肉ではない。


 必要なのは強い感情、衝動…「歪」を育てるのは他者への殺戮衝動。


 絶望や憎悪だけではない。野生動物が縄張り争いや雌の取り合いでも芽吹くときがある。

 恐らく種の持ち主以外の血が必要なのだ。そこに感情が付随すればより育ちがよく、争いに負けた動物の方が「咲き」やすい。

 そう、本能で戦うより恨み辛みからの戦いの方が「歪」が育つ可能性が高い。そういった感情を餌にするから凶暴性が高いだけで「歪」の目的は増えること。他の種と同じように、ただ繁殖することだけを目的に種をばらまく。


 だからこそ「歪」の種が植えられるのは人間が多い。それは動物の中で人間が一番、感情的だからだ。

「歪」は人に種を植えて「咲く」のを待つ。

「歪」の繁殖方法は単純だ。枯れる瞬間に弾けて種を周辺にまき散らす。その瞬間近くにいた動植物に付着して、芽吹く瞬間をじっと待つ。

 多くの植物が土壌によって芽吹くことなく終わることがあるように、「歪」の種を植えられたからといって、必ず「咲く」わけではない。

 だから本来ならば、たとえ「歪」の種が弾けた現場にいたからといって、千鶴に種が付着したからとて、必ず「咲く」わけではない。


 しかし千鶴は――――近すぎた。

 そして種を多く浴びすぎた。

「歪」として「咲いた」ばかりの活動的な状態を強制的に「枯らした」ために…普段ではあり得ない勢いで種が弾けたのもよくなかった。

 百が守っていたので呑み込まれることはなかったが、種の弾ける現場にいた千鶴は見えない種をその身に受けていた。

 麓について気絶したのは安心したからではなく、種を受けて身体が耐えきれなくなったから。種が「咲く」ために土壌である千鶴を精神的に攻撃していたからだ。


 千鶴を守るため、百は千鶴の魂に触れた。結果千鶴との距離が縮まって千鶴は眷属となったが、そうしなければ千鶴はあの場で「歪」に成り果てていた。だから三郎は邪魔をせず、部屋の外にいたのだ。

 百曰く、百が触れる前に彼女を守る存在がいたようだが…もう消えてしまったらしい。


 誠に遺憾だが、こうなれば千鶴を守れるのは百だけだ。

 性急な行動は許さないが、三郎は百が千鶴を嫁にすること自体に反対ではない。性急な行動は許さないが。


 それに百が言った「山神が認めた」と言う発言も嘘ではない。


 千鶴の中にある「歪」の種。

「歪」は外来種だ。珱国に存在しなかった種である。

 それは珱国に対する侵略で、特に山神にとって己の一部を食い潰されるような不快感を覚える存在だった。だから山神は、己の領域に入り込んだ「歪」を除去した。


 その除去に、千鶴も含まれていた。

 何故ならそのとき既に、千鶴は種を大量に浴びて「咲く」危険性が高かった。

 あのとき山神が百をぶっ飛ばしたのは怒りもあったが、千鶴の存在を山神が見定めるためでもあったのだ。


 結果、山神は千鶴の存在を許した。

 種を抱えた千鶴を切除せず百に委ねたのは、千鶴の存在を山神が認めたことと同意。


 山神は千鶴を「こちら側」だと認めた。


 だから百は大手を振って千鶴を神域に引きずり込んで求愛をはじめたし、何の遠慮もしなくなった。元々人としての遠慮など知らぬ獣だったが余計に酷くなった。そのときのための三郎だが、山神が三郎に加護を与えたのはそれだけが理由ではない。


 山神が三郎に加護を与えた理由は百を牽制するためだけではなく…これから長い時を生きる千鶴のための一手。


 これから永久に近い時を生きることになる千鶴に寄り添うべく、三郎は山神の眷属となった。

 千鶴が山神への信仰を忘れぬ限り。

 山神は眷属三郎をそばに置き、その心を守ってくれる。


 三郎への加護は、千鶴への慈悲である。


 三郎は千鶴と同じように、山神への畏敬の念を忘れずしっかり頭を下げた。


「山神様の御慈悲、しかと受け賜りました」

『賢い子だ』


 意図が通じていると確信しているからこそ、山神は余計な手間をかけずにすんで機嫌がいい。


 何せ馬鹿息子は親の助言や忠告を忘れて突っ走るので、きつめに躾ける相手は必要不可欠だ。千鶴にはまだ遠慮があるので、三郎には是非張り切って馬鹿息子を叱り飛ばして貰いたい。

 山神は赤い爪先で胸元の撫子をつついた。小さく揺れる赤い花。同じ撫子でも昨夜は白かった。その違いの意味も三郎は察して居たが、口に出すほどのことでもない。


 昼に千鶴が祠に飾った花の色が赤だった。

 それだけだ。





 三郎はその後、素知らぬふりをして集合所に戻った。

 千鶴も百もぐっすりで、起きた気配はない。千鶴はともかく、百は獣としてどうかと思うが千鶴をがっちり抱え込んで幸せそうだ。


 三郎にとって、千鶴は妹か娘のような存在だ。

 というのも三郎の飼い主は千鶴ではなく万造だからだ。


 千鶴が主であるようで、本当は違う。少なくとも、猟犬として三郎を育てたのは万造だった。

 万造の狩りについて行き、そうでないときは万造がなにより大事にしていた千鶴を守るため傍にいた。万造がそう願ったこともあったが、三郎も千鶴を妹か娘のように思っている。


 大切な飼い主の、大切な娘。

 三郎にとっても妹で、娘である千鶴。


 だから三郎は、千鶴のために千年生きることだって吝かではない。

 千年は大袈裟かもしれないが、千鶴のためにそれだけ生きたって構わない。


 三郎はくっついて眠る一人と一頭に割り込むことをせず、その足元で丸まった。千鶴と百の足に触れ合う場所で、綺麗に丸まって目を閉じる。


 それはこれから始まる長い日々の、当たり前になる一人と一頭と一匹が過ごす穏やかな光景。

 棲む場所が集合所から百の神域に変わっても。この土地が集合所から神社へと変わった後も。

 一人と一頭と一匹は、同じように丸まって眠っていた。


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鶴の仇討ち こう @kaerunokou

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