第9話 納得できぬと鶴が泣く


「まあとにかく…どこぞの馬の骨が千鶴ちゃんを騙くらかしているわけじゃなかったのはよかった」

「いないよそんな男…」


 新次朗は千鶴の膝に乗っている百を見ながら複雑そうな顔をしている。

 何度引き剥がしても千鶴に突撃するので、新次朗と三郎は諦めた。膝で丸まる程度なのでよしとする。

 千鶴はそんなやりとりを不思議に思いながら、膝に乗せた百と隣に寄り添う三郎を両手で撫でていた。種類の違うモフモフに挟まれている。とても温かい。

 そして大人の猫と子供の猫では毛の硬さも違うようで、いつも以上に百の毛がふわっふわだった。触り心地が、とても良い。


「それにしても…新次朗おじさんの耳に入ったということは、その話って結構広まっているのかい?」

「篤郎がなぁ、人から聞いたらしい。その話を源太にするものだから、源一にまで話が流れて大変だった。度胸はない癖に口うるさくて仕方がねぇや」

「なんで源一が騒ぐんだい。おかしな奴だね」

「これだもんなぁ」


 篤郎とは、父の猟師仲間である。

 言動が癪に障ることの多く、人の揚げ足をとるのがとても得意な人だった。最年長なのに一番子供っぽくて、面倒見のよい新次朗とは何度も意見が割れて喧嘩をしていた。

 それだけだと嫌われそうなものだが、父の葬儀で一番泣いてくれたのはこの人だった。

 彼は不器用すぎて、いつも言葉の選択肢を間違える。


 そして源太は、千鶴の幼馴染みである源一の父親だ。

 彼も父の猟師仲間で、二番目の年長者。しかし少しばかり肝が小さく、よく篤郎に意見を食い潰されていた。篤郎と新次朗のやりとりの仲裁も苦手で、巻き込まれては眉を下げていたちょっと可哀想な人である。

 千鶴としては話しやすい人だったが、事ある事に源一との祝言を勧めてくるのだけが難点だった。


「それで話しを聞きに行くって山を登ろうとしたんだが、源一だけじゃ山は危険だからな。源太が一緒に行くって話しになったんだが…いきなりあの親子に詰め寄られても、千鶴ちゃんも困るだろう」

「そうだね」


 普通に困る。説明にも困る。

 もしあの親子が新次朗と同じように百と遭遇した場合、悲鳴を上げて腰を抜かすか、慌てて発砲して大騒ぎになるかの二択だ。

 源太は猟師だが、肝が小さくていつも篤郎につつかれていた。子供の千鶴から見ても、どうして猟師になったのだろうかと不思議になるくらい源太は肝が小さい。


「そこで俺が聞いてくるって話をつけて、今日ここまで来たわけだ。松助はなんにも口を挟まなかったが、アイツも気にしていたしな」


 松助も猟師仲間の一人だ。

 四十歳の最年少だが、冷静で寡黙な仕事人。空気が父と似ていて、千鶴は彼の隣で黙々と作業するのを好んでいた。松助も千鶴の隣が定位置で、そこにいれば余計な騒ぎに巻き込まれないとわかっているようだった。

 ただ、本当に寡黙だったから、新次朗と篤郎のやりとりにも基本的に傍観者だ。


 二人の喧噪に源太が巻き込まれ、松助が傍観し、最終的に取りなすのはいつも父の万造だった。

 いつもそんなやりとりを、千鶴は笑いながら見ていたのに。


 …父がいなくて、あの四人はまとまるのだろうか。

 今まで思いつかなかったことを考える。

 父がいなくてもなんとかなるなんて、そんなことは思いたくなかった。思いたくなかったが…きっと、彼らは彼らなりに四人であることに順応していくのだろう。


 千鶴はまだ、父がいないことを受け入れられていない。

 百や三郎の毛に埋もれながら、何をしているんだと呆れ顔の父がやってくるのではないかとどうしても考える。


 ――――現実を受け入れられていないのは、千鶴だけなのかもしれない。


 千鶴は口元を自嘲で歪めた。

 自然と三郎達を撫でる手が止まる。三郎は動じないが、百が「なんでやめるの?」といわんばかりに頭を擦り付けてきた。「もっと撫でて」と千鶴の手の平に入り込もうとする。

 自嘲が苦笑に変わる。千鶴は愛らしい毛玉を撫でるのを再開しながら、新次朗を見た。


「おじさん達の中でそんなに騒がれていたなんて知らなかったよ…そこまで気にして貰わなくたってよかったのに」

「馬鹿を言うな。俺たちにとって、お前は娘同然なんだ」


 どこの馬の骨ともわからん奴に大事な娘をやれるか、なんて息巻く新次朗は少しも変わっていない。


 面倒見がよくて闊達で、先頭に立って舵を取ることが多い頼りになる大人。

 とても、頼りにしていた。信頼を寄せていた。

 だからこそ、信じられない。

 千鶴が他の猟師達と共に移動しなかったのは。麓に下りなかったのは。この場所に残ったのは。

 家族のように思っていた彼らを信じられなくなったからだ。


「…なあおじさん。おっとうの件…本当にこのまま黙っている気かい」


 お互いわざと避けていた話題に、千鶴から切り込んだ。

 千鶴の言葉に、新次朗は言葉を返さなかった。

 静かに口を噤んで、押し黙る。口と一緒に忙しなく動いていた手も動きを止めて組まれた。


「このままで、いいわけがないだろう。「歪」は報告義務がある。このまま放置しても、いずれ山で遭遇する。もしかしたら他の集落が襲われるかもしれないんだよ」


 千鶴が訴えなくても、大人の彼らにはわかりきったことだろう。猟師であるなら、山の脅威だって理解している。その山に、更に正体不明の「歪」が加わるのだ。


「「討伐隊」に山を荒らされたくない気持ちはわかる。そいつらがどうやって「歪」を探すのか想像もつかねぇ。だけど、おっとうが…人が一人死んでいるんだ。人食い熊が出たら総出で探索するじゃないか。それと同じ判断はできないのかい」


 人食い熊が出たら早急に対処する。

 熊に限らず、一度人の味を知った獣は人を餌と判断する。被害が拡大する前に対処するのは当然のことだ。

 それなのに何故「歪」相手に同じことができない。


「万造は、喰われたわけじゃねぇ」

「――――だからなんだい! 殺されたことに変わりはないだろう!」


 冷静でいようとした心が、新次朗の言い訳染みた返しに悲鳴を上げた。

 千鶴の怒鳴り声に百が飛び跳ねて、三郎はさっと顔を上げて千鶴を窺った。そんな二匹の動向も、確認する余裕がない。

 対して新次朗は冷静だった。真剣な顔をして、怒りで顔を赤くしている千鶴を見ている。


「「歪」は人を襲うが人は食わねえ。人の味を占めているわけじゃねぇんだ。あれらは関わらないのが一番だ」

「だから放っておけって!? 次の被害者が出るのを待ってろってのかい!」

「そうじゃねぇ。こっちから向かっていっちゃぁいけない奴らなんだ…だから千鶴ちゃん、そこの猟銃を使うようなことはしちゃぁならねぇよ」


 新次朗の視線がズレて、壁に掛けられた猟銃へ向かう。

 報復をしてはならないと、言っているのだ。

 …猟師は山の動物たちを狩る。獲物は山神様からの贈り物だ。だから狩りすぎてはならない。

 そして狩りに失敗し、たとえば熊に襲われたとしても、恨みを持って山に入ってはならない。

 人が獣を狩るように、獣も人を狩ったのだ。

 因果応報。どちらが生き残るのかは、山の意思。

 山の出来事は山の意思。山神様の御意志だから、双方恨みを持って狩りを行ってはならない。


 山で襲われたから。

 山で「歪」に襲われたから。

 その法則に則って、たとえ「歪」だろうと憎しみを持って銃を撃ってはならないと、新次朗は言うのだ。


(納得がいかない…納得できるものか!)


 千鶴に、報復するなというのなら。


「それなら…隠さず、正当に対処しておくれよ!」


 山の意思だというのなら、偽らないで欲しい。義務を果たして欲しい。

 隠しているから苦しいのだ。大切な人が亡くなったことが哀しいのに、事実が隠蔽されているのが我慢ならない。余計苦しくなる。


 何故隠す。何故偽る。

 それが正当な判断だと言うのなら、説明して欲しい。

 山の意思など漠然としたものではなく、決まりに背くほどの理由があるなら教えて欲しい。


 千鶴は顔を覆って俯いた。

 涙が出そうになって、目元を覆って誤魔化した。

 新次朗が労るような目を向け、手を伸ばそうとし…千鶴の膝を陣取ったままの百が唸り声を上げて威嚇した。仔猫の姿だが愛らしさより迫力が勝る姿に、新次朗の手が止まる。


「すまねぇな千鶴ちゃん。いやな思いをさせて」

「…っ」

「だけどもう暫く耐えてくれ」

「…?」


 唇を噛み締めながら顔を上げる。囲炉裏の向こう側で、新次朗も痛みを耐えるような表情をしていた。


「このままにはしねぇ…絶対、それは約束するからよ」


 静かに、しかし力強く告げられた言葉を理解できない。

 しかし新次朗からの覚悟を感じ取り…千鶴は返事をせず、小さく頷くに留めた。

 新次朗は明るく笑って膝を打つ。そのままくるりと千鶴に背を向けた。


「さて、事実確認もできたことだし、俺はそろそろお暇するかな。あいつらには誤解だったとしっかり伝えておこう」

「…ああ、お願いするよ」

「おう、任せとけ」


 言いながら藁草履を履いた新次朗は足踏みをするように立ち上がり、振り返る。

 彼は千鶴を見て、眩しそうに目を細めた。


「…なんだい?」

「なんでもねぇよう! おいちちゃんにますます似てきたなぁって思っただけだ」

「あたしはおっかあみたいに美人じゃないよ」

「何を言っているんだ千鶴ちゃん! 千鶴ちゃんもおいちちゃんもべっぴんさんだよ! まったく万造の奴、綺麗な奥さんに綺麗な娘っ子までいて本当に幸せな奴だよ!」


 力強く宣言されて、ぎこちないが笑みが浮かぶ。


 幼い頃亡くなった母は、思い出の中で特別綺麗だ。

 千鶴は昔のことはうろ覚えだが、母に関することは覚えている。

 幼心に綺麗な母が大好きだったし、ずっと傍にいた。母が猟師達の世話を焼くのを見て家事のやり方を覚えたくらいだ。

 千鶴は母とずっと一緒だった。


 だけどあの日は、傍を離れて行動していた。

 母が事故で亡くなったあの日。千鶴は母の傍にいなかった。


『ヤマモモを採ってきておくれ』


 そう言って千鶴に籠を渡したのが誰だったのか、その後の印象が強すぎて思い出せない。

 そう、あの日千鶴にそう言ったのは、おっかあじゃなかった…。


「…驚いたが、御遣いが傍にいるなら、ここにいた方が安全かもしれねぇなぁ」


 声が聞こえて、はっと現実に引き戻される。


「おじさん? 何か言ったかい」


 声は小さくて、千鶴まで届かなかった。

 しかし、獣の耳には届いた。

 百の丸い耳がピクリと動き、窺うように新次朗を見上げる。


「…なんでもねぇよう!」


 新次朗はにかりと笑い、大きく手を上げた。


「それじゃあ――――またな!」



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