第8話 獣の求愛に鶴は気付かない


 その人は、千鶴が日課の祠掃除をしている早朝に現われた。


 家の横で丸まっていた三郎が不意に顔を上げて、尻尾を揺らしながら立ち上がる。麓に繋がる道に向かって駆け出した三郎に気付いた千鶴は、丁度拭き掃除を終えて本日の花、撫子を供えたところだった。祠の前にしゃがみ込み、手を合わせていた。

 ちなみに早朝から働き始める千鶴と三郎に対し、朝に弱い百はまだ寝ている。獣は早起きの印象があったがそんなことはなかった。千鶴が支度をしていても熟睡である。


「三郎?」


 集合所を囲う塀で、三郎が見ている先が見えない。三郎は尻尾を振りながら歓迎するように一声鳴いた。

 塀の向こう側から、太い腕が伸びて三郎の身体を撫でる。


「久しぶりだなぁ三郎。千鶴ちゃんは起きてるか?」


 その声に、千鶴は即座に立ち上がった。


「新次朗おじさん!」


 叫ぶように呼んだ千鶴に応えるように、その人は塀の向こう側からひょっこり現われた。

 彼は他の猟師が厚手の布や毛皮で外套を作る中、頑なに蓑に拘りどんな季節でも蓑の外套を羽織っている。そのこだわりに変わりはないようで、千鶴の前に現われた新次朗はいつものように蓑を纏っていた。

 長身ではないががっしりとした体付きで、幼い頃はよく肩車や高い高いをしてくれた。そういった接触は、父親より多かったかもしれない。

 そう、だからこそ第二の父のように思っていた。

 それなのにあの日、信じられない選択をしたから…それ以降まったくあっていなかった新次朗の登場に、千鶴は呼びかけたものの二の句が告げられなかった。

 そんな千鶴の動揺をわかっているのだろう、新次朗は苦笑しながら頭を掻いた。


「おはよう千鶴ちゃん。元気そうだなぁ」

「お、おはよう」


 なんとか挨拶を絞り出し、掃除用具を持ち上げる。新次朗を歓迎し終わった三郎は、戸惑っている千鶴の足元に飛んできて温かな毛皮をすり寄せてきた。

 大丈夫だと励まされているようで、頑なに強ばっていた気持ちが多少緩んだ。


「ちょっと確かめたいことがあってきたんだが…一人かい?」

「え? ああ…一人だけど」


 緊張したような顔で千鶴の周囲を見渡す新次朗に首を傾げる。

 父親の死と「歪」と、それに関連する対応で緊張していた千鶴だが、新次朗は様子がおかしかった。何やら千鶴の周囲を気にしている。

 次に会ったとき、無事に会話ができるか不安だったが…様子のおかしい新次朗に出鼻をくじかれた。てっきり、頑なな千鶴を責めるような言動が飛び出すと思っていたからだ。


「何を確かめに来たのか知らないけど…取り敢えず茶を淹れるよ。片付けてくるから、中で待っててくれ」

「おう、ありがとよ」


 掃除用具を片付けるため、千鶴は小さな納屋に向かう。数ヶ月前までこの場所を利用していた新次朗は何の遠慮もなく集会所内へと足を踏み入れ


 千鶴は完全に油断していた。


「うわああああああ!?」


 だから轟いた新次朗の絶叫に心の底から驚愕した。

 自分より大人の男の絶叫など、聞いたことがなかったので。


「新次朗おじさん!? どうし…」

「来ちゃだめだ千鶴ちゃん!」


 納屋から駆け戻った千鶴は家の中を覗き、のそっと起き上がっている百を見て素で「あっ」と零した。


 千鶴はすっかり油断していた。

 というか、存在に慣れていた。

 …普通、こんな大きな猫は存在しない。

 どう見ても肉食獣な牙と爪。獰猛な夕焼けの目。明らかに狩る側の佇まい。

 新次朗が驚くのも無理はなかった。


 猟師は基本、獲物を見つけても慌てず騒がず行動する。

 しかし完全に油断しきっている中で、安全地帯と考えていた家の中から巨大な獣が現われて、流石の歴戦の猟師も絶叫した。絶叫したが、立て直しは早かった。

 すぐさま据銃して、獣との距離を測る。視線を獣から外さぬまま、千鶴に来るなと警告した。

 逃げろと言っているわけではない。むしろ獲物と向かい合っているときに走って逃げるのは悪手だ。獣には狩猟本能があるので、逃げれば確実に追いかけられる。

 背中から襲われたら、獲物はあっという間に押さえ込まれて喰われてしまう。

 猟師として獣の危険性を理解しているからこそ、新次朗は叫んで注目を浴びてしまったことを悔いながら覚悟を決め、銃口を白い獣に向けていた。


 千鶴はそんな新次朗に大慌てで近寄った。

 何が悪いって、説明していなかった千鶴が悪い。


「待っておじさん! 百は白い獣、神様の御遣いなんだ! 撃っちゃだめだ!」

「何を言っているんだ千鶴ちゃん。危険だから来ちゃだめだ。下がるんだ」

「こいつは確かに肉食だけどあたしを襲わなかったよ! ただのでっかい猫さ!」


 千鶴は必死に百の無害さを進言した。猟銃の前に立とうとして、流石にそれは三郎に止められる。新次朗にそのつもりがなくてもちょっとした誤りで発砲される可能性だってある。それを考えたら銃口の先には絶対立ってはならない。

 ちなみに寝起きの百は知らない男に唸りかけたが、駆け込んできた千鶴の必死な無害運動に気付いて黙った。

 百は空気の読める獣である。


「でっかい猫…? 何を言っているんだ千鶴ちゃん。こいつは虎だ」

「とら…?」

「外の国の獣だ。俺は昔、絵巻物で見たことがある…こいつはぁ、虎だ!」


 虎とは、海を挟んだ遠い国に存在する獰猛な獣である。

 新次朗は緊張感溢れる迫真の宣言をしていたのだが、虎を知らぬ千鶴にはまったく通じなかった。


(だってそれ、外の国の獣なんだろう? ここは珱国だよ? 珱国の神様の遣いが他国の獣の姿をしているなんてあるのか? ないだろう?)


 千鶴の頭の中で、百は完全に「でかいなりの猫」である。


「勘違いだよおじさん。百は猫だよ」

「こんなでっかい猫がいるか!」

「山神様の御使いなんだ。そんなこともあるよ」

「色が白けりゃ山神様の御遣いとはかぎらな…」

「に゛ゃごん」

「ほら猫だ」

「太かったろうが! 声がよう!」


 叫びながらも視線と銃口は百に向いたままだ。

 千鶴は困った。新次朗は猟師なので、一度獲物を認識したら安全を保証されない限り狙いをずらさない。一瞬の油断が命取りだと知っている。知っているが、千鶴にとって百は危険な存在ではない。

 一時期はその爪と牙がこの身を裂いてくれないだろうかなんて自殺願望が湧いていたが、それも綺麗さっぱりなくなるほど安全な獣だ。矛盾しているがその通りである。


(どうしよう。完全にあたしの手落ちだ。このままじゃ百がおじさんに狩られちまう)


 千鶴が困っていると、それを察知した百が動いた。

 ゆらり、陽炎のように白い毛並みが揺れる。

 新次朗はぎょっとした。千鶴もぎょっとした。その陽炎は、百が人間の姿になるときしょっちゅう見ていたからだ。


(待て待て百! 今ここで人の姿になったりしたら…!)


 千鶴は咄嗟に視線を囲炉裏に向けた。その傍に畳まれた、藍色の甚平を確認する。


(おじさんの前で全裸はいけない!)


 どういう原理か、服を着ていても獣になるときは服が脱げる。陽炎のように揺らめく一瞬で服が落ちるのだ。服を着た白い獣の姿は未だに見たことがない。

 慌てた千鶴だが、問題なかった。


 揺らめいた陽炎の先に現われたのは、ちんまりと縮んだ白い獣。

 ――――仔猫のように愛くるしい、白い獣がそこにいた。


「「…は?」」

「わん!」

「みゃ~」


 呆然とした人間二人の声と、叱責するような犬の一声。

 そして小さくなった白い獣の、全力で甘えるような高い声がその場に響いた。


 結果、新次朗は百が無害であることを認めた。

 仔猫(?)になった百が全力で千鶴に甘える姿を見て、そしてその首根っこを咥えて引き剥がす三郎の姿を見て銃口を降ろした。


「いやぁ…驚いた。まさか山神様の御遣いが、こんなに千鶴ちゃんに懐いているなんて…」

「なんでなのかは、あたしにもよくわかっていないけどね…」


 囲炉裏を囲んで向かい合い、新次朗の視線は千鶴の膝にゴロゴロ擦り寄っている百に集中していた。千鶴は苦笑しながら、片手で抱えられるほど小さくなった百を撫でる。まさか人になるだけでなく、大きさを変えられるとは思ってもみなかった。


(…いや、人になれるんだから、大きさを変えることくらい簡単なのか? どっちが難しいんだろう)


 人には理解できない領域だ。

 甘えてくる百の喉元を指先で擽れば、嬉しそうに指にじゃれついてくる。小さな前足で千鶴の薬指を捕まえて甘噛みをはじめた。小さな牙が擽ったい。

 可愛いのだが、斜め背後から監視するような三郎の視線が痛い。

 千鶴は外見ですっかり騙されてしまうが、三郎は騙されていない。百が調子に乗った瞬間引き剥がすだろう。なんとも優秀な猟犬である。


 暫く呆けたように百を見ていた新次朗だが、気を取り直すように出された茶に手を付けた。まだ湯気の立ち上る茶を一気に飲み干して、真剣な表情で千鶴と向かい合う。


「千鶴ちゃん。不躾だが、正直に答えて欲しい」

「確かめたいことってやつかい? 何でもきいとくれ」


 百のこと以外で答えにくいこともなかったので、千鶴はあっさり頷いた。その答えにくい百のこともあっさりばれたのだし、今の千鶴に秘密はない。

 と思っていた。


「放浪していた若い男を囲っているってのは本当かい?」

「んんっ!」


 思わず噴き出しそうになって堪えた。堪えきれなくて変な声が出た。

 なんだそれはと一瞬考えて、麓で友人達と交わした会話を思い出す。


 百の着物を縫うために布を買い、その言い訳に出した言葉が、なんだか妙にねじくれて新次朗の耳に届いたらしい。

 新次朗は真剣な表情で、チラリと畳まれた藍色の甚平を見た。

 父の趣味ではない色合いの、真新しい甚平。大きさからして千鶴のものではない。

 千鶴は頭を抱えたくなった。


(成る程、おじさんが様子を見に来るわけだ…!)


 父親を亡くして一人山で暮らす若い娘のところに、よそ者の男が居候しているなど、邪推されても仕方がない。

 しかも放浪していた男を千鶴が囲っていることになっている。

 確かに千鶴が世話を焼いているが、囲っているわけではない。放浪していた男は男でも、獣である。比喩ではなく、文章そのまま獣である。

 何なら、千鶴の指にじゃれついているこの小さな獣である。


 その獣、新次朗の言葉を聞いて衝撃を受けた顔で千鶴を見上げていた。

 なんだ、この「囲ったのか。俺以外の男を…」なんて浮気を咎めるような表情は。

 お前のことだ。


 千鶴は苦い顔をして…衝撃を受けている百の小さな身体を掬うように持ち上げ、新次朗に掲げた。


「それ、こいつのことだよ…」


 ばれているのだからと隠すことなく打ち明けた。


 結果、千鶴に甘えていた仔猫(?)は、新次朗の手によって三郎のお膝元に隔離された。

 獣ならともかく、若い男になるなら話は別、らしい。


「…いや、獣は獣だろう?」

「獣だからだめだ」

「わん!」

「にゅごぉ…」


 何故かそのまま、危機感がないと説教されることになる。



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