第7話 鶴は獣を調える
「…さて、これでどうかね」
急拵えで縫い上げたそれを広げる。
できあがりを確認して、問題ないと判断して一つ頷いた。
縫い上げたのは、甚平だ。仕上げを優先して着物にしようと思ったが、問題点に気付いて急遽甚平を縫った。幸い、父親に何度か縫ったことがあったので手早くできた。
(急拵えのわりによくできているじゃないか。よしよし。これを…)
座ったまま振り返り、囲炉裏のあたりを確認する。
少し前からそのあたりが騒がしいので、そこにいるのはわかっていた。
父親の着物を着たままの百が、三郎と向かい合って四つん這いのまま威嚇し合っている。
これも、最近ではよく見る光景だ。そう、百が人の姿で千鶴にしなだれかかると、三郎が飛んできて噛みつくからだ。
三郎は獣姿の百が千鶴にしなだれかかるのは気にしないが、人間の姿で同じことをするのに厳しい。毎度百の尻に噛みついて吠えている。
対する百は懲りずくっついてくるし、三郎に獣の威嚇を繰り返していた。
となれば仲が悪そうな二匹だが、普段はそうでもない。白い獣の腹に頭を乗せて昼寝をする三郎の姿も見るし、逆に三郎を枕にして昼寝をする百の姿も見る。
そしてその昼寝に千鶴も巻き込まれる。
苦笑して、一人と一匹…二匹を呼ぶ。
「三郎、百」
すると双方、ぱっと明るい顔でこちらを見るのだから面白い。
真っ先に駆け出した三郎が千鶴の懐に飛び込む。同じく駆け寄ろうとした百は、着物の裾につんのめって転んだ。
そう、人間の姿をしていても、百は人間の動きが下手くそだった。
「練習が必要だねぇ」
三郎を存分に撫でてから、何故転んだのかわかってなさそうな百に近寄った。精悍で綺麗な顔をしているのに、ちょっと間抜けな顔が可愛い。千鶴より大きな男性なのに、本性が大きな猫だと思えば愛らしくて仕方がない。
頭部にある丸みを帯びた耳と、長い尻尾の存在が人型の百を男性として警戒できない原因だ。
(そう、こいつは獣。人じゃねぇんだ。だから気にすることはない)
そう、つるつるてんの着物が乱れて大変目のやり場に困る状態だとしても。
「ほら、百。アンタのができたから、こっちに着替えような」
そう言って甚平を見せれば、間抜けな顔をしていた百が破顔する。白い頬を染めて、とても嬉しそうに千鶴の頭に頬を寄せた。
「ちづる。ちづる」
「わかったわかった。着せてやるからじっとしていろよ」
「ちづる」
「はいはい。立ってくれ」
低い声は、千鶴の名しか呼ばない。それがこそばゆくて、ついついぞんざいな受け答えになってしまう。
それに、中身が大きな猫だと思っていても、やはり見た目は人間の男性だ。
着替えさせるのは苦労するし、照れる。
よろよろ立ち上がった百の前に立ち、黒い帯を解き、自分の腕に掛ける。押さえをなくした着物の衿が緩んで、千鶴の前に百の白い胸元が現われた。
百の肌は、とにかく白い。千鶴達と種族が違うのがよくわかる白さだ。
しかしきちんと人間の身体だった。触れれば温かいし、筋肉の弾力がある。
千鶴はなるべく下を見ないようにして百に甚平を着せる。百は言われたとおりじっとしていた。
夕焼けの瞳も、じっと千鶴を見下ろしている。
その目を見返してはいけない気がして、千鶴は視線のやり場に困りながらなんとか衿の紐を結んだ。
「ほら、これでいいだろ」
丈の合わない鼠色の着物よりかは似合っているはずだ。
ぽんと百の胸元を叩き、終わったことを告げると百は興味深そうに腕を上げて甚平の調子を確かめだした。獣だから、服を着る概念がないから、肌の上にある布が気になるのだろう。父の着物を着せたときもそうだった。
ぴこぴこ耳が動き、尾が揺れている。そう、この尻尾があるから、着物では対応できなかった。
甚平にすることで、下衣を調節して尾を出した。それでも窮屈だろうが、着物よりマシだろう。千鶴が縫ったのは袖も総丈も長いもので、百は大柄のため購入した布は全て使い切ってしまった。
妥協したのか気に入ってくれたのか、百が嬉しそうに千鶴を見下ろした。
「ちづる!」
「おっと」
正面から抱きつかれて、衝撃で数歩下がる。成人男性の見た目なのに、百の言動は幼い子供のようだ。
「ちづる、ちづ、ちづるっ」
「そうかいそうかい。喜んで貰えてよかったよ」
何を言っているのかわからないのは、獣であるときから変わらない。だから千鶴は獣の鳴き声に人間が勝手に返事をするのと同じように返した。喜ばれているのはわかったので、間違いではないだろう。
千鶴に抱きつきながら、百の巨体がずるずる沈んでいく。足にまったく力が入っておらず、このまま四つん這いになりそうだ。
人の見た目なのに、動きが下手くそな百。
人の身体を模しているのだから、動きも覚えた方がそれっぽくなるはずだ。
千鶴は百の手を掴んで、後ろ向きで歩き出した。百は体勢を崩しかけるが、両手で補助しながら一歩一歩足を踏み出させた。
歩行練習だ。
獣は二足歩行を知らない。だから身体に覚えさせなければ。
「右、左。右、左…ああ、そうだよ。上手だ。というかアンタ、左右がわかるんだなぁ。賢いぞ」
「ちづっ」
「うんうん、すごいすごい。あたしより賢いなぁ」
「ちづ。ちづる。ちづ。ちづる」
「いやアンタ、あたしの名前で右左を表現するんじゃないよ…」
百は千鶴の手に縋りながら、よたよたと歩行を続けた。
それも囲炉裏の回りを四周したあたりで、百の足取りに不安がなくなる。相変わらず驚きの吸収力だが、相手は神様の御遣いだ。
この家に居座ってゴロゴロしている様子から忘れがちになるが、百は不思議な力を持つ神様の御遣いである。教育の成長速度が速くても驚かない。驚かないが、しっかり褒めた。
偉い偉いと高い位置にある頭を撫でれば、百は心底嬉しそうに破顔した。
野性味ある男性からの満面の笑顔に、千鶴はやっぱり可愛い奴だなとこちらも破顔する。
大きな図体の小さい子みたいだなぁと…幼児を相手にしていると思いながら接していた。
人間の姿をしている百だが、一日中人のなりをしている訳ではない。
一日の半分は本性である獣の姿で外に出て日向ぼこをし、千鶴が移動したらついてくる。
時々ふらっと狩りにでて、千鶴に獲物を分けてくれる。
百が人の姿になるのはもっぱら家の中だ。土間で陽炎が揺らめいて人の姿になり、畳に上がってくるようになった。
…獣のままだと絶対畳に乗せないと、察せられていたらしい。人の格好になって囲炉裏の傍で千鶴にくっつくのが百の楽しみだ。そのたび三郎に吠えられるが、一向に態度は改めない。
そして眠るときにまた獣に戻って、土間で丸まって三郎と寝ている。どうも意識のない間は人に変化できないようで、寝ているときは必ず獣になっていた。
人でいる時間が多くないのもあって、百の動作はまだまだ拙い。
(あたしは誰かの世話をしたい人間だったんだな。三郎だけじゃなく、百の世話をするのが苦じゃないし…やっぱり気が紛れるんだよねぇ)
百の歩行練習に付き合いながら、視線をずらす。壁に立てかけられた猟銃が、日陰からこちらを覗いていた。
手入れをして、火薬を新調して、いつでも使えるように整えた猟銃。今だって寝る前には必ず手入れをし、定位置に立てかけてある。
相変わらず忙しくて山には入れていないが、仇のことはずっと千鶴を悩ませていた。
(おっとうが死んで、そろそろ一ヶ月…だけど「歪」の情報はどこからも聞かない。もしかしたら山を越えてしまったのかもしれない)
それはそれで、別の集落が危険にさらされる。しかしそんな話は聞かない。
ならばどこに居るのか。
(もうこのあたりにいないのか…いいや、そんなこたぁ誰にもわからない)
探しに行かなければ。
何の音沙汰もないなんて、そんなことあるわけがないんだから。
千鶴の黒い目に、暗い影が落ちる。
気持ちが沈んだそのとき、百の右手が千鶴の頬を包んだ。
驚いて顔を上げれば、夕焼けの瞳がじっと千鶴を見ている。見つめながら、頬を包んだ右手の指先が千鶴の耳たぶに触れた。中指と薬指で挟み込まれ、軽く引っ張られる。
ふにふにと、弱い力で引っ張られた。
「あー…なんだい? 気になるかい? アンタにはないもんだしねぇ」
人の形に化けているが、人の耳がある場所には何もなく、頭部に丸みを帯びた耳がある。その耳を動かしながら、百は千鶴の耳を弄りだした。
順調に進んでいた歩行練習はいつの間にか終わっていて、百は長身を屈めて千鶴の耳を覗き込んでいる。じっと観察して、指先で形を確かめるように撫でた。
(…いや、近いな?)
真顔でじぃっと眺めてくる視線が居たたまれない。
中身が獣だとわかっていても、この美貌は心臓に悪い。
長い指先は耳たぶから耳輪を辿り、耳の裏をこするように折り曲げてくる。親指が耳のへこみを確かめて、甘噛みするように強弱をつけながら揉んだ。
これは、こそばゆい。
耳など人に触られても何も感じない部位だと思っていたのに、百にじっと観察されながら触れられるのは、やけにこそばゆい。
中身は獣なのに、言動は幼児なのに、やけにいけないことをしているような気分にさせられる。
「百、そろそろ離れ…」
「ちづる」
距離をとろうとした千鶴の腰に腕が回り、距離が詰められた。獣とは違う体温が千鶴を包む。
グッと身を屈めた百が、目を見開いた千鶴の耳元で牙を剥き。
足元に忍び寄っていた三郎に脛を噛まれた。
「グルルルルガウゥッ!」
「わんわんわんわんわんっ!」
人の身でも動物同士言葉は通じるようで、百はその場で四つん這いになって三郎と喧嘩を始めた。
その様子を呆れた目で眺めながら…早鐘を打つ心臓を、千鶴はなんとか鎮めようと努力する。
弄られていた耳が、とても熱い。
(見た目って大事なんだねぇ…)
獣だとわかっているのに反応してしまう心臓に、千鶴はとても困っていた。
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