第6話 獣は求愛されていた
時間は少し遡る。
毛皮組が残念そうな顔をしながら荷台を引く千鶴を見送ったあとのこと。
白い毛皮…百はことさら残念そうな顔をしていた。折角千鶴の力になれると思ったのに、置いてけぼりにされたからだ。
自分ではわからないが、人の身になりきれていないらしい。百はつるつるした人間の手を見下ろし、肩を落とした。ちゃんと指は五本だし、関節にも気を遣ったが人に見えないらしい。どこがおかしいのだろうか。
ひょんひょん尻尾を揺らし、獣の耳を垂れながら首を傾げる。そんな百を家の横で丸くなった三郎が呆れた目で見ていた。
白髪の長身の男は、首を傾げながらぶるりと身を震わせた。
身体が陽炎のように揺らめいて、その拍子に身につけていた着物が地面に落ちる。つるつるしていた前足が一気に白い毛並みに覆われ、身を屈めて屈伸した。
そのまま駆け出そうとして、足元に落ちている着物に気付く。ちょっと考えて、牙で穴を空けないよう気を付けながら咥えた。少し引きずって、家の中に放り投げる。
これは、千鶴にとって大事なものだ。野ざらしにしてはいけない。
百は満足げな顔をしたが、三郎は呆れた視線で立ち上がり、百が放り投げた着物を回収して畳に乗せた。
これは、千鶴にとって大事なものだ。地面に置いてはならない。
三郎はふんすと鼻を鳴らし、百は負けた気がして衝撃を受けた顔をした。
首を振って気を取り直し、百は千鶴の縄張りを抜け出して、山の中へと駆けた。
三郎はそれを見送り、再び家の横で丸まった。千鶴に百を見ているように言われたが、追いかけはしなかった。
百が必ず戻ってくるとわかっていたからだ。
百はぐんぐん山の奥へと進む。
山の中を駆ける百は複雑に密集する木々などものともせず駆ける。まるで木々の方が百を避けているように真っ直ぐ駆け、あっという間にこの山で一番大きな樹の根元までやって来た。
別にここまで来る必要はなかった。山ならどこに居ても見聞きしていると知っていた。
だが、人間で言う義理とやらを通すべきだと判断した。
だから百は、大樹の前でお行儀よくお座りしながら低く鳴いた。
『母よ、俺は今日から百だ。千鶴が名付けてくれた』
「全部見ていたから知っているわ。この馬鹿息子」
大樹に呼びかければ、その根元から土色の腕がぬうっと生えた。
根元から大地が盛り上がり、木々が風に揺らされるように人の形をとる。きっと遠目には人の形をした木にしか見えないだろう。
土色の肌に、木の葉に似た緑色の髪。獣道のように乱雑な髪は目元を覆い、ひび割れた唇だけが見える。
手足は枝と錯覚するほど細く、捻れて絡みつくような布を身に纏っている。
胸元に飾られた桔梗の花が、陰鬱な印象を抱かせる姿とズレていた。
鬱蒼と生い茂る髪の隙間から覗くのは単眼。枯れ葉色の一つ目が、ぎょろりと獣を見た。
彼女こそが人間が山神と呼ぶ女神…山に封じられた、男神の娘。
その、思念。
百は顕現した神の思念に、臆することなく報告する。
『千鶴が求婚してくれた』
――――もし千鶴がこの会話を聞いていたのなら、耳を疑ったことだろう。二度見したかもしれない。
そんなとんでもない言葉が百から飛び出した。
獣は真顔だ。他よりわかりやすい表情を見せる獣は、キリッと引き締まった顔をしていた。
一方報告を受けた山神は、ひび割れた唇をへの字に曲げている。
『千鶴を我が眷属として認めて欲しい』
「だから馬鹿と言っているのだ、この大馬鹿息子。早とちり者」
『早とちり…何故? 千鶴は求婚してくれた』
「人間と獣の感性は違うと昔から言っているだろうこのポンコツ」
呆れたように首を振り、山神は大樹の枝に腰掛けた。鬱蒼と生い茂る髪の隙間から覗くひび割れた唇が、嘲るように吊り上がる。
「あの娘はお前を妾からの御遣いとしか思っていない。求婚だなんて勘違い。お前はただの押しかけ粘着獣だ」
『な、なんてことを言うんだ母よ。そんなことはないぞ。千鶴は俺に特別優しい』
「そりゃあ山神様の御遣いだと思われているから優しくするさ。つまり妾の栄光だ」
『だ、だが千鶴は俺を縄張りに入れて毛並みを整え、餌を分けてくれたぞ。俺からの求愛給餌にも応えてくれた。名前もくれたぞ』
そう、千鶴は自ら百を
そして百の濡れた毛並みを
自らの餌を百に
百が狩ってきた
そして極めつけに、百と名付けた。
名前は祝福だ。親から子に与えるものと、番同士で呼び合うものが存在する。
番を自分だけの物だと示すように、自分専用の名前をつける。とても簡単だが、相手が許容しないと意味がない。
千鶴はそれを百にくれた。
――――つまり、疑いようもなく嫁。
幼い頃の約束が、果たされたのだ。
百は…獣は、山神の「憤怒」から生まれた獣だ。
神が自分の一部を切り離したとき、それは稀に命を宿す。山に封じられた娘の怒りが本人から溢れて零れ落ち、獣は生まれた。
生まれた当初は毛並みも黒く、目も赤かった。どす黒い怒りの塊が獣の本性だった。
ひたすら山で暴れ回って、暴風のように木々を爪で抉った。山神が生み出した怒りが山神を封じた山を傷つける。神が怒りで暴れられないのを代理で遂行しているようなものだった。
だが人ならざるものとて、怒り続けるのは、疲れる。
いつしか獣は疲弊して、山の景色に紛れるように身を潜ませた。
山神から切り離され、既に何に対して怒っているのかも忘れていた。それでも怒りは消えなかった。
怒りは消えない。それが獣の存在意義だ。
それでも、そんなあり方に疲れていた。
そんなとき。
獣は幼い少女と出会った。
――――幼い日の、千鶴と。
『ひとりぼっちはさみしいから、ちづるといっしょにいてくれる?』
期待に満ちたまあるい目で獣を見上げていた、あの日の約束がようやく果たされる。
夕焼けの瞳をキラキラさせて報告してくる獣に、山神は失笑で返した。
「人間と獣の価値観は違う。お前など愛玩動物にしか思われていない」
『そ、そんなことはない。千鶴は俺に着物を作ってくれると言った。着物とは、人間の毛皮だろう。つまり鳥が羽を与えるようなものだろう。そう、求愛だ。千鶴は絶えず俺に求愛してくれている』
「素っ裸の雄に耐えられない雌が考えた最善策だろう。何でもかんでも求愛に繋げるなんて、余裕のない獣で恥ずかしい」
『よ…余裕は、ない…』
「そこは認めるのか。ああ、馬鹿馬鹿しい」
百は耳と尻尾を垂れさせた。
言葉が通じていないので、行き違いがあることはなんとなくわかっている。しかし求婚しているようにしか見えなくて、都合のよいように考えていたが山神にバッサリ否定されてしまった。
でもやっぱり求愛だと思う…なんて悪あがきをするが、山神は鼻で笑うだけ。完全に馬鹿にした目で獣を見下ろしている。
…では、あれは求愛ではないのか。舞い上がっていた気持ちが折れそうになるが、まったく好意のない相手にあれができるのか。人間とは不思議だ。
しかし、嫌われてはいないはず。獣は肩を落としながら尻尾を揺らした。
『…つまり、俺の求愛が足りていないのか…しかし獲物を捕ってくるのは二日に一回と言われているし…』
「一日何回もお前が狩りをしたら山の生態系が狂うわ馬鹿息子」
娘の判断は正しいぞ、と苛立たしげに吐き捨てる山神の声を無視して考える。
『千鶴が喜んでくれること。望んでいること…ああ、そうだ!』
思いついて、丸みを帯びた耳がピンと立った。
『千鶴は父親の仇を討ちたがっていた。なら、その手伝いをしてやろう』
「…へえ、たとえばどうやって?」
『千鶴に、
ずっと見守ってきた。
あの子と出会ってからずっと。あの子が大切に思う父親のことも。山に入って猟を行う様子をずっと。
だから獣は、あの日何が起きたのか一部始終を見ていた。
あの日、この山で何が起きたのか、獣は見聞きしていたから知っている。
それを教えたら、仇を討ちたい千鶴はきっと喜んでくれる。
しかし山神は相変わらず、獣を嘲り嗤った。
「おやめおやめ。人間の争いに首を突っ込むんじゃない。恨まれることはあれど、喜ばれることなどないのだから」
『恨まれるのか!?』
予想外の言葉にぎょっとすれば、山神は不機嫌そうに頭を揺らした。木の葉のような髪がわさわさ揺れる。
「ああそうだ。あいつらは勝手に期待して勝手に怒る。妾が言うのもなんだが、本当に勝手な奴らだ」
吐き捨てて、山神は大樹に寄りかかる。幹に絡まるように、その身体は大樹に沈んでいった。
「
最後にそう残して、山神は姿を消した。
見送った獣は暫くじっと黙っていたが、すぐに身を翻した。
山に入った千鶴の気配を感じたからだ。帰って来る千鶴の気配を感じて、一目散に駆けた。
山の動物たちは、獣の嫁である千鶴を襲うことはない。獣が何者か知っていて、獣を恐れているからその嫁である千鶴に近付かない。
山神には勘違いだ早とちりだと言われたが、将来的に間違いはないのでしっかり匂いをつけている。それでわからない獣はいない。
しかし麓の人間達は獣の恐ろしさをわかっていないから、万が一もある。
だから獣は駆けた。出迎えるため、余計な匂いを書き換えるため。
ずっと見守ってきた獣は、もう遠くから見ているだけではない。
ちなみに彼の最大の好敵手は、長い期間千鶴の傍にいた人間…ではなく、猟犬の三郎である。
やつは、千鶴の兄貴面をしていて、とても厄介だ。千鶴からの信頼も厚く、百はいつも歯噛みしている。
山神は嗤うが、千鶴は獣の…百の嫁だ。
だからずっと傍にいるのだ。幼い日に彼女が望んだように、ずっと一緒。
そして千鶴の元に駆けつけた百だが、飛んできた百より早く三郎が千鶴の元に馳せ煎じていて、文字通り歯噛みすることになる。
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