第5話 飛び立つ鶴の足元で
「それじゃあ千鶴、今度はそのモモさんも連れて来なさいよ!」
「お待ちしてますぅ~」
「は、ははは…」
呉服商で用事を済ませた千鶴は、友人達に見送られながら荷台を引いた。彼女たちも忙しく、それなりに時間をかけて布を選んだこともあり、ここで別れることとなった。
(結局布を選びながら根掘り葉掘り聞かれた…)
しかし答えるわけにも行かないので、千鶴はなんとか誤魔化しながら百の話をした。
というわけで百には「山に入ったところで出会った流浪の猟師」なんてよくわからない設定がつくことになる。
二人は納得したわけではなかったが、父を亡くしたばかりの千鶴がその男の世話で気が晴れるならと深く問い質すことはなかった。
あとで絶対確認する、と顔が言っていたので、それまでに百の外見がどうなるかとても心臓に悪い。
しかしおかげさまで、二人の協力と梅吉のご厚意から布は安く手に入った。少し負けてくれたのは梅吉の気遣いだろう。次は売り上げに貢献せねば。
千鶴が購入したのは藍の布。濃い、落ち着きのある色合いだ。
果たしてあの獣が布の色を気にするかわからないが、精悍な顔つきには濃い色合いが似合う気がした。
(さて、思ったより遅くなっちまった。三郎と百はいい子でお留守番しているかねぇ)
三郎の心配はしていないが、百は心配だ。一人で麓に向かう千鶴の背中を寂しげに見送った夕焼け色を思い出し、千鶴は気合いを入れて荷台を引いて坂道を登った。
荷台を引いて進む千鶴を見送った八重と富子は、揃って軽く息を吐いた。
「思ったよりは元気そうでよかったですぅ」
「そうだね。空元気って訳でもなさそうだし」
無理をしている様子はなかった。まったく平気というわけではないが、平常心でいられるくらいの冷静さはあるようだ。
それだって、取り繕えているだけだとわかっている。取り繕える程度には落ち着きを見せられるだけだ。
「しっかし、何か揉めているみたいだね。千鶴だけ山に残って、猟師達が別の狩り場に移動するなんておかしいよ。千鶴も会いたくないなんて言うし…あんなに、家族みたいに仲がよかったのにさ」
千鶴は集合所を山ではないと言うが、麓の人間からすれば山である。自分たちの生活する麓より高い場所は山だ。
人の手が入っているとはいえ、道中獣がでることだってある。危険だから、普段は千鶴一人で荷台を引いて麓に来るなんてことはない。危険だからだ。危険だから、娘達は上に登ってはいけないと言われている。
それなのに千鶴が猟犬の三郎を連れていないのは理由があるのか、冷静さが欠けているのか。
「とにかく落ち着くまでは私達で墓の方は手入れしておきましょう。あの子の気持ちが落ち着いたら任せればいいわ」
「千鶴ちゃんが落ち着くまでかぁ。八重ちゃんは友達想いだね」
ひょっこり呉服商から顔を出した梅吉が八重を褒める。店先での会話をしっかり聞いていたのだ。
途端、八重の頬が桃色に染まる。先程まで胸を張っていたのに、急にしなを作り口元を袖で隠した。
「そんな。お友達のために心を砕くのは当然のことだよ」
「うんうん、毎日毎日町の入り口を確認していたものな。今日は会えて良かったねぇ」
「し、知っていたのかい。相変わらず梅吉さんは耳が早いなぁ…」
ぽぽぽ、と頬を染める八重は呉服商の跡取り息子、梅吉を狙っている女の一人だ。しかし彼女の場合は肩書きよりも、穏やかな梅吉の気性に心惹かれている。
梅吉から見て八重は好印象だと思うが、穏やかだからこそ中々仲が進展しない。
そんな二人を、富子はじれったいなぁと眺めていた。
(いっそ見合いでも組んでしまった方が一気に進むと思うんですけど、八重ちゃんも高嶺の花だから嫁入り先が吟味されているんですよねぇ)
八重は美人だ。小柄だが力持ちで、働き者。こんな田舎には勿体ないと言われるほど器量よしで、彼女を嫁にしたいと口にする家は多い。
そんな彼女が独り身なのは、そんな状態で高嶺の花だからこそ。彼女の親はしっかり相手を吟味して、娘が幸せになるのと同時に強い縁を求めて目を皿のようにして男達を見ている。
もじもじしている八重と笑顔の梅吉を見ながら、富子は実るか実らないかわからないなと思案する。このままだと二人の親が別人と縁組みをしそうだ。
八重は器量よしだが農民の娘だし、呉服商の跡取りともなれば商人の娘が見合い相手に選ばれかねない。
ちなみに富子は既に隣の田んぼの息子と婚約済みだ。来年の春に入籍予定で、今は嫁入り修行中。
幸い幼い頃から家族付き合いをしている相手なので、目を覆いたくなるような姑いびりには遭っていない。何なら愛嬌のある娘が欲しかったと可愛がられている。
富子からしてみれば幼馴染みの延長線でした婚約だが、まあいいかと受け入れている。八重のような相手に一喜一憂するような恋にも憧れるが、それを求めて飛び出すほどの欲求は覚えていない。一緒になる人と愛が育めたらそれでいい。
(多分あの人も、このまま千鶴ちゃんとそうやって婚約できるって油断しているんですよねぇ)
富子は春色な空気を出している二人の向こう側から、血相を変えて走ってきた男を見つけて独り言ちた。
「ち、ち、千鶴はどこだ!?」
「やあ源一。千鶴ならもう帰ったよ」
「な、なんで!」
「なんでって、あの子が決めた生活場所が山だからだよ」
汗を流しながらやって来た男、源一は普段の気弱そうな眉を更に下げて、挨拶もせず千鶴の居場所を問い質した。
梅吉は穏やかに対応したが、八重は袖で口元を隠したまま鋭く切り返した。梅吉に対してしなを作ったままだが、源一を見る目は冷たい。
「だ、だっておじさんはなくなって、父さんたちだって…他の猟師だって別の狩り場に移動したんだ。千鶴も麓に下りるもんだろう」
「それを決めるのは私らじゃないよ。どこに居たいか決めるのは千鶴だよ」
「だ、だけど普通そうするだろう。なんであいつ、山に戻るんだ。お、俺にだって会いに来なかった」
「鶴ちゃんは忙しいから、用もないのに親しくない人には逢いにいきませんよぅ」
「し、親しくない…」
富子の言葉に衝撃を受けたような顔をするが、八重と富子は呆れ顔だ。梅吉ですら困った顔をする。
「アンタねえ、千鶴と最後に話したのがいつか覚えている?」
「鶴ちゃんと父親同士が猟師仲間だからって、何か勘違いしていませんかぁ?」
「源一は父親から千鶴ちゃんの話を聞いていたから気付いていないかもしれないけど、お前達ほとんど顔を合わせていないよ?」
「えっ」
本気でわからない顔をする源一に、三人は揃って嘆息した。
「源太おじさんは千鶴ちゃんを息子の嫁に欲しいみたいだけど、万造おじさんもそうとは限らないだろう」
「むしろ頼りない男に一人娘は任せたくないわよ」
「初恋を自覚した途端に好きな子から距離をとって父親経由で好きな子の動向を聞いて満足するような腰抜けは特に論外だったと思いますよぅ」
「えっ」
そう、猟師を父に持つ源一は、一応千鶴の幼馴染みではある。
しかし初恋に気付いてすぐ、羞恥が勝って距離を置いた腰抜けだ。
そのくせ父親から聞く千鶴の話でずっと一緒に過ごしたような気になって、小さい頃から変わらず仲のよい幼馴染みだと思い込んでいる。
千鶴からしてみればここ数年顔を合わせていない縁の薄い幼馴染みだ。既に顔なじみに降格しているかもしれない。
幼馴染みと顔なじみ、そこに順位があるか知らないが。
「しかもおじさんが亡くなって、心配して声を掛けることもしていないのに千鶴が麓で生活するのが当然って態度なのは癪に障るわ」
「好きな子が生活範囲内に近付いてこれ幸いと考えている浅ましさが透けて見えますぅ」
「千鶴は千鶴の考えがあって麓に来ないんだから、アンタは今まで通り何も言わず黙ってなさい」
「傷心中の鶴ちゃんに、余計な負担をかけないでくださいねぇ」
ズバズバ言葉で斬り捨てられて、源一は悄然と肩を落とした。ここで反論一つないのが二人に腰抜けと言われる理由である。
図星で黙っているのではなく、強い言葉を使われて肩を落としているのだ。納得して反省しているわけではない。
納得していないなら反論すればいいのに、源一は黙って嵐が去るのを待っている。
こりゃだめだと八重と富子は顔を見合わせ、ツンと源一から視線を外した。
「まあまあ、落ち着いて。とにかく千鶴ちゃんは帰ってここにいないよ。確かに山での生活は危険が多いけど、三郎もいるから大丈夫さ。今は彼女の好きにさせてあげよう。今後は誰にもわからないのだし」
正確に間合いを見計らった梅吉がこの隙に仲裁に入る。言いくるめて家に帰すつもりだとすぐわかったが、源一にはわからなかったらしい。救いを求めるように梅吉を見て、一つ頷いた。
そんな男達のやりとりを見ながら、富子が思い返すのは千鶴が選んだ藍色の布。購入した布の大きさからして、だいたいの体格は予想できた。
(大柄で、もしかしたら背の高い梅吉さんより大きいかもですねぇ。源一さんは普通だし、気弱だし、ちょっと思い込みが激しくて気持ち悪いから鶴ちゃんは勿体ないですぅ)
千鶴は、美人だ。
しっとりとした黒髪を高い位置で括って、涼やかな目元は目尻が少し上がっている。左目の下にある泣き黒子が色っぽくて、けれどさっぱりした空気感を持つ女性。
背が高くて、頼りになる。猟師達と山で過ごすから顔を逢わせる機会は少ない。しっかりしているけど、ちょっと抜けている所もある可愛い人。
そんな彼女の相手は、源一には務まらない。
(鶴ちゃんにはもっとしっかりしていて、頼りになって、我慢強い鶴ちゃんを癒してあげられるくらい度量の広い男の人じゃないと)
千鶴が世話になったという流浪の猟師は、果たして千鶴のお眼鏡にかなうのだろうか。
布を見ながら微笑んだ千鶴の顔を思えば、距離はだいぶ近いと感じたのだが、果たして。
(とにかく…源一さんは、ないですぅ!)
富子は頭の中で、未だにしおしおしている源一に大きなバツ印を貼り付けた。
勿論富子個人の見解だが、千鶴本人はその可能性を考えてすらいないのであった。
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