第3話 鶴の巣に居座る獣


 千鶴には、毎朝欠かさない習慣がある。

 日の出より早く目を覚ました千鶴は身支度を調え、自分の朝食より先に外に出た。

 今日も暑くなりそうだ。そう思いながら掃除用の桶を持ち、布巾を握る。目指すのは集合所の庭先に作られた石造りの祠だ。

 それは山神様を祀る祠。

 千鶴の一日は、その祠掃除から始まる。


「おはようございます」


 祠に向かってぺこりと頭を下げて、持ってきた布巾と水で祠を磨く。学の無い千鶴には作法はわからないが、狩りのため山に入る猟師達を思ってはじめた千鶴なりの信仰方法だ。

 山に入った男達が無事に帰ってきますように。そう願いながら祠を磨き続けた。


 それに山神は女神だと幼い頃から言い聞かせられていた。女神であるなら身綺麗であったほうが嬉しいよな、と思い至ったこともあり、毎日しっかり磨いている。

 願いは叶えられなかったが、それでも習慣をやめることはなかった。

 この場所から山に入る猟師はいなくなったが、千鶴がこの場所で過ごしていることは変わらない。

 朝露を拭い、埃を払う。昨日供えた酒を入れ替えて、萎れてきた花も入れ替える。本来なら米や野菜、果物も供えるのだが、そこまでは手が回らない。だから千鶴はせめて、季節の花を一緒に供えるようにしていた。

 山に咲いている花だ。山の恵みの一つだし、嫌がられることは無いだろう。多分。今日は桔梗を供えた。


(ああそうだ、これも忘れないようにしないと)


 取り出したのは瓶詰めされた果実酒。いつもの酒の隣にもう一献、ヤマモモで作った果実酒を供えた。女神が好む物はなんだろう、そう考えて試行錯誤して漬けた果実酒だ。程よく甘く、飲みやすくできたと思う。

 毎日供える量は無いが、時々こうして風変わりなものも供えている。

 そしてこれは亡き母と…父にも、供えている酒だ。

 最後に膝を着いて、両手を合わせる。目を閉じて山神様に加護を願うのが習慣だったが…今願うのは、男衆の無事ではない。


(早くおっとうの仇が、討てますように)


 山神に願うようなことではないかもしれない。しかし仇が山にいるとなれば、どうしても願ってしまう。

 そもそも山神が祠に願った程度で加護を与えてくれるとは限らない。現に、父は無残に無くなってしまった。


 山神様は、正確に言えば山の神の娘だ。その娘が山神様として祀られているのは訳がある。

 山神はたくさんの娘を持つ。その娘達は樹であったり花であったり果実であったり、山の実りとなる命の象徴であった。しかしその中に、炎のように苛烈な娘が混じっていた。

 その娘は癇癪持ちで、しょっちゅう怒っては山を震わせた。宥める周囲の声を聞かず、自分より美しく生まれたという理由で力の弱い妹たちを喰らってしまう。

 怒った山の神は、癇癪持ちの娘を山の下に封じ込めた。己の所業を反省し、罪を償うまで山から出ることを禁じた。

 それからも娘は反省すること無く、山に封じられながらも美しい娘が山に入ると癇癪を起こしてはよくないことを起こし続けた。女が山に入れば娘…山の神が嫉妬して、噴火が起るとも言われている。

 しかし山の神の熱量は生命の光。憤怒から齎される地熱で生命を育み、山は生き物たちが満ちている。


 なんて言われている神様だから、千鶴の願いなど聞いてすらいないかもしれない。

 それでも、千鶴達は彼女の熱で生かされている。人の勝手だとしても感謝を忘れず、願うことを諦めず、千鶴はこうして手を合わせ続けていた。


 それに。

 …願い以外にも、問いたいことがある。


 後ろからのそりと現われた獣が、祠に向かって手を合わせる千鶴の肩に顎を乗せた。

 のし、と重さを感じて目を開けば、白い毛並みの獣がご機嫌にゴロゴロと喉を鳴らしている。


 その女神様の御使いが一週間、千鶴の家に居座っていた。


(どういうことですか山神様…)


 思わず遠い目をしてしまう。

 あの雨の日から、この獣はずっと千鶴の傍にいた。

 千鶴が囲炉裏の側にいるときは、畳の上にいるときは近づかないが、土間に下りれば待っていましたとじゃれついてくる。おかげさまでしょっちゅう、千鶴の全身が獣の毛で真っ白だ。

 猫というより犬のようだが、気まぐれにふらりと姿を消すこともある。最初は山に帰ったのだと思ったが、そうではなかった。


 山に入っていたのは間違いないが短時間で下りてきて、千鶴の前に新鮮な兎を捕って来た。

 捕った獲物を見せに来るなど、千鶴は飼い主ではない。それとも狩りが下手だと思われているのだろうか。この間は鹿だった。

 離れてもあっという間に戻ってくるので、千鶴が仇を探しに行く暇もない。

 千鶴の側に張り付くか、寝そべって日向ぼこをするかの獣に野生は感じられない。自力で餌を捕ってくる点は野性的だが、その調理を千鶴に任せるのは野生ではない。


 居座る獣に、三郎もはじめは不満を訴えるように吠えていた。今では呆れたように一瞥をくれるだけだ。

 それでも千鶴に貼り付く獣に不満はあるらしく、獣が千鶴にまとわりつく度に突撃してくるようになった。

 おかげさまで、千鶴はこの一週間、大きな獣と小さな獣にもみくちゃにされている。前も後ろももっふもふだ。


「…おはよう。今日も早いねぇ」


 寄り添いながら身体を押し付けてくる獣の身体を撫でてやれば、あっという間にご機嫌になる。ぐるぐるごろごろと、獣の喉が鳴った。


(どうしてこんなに懐かれたんだろねぇ)


 心当たりがない。獣から見て千鶴は山に入って仇討ちを企む、山を騒がせる不届者に値するはずなのに。


(あたしの毒気を抜くのが目的だとしたら、効果覿面だけどねぇ)


 この獣は千鶴が暗い気持ちに沈むとすぐに察して寄り添ってくれるのだ。囲炉裏のそばにいるときは喉を鳴らして注意を引いて、撫でろとばかりに転がって主張する。

 三郎も寄り添ってくれた。前も後ろも左右すらもふかふかもふもふした毛皮に包まれて、千鶴は少しずつ気持ちを整えることができた。


 復讐心が消えたわけではない。

 許せない気持ちは相変わらずだが、時間が解決すると言う言葉を実感していた。

 怒りを抱え続けても、日常は続く。

 怒り続けるのは、疲れる。

 疲れて…何も考えられなくなる前に、彼らが千鶴を繋ぎ止めていた。


「…アンタ、名前はあるのかい?」


 千鶴からの問いかけに、獣は夕焼けの瞳を瞬かせた。


「名前がないのは呼ぶときに不便だろ。あたしがつけてもいいが、名前があるなら…」


 なんて、言葉が通じても名前を伝える方法などない。ついつい語りかけた千鶴は苦笑をこぼす。

 いつまでいるつもりかわからないが、居座るならいつまでも呼びかけが「アンタ」ではよくない。もうすっかり愛着も湧いていたし、無礼で無ければ名前をつけようかと思っていた。それなのについつい、名前を聞いてしまった。

 しかし獣は首を傾げたあと、爪で地面に文字を書き出した。その挙動にぎょっと目を見開く。


(嘘だろう! 獣のくせにあたしより教養があんのかい!)


 獣は漢字二文字を書いた。


(しかも上手い)


 画数が多い文字もわかりやすい。わかりやすいがしかし、残念ながら…。


「白しか読めねぇ」


 文字を習ったことの無い千鶴には、簡単な文字しかわからない。自分の名前だって書けない。わかるのは簡単な数字くらいだ。

 千鶴の一言に獣はわかりやすく口を開けて衝撃を受けた顔をする。やっぱり動作に人間味のある獣だ。


「ええと、立派な名前があるのにごめんな」


 獣はぷるぷる首を振り、いいよいいよ気にしないでと擦り寄ってきた。好きに呼んでいいよ、とばかりに前足で文字を消す。読めなかった文字が完全に消えて、白が薄れて残っている。中々に深く刻んでいたようだ。


(せめてこの一文字に関連した呼び名にしよう。だけどシロだとそのままだし…)


 ふとなんとなく、千鶴は消えかけた「白」に一本線を足した。左から右へ、天辺に一本走らせる。

 そうすれば、千鶴でも見慣れた文字になった。


「【百】と書いて【もも】ってのはどうだい」


 獣の目が丸くなる。

 千鶴はしゃがみこんで一画足された文字を満足そうに見下ろした。


「あたしのおっとうは【万造】で、おっかあは【いち】っつぅんだ。万から一引いて、あたしは【千鶴】なんだとさ。そんな名付けの仕方に肖って、アンタは【白】に一を足して【もも】だ」


 咄嗟の思いつきだったが、中々よい関連付けができたと思う。千鶴は難しい文字は読めないが、数字ならわかるのだ。

 気になるとしたら、可愛すぎる点か。

 しかしこの獣、ヤマモモが好きなのか出すと真っ先に食べる。それもあって【もも】と名前が浮かんでいた。


 三郎が何かを訴えるように吠えた。自分はどうなのだと問い質すようだ。


「あはは、アンタは七匹兄弟だったからね。三番目の三郎だよ」


 わしゃわしゃ撫でる。三郎は不満そうだ。それでも数字つながりで仲間外れではない。


 白い獣…ももは、千鶴が一画足した文字をじっと、夕焼けの瞳で見つけていた。そして嬉しそうにグルルと喉を鳴らす。


(音が可愛すぎたかと思ったが、気に入ってくれたみたいだね。よかった)


 さて、呼び方を決めたのだし、そろそろ行動するか。

 立ち上がって伸びをしながら、千鶴は覚悟を決めた。

 視線の先には、集合所の近くにある作業小屋。そこには、積み上げられた毛皮と加工された肉。骨や羽根がある。

 それは、獣が…百が狩ってきた獣の余分。千鶴一人では消費できない戦利品たちだった。


「一度麓に行って売ってくるか…」


 肉は、百も食べるだろう。しかし皮は処理しきれない。

 百は千鶴が一日三回食事を取るのを見て、一日三回獲物を捕ってきたことがある。人数が居るならともかく、獲物を狩りすぎるのはよくないことだ。

 何より、処理が大変だ。

 千鶴一人で血抜きから内蔵の処理、皮はぎしてから解体を行うのは手間がかかる。羽根はともかく、皮の鞣し処理は本当に時間がかかる。

 仇を探す余裕がないのは、この処理時間で一日が追われている所為でもあった。

 千鶴一人では抱えきれないので、下処理だけ行ったものを麓の鞣し業者に売らなければ。

 そのためには毛皮を積んだ荷台を引いて山を下りる必要があり…人の手が入った道とはいえ、十六の娘には重労働だ。


「手が足りないねぇ…」


 掃除用具を片付けて、荷台に積み上がった戦利品を見上げながら呟く。

 しかしこれからのことを考えれば、しっかり金にしないと行き詰まるのは千鶴だ。百と山の恵みに感謝して、丁寧に麓へ運ばなければ。

 やるしかないと覚悟を決めた千鶴は、ふと百が静かなことに気付いた。先程まで機嫌良く鳴いていた声も聞こえない。

 また気まぐれに昼寝でもはじめただろうかと振り返った千鶴は。


 前足が人間の腕になっている四つ足の獣を目撃した。


「おわあああああああああ!?」


 千鶴は人生で初めて、山の木々から鳥が飛び立つほどの絶叫を上げた。


「なん!? なぁっ!? わああああああ!?」


 驚きすぎて腰を抜かし、その場に座り込む。

 千鶴の絶叫に反応した三郎が激しく吠えた。吠えられた妖怪にしか見えない獣…百はシュンとしながら人間の腕を前足に戻した。陽炎のように揺らめき、腕は前足になる。

 見た目がいつも通りに戻っても、千鶴の鼓動は早鐘を打ち続けていた。


「な、なぁ…っ何したんだい!?」


 百はシュンとしたまま、腰を抜かしている千鶴を見ている。夕焼けの瞳がとても哀しそうだがちょっと待って欲しい。衝撃的過ぎた。夜眠れなくなりそうだ。

 三郎が飛んできて、百から目が離せなくなっている千鶴の顔を慰めるように舐めた。

 おかげさまで、少しだけ落ち着いた。

 百は恨めしそうに三郎を見ているが、もう少し待って欲しい。


「お、驚いた…ああ、まあ、御使いだからね。山神様のお使いだから、化けることもできる、の、か…?」


 なんとか、そうやって自分を納得させた千鶴。

 深呼吸をして、心臓に負担をかけた衝撃を乗り越える。


「だからって、何がしたかったんだい。そんな、人間の手に…うん?」


 手。

 人間の手。


(…あたしが、手が足りないって、言ったから、か?)


 だとしたら、なんて素直な子なんだ…。

 なんだか腰を抜かすほど驚いたことに罪悪感を覚えてしまう。

 だけど油断していたところにあれは驚く。朝っぱらから妖怪を見たのかと思った。


 ちなみに妖怪と「歪」は違う。

 妖怪はいるかいないか分からない物で悪さをするものから悪戯をするものまで多様だが「歪」は動きに一貫性が無く、予測不能な行動ばかり取る。妖怪はいい妖怪もいるが「歪」は「歪」でしかない。


 千鶴はなんとか立ち上がって、しょんぼりしている百の首筋を無造作に撫でた。


「百、ありがたいが流石に手だけ人になってもな。あれじゃぁ見た奴全員仰天しちまう。しかしアンタ、その調子なら人に化けられるんじゃないか? あたしを見本にしてさ」


 百は首を傾げて唸った。唸りながらまた前足が陽炎のように揺らぎ、人間の腕に変化する。

 やはり恐ろしい見た目だが、覚悟を決めれば落ち着いて観察できた。だから気付いた。

 これは人間の、男の腕だ。


(そういえばこいつ、雄だったな)


 ちゃんと立派な玉もある。


 狸や狐のように化けていると思ったが、もしかしたら原理が違うのかもしれない。だとしたら千鶴では見本になり得ない。それにこれはとても高度な技なのかもしれない。


「ええと、無理はしなくていいんだよ。ありがとな。手伝ってくれようとしただけで嬉しいよ」


 猫の手も借りたいとはいうが、実際借りる事はできない。それに、この素材を確保できたのはそもそも百の功績だ。これ以上力を借りたらたかるようなものだ。それは良くない。

 そう思っての言葉だったのだが、百はムキになったように更に唸った。そして思いついたような顔をして、千鶴にふかふかした胸毛を押しつけてきた。その力が強くて、千鶴はその場に押し倒される。

 そのままゴロゴロと喉を鳴らし懐いてくるので、飽きたのだろうかと毛並みに手を伸ばし…手が止まった。


 ない。

 もふもふがない。

 手の平の下から、毛並みが消えた。


 しかし千鶴の視界には、白い毛並みが…違う。毛だが、違う。

 これは毛皮ではない。

 これは人間の髪だ。

 千鶴の目前にあるのは、ふかふかの毛皮ではなく…。


「ちづる」


 低い声が、拙く千鶴を呼んだ。

 呆然と顔を上げて…さらりと、長い髪が千鶴の頬に流れ落ちる。

 見上げた先にいたのは見慣れた獣ではなく、人間の男だった。


 千鶴に流れ落ちる真っ直ぐ長い白髪。滑らかな真珠を思わせる肌。

 縦長の瞳孔が目立つ夕焼けの瞳。

 野性的で精悍。彫りの深い顔立ちの男は、ネコ科の肉食獣を思わせるしなやかさで千鶴を覗き込んでいた。

 押し倒した千鶴を。

 ――――全裸の男が。


 間抜け面をしていた千鶴は、目前に迫る男の美貌より…目に入った裸に本日二度目の絶叫を轟かせた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る