第2話 白い獣は鶴を囲う


 千鶴が生活しているのは、猟師達が作った小さな集落にある集合所。

 狩りにいけない千鶴は、猟師達の居住空間を管理して過ごしていた。狩りのため山に籠もることもある猟師達のために携帯食料を作ったり、すぐに休めるよう場を整えたりしていた。元々は千鶴の母がしていたことだが、母は千鶴が幼い頃に事故で亡くなっている。

 その場所も、今はがらんと人気がない。

「歪」が現れたから、父と行動を供にしていた猟師達は狩り場を変えていた。物理攻撃が効くとはいえ「歪」は動物とは違う存在だ。罠や猟銃で対処できる相手ではない。

 この場に留まるのは危険なので、千鶴もそれに着いていくか麓の町へ移住するかを勧められた。しかし千鶴は彼らに思うところがあり、残ってこの場所を守ることにした。

 もう誰もいない家だが、それでもそこが千鶴の帰る場所なのだ。

 そう、誰もいないとわかっていても、やはり家を見るとほっとする。

 しかし、三郎の先導で迷うこと無く下山できた千鶴だが、一息つくことはできなかった。


(まだ、いる…)


 あれからずっと、白い獣がついてきているからだ。


「ええと…アンタ、山から出ていいのかい…?」


 この集落も、麓の人たちからしてみれば山の一部だろう。しかし千鶴にとっては人が生活のために切り開いた一帯は山ではない。

 千鶴の問いかけに、白い獣はゆったり長い尾を揺らしながら頷いた。雨に濡れてしなやかな毛皮から水滴が零れ落ちる。

 白い生き物は神の遣い。そう言われるのも納得出来るほど美しい大きな猫は、こちらの言葉を理解しているようだ。


「だけどアンタは、山神様の御使い…」


 ぎゅるりらりりり…。


 独特な音が響いた。千鶴の前、白い獣の腹から、独特な音が。

 雨の音だけが柔らかく響き、千鶴は白い獣を凝視して…獣は、何故か誇らしげに三郎を見た。三郎は見たことのない呆れ顔をしている。


 ぎゅらりらりりり…。


 二回目。

 悲痛な腹の音に、千鶴はつい噴き出した。


「ふ、はは! 神様の遣いも腹が減るんだねぇ!」


 声を上げて笑う千鶴を、白い獣がぱっと見やる。夕焼け色の目が、驚いたように見開かれていた。

 しかし笑ってしまった千鶴はそれに気付かず、口元を押さえながら笑いを押さえ込む。神様の御使いを笑うなど、無礼者になってしまう。


「よし、待ってな。今食事を用意するからさ。丁度おっとうが鹿を…」


 続けた言葉を呑み込む。

 明るく話し出し、すぐ詰まった千鶴に、白い獣は不思議そうに首を傾げている。獣のくせに、感情表現が豊富だ。

 …父が最後に捕った獲物は、鹿だった。

 この季節、生肉は長く保たない。燻製にして保管した物がたくさんあった。


「…あたし一人じゃ食い切れねぇから、アンタも食っていきなよ」


 いいの? と問うように、獣は千鶴を見ている。

 頷いて、千鶴はしゃがみ込み足元の三郎を撫でた。


「ああ、頼むよ…三郎は、肉より芋の方が好きだしさ」


 そう告げれば、今度は三郎が誇らしげに白い獣を見上げた。


 雨は降り続いていた。

 三郎と一緒に土間に上げ、食事の用意をしながら濡れた毛皮を拭いた。集合所は獲物の処理がしやすいように土間が広く、人数が入るように囲炉裏を囲う空間も広いが、流石にこの大きな猫を畳に上げるわけにはいかない。立派な爪があるのだ。畳が無惨なことになってしまう。

 囲炉裏に火をつけて、食事の用意をしながら利口に寝そべっている白い獣の毛並みを乾かす。乾いた布で水滴を拭えば、見事にふかふかした毛並みが現われた。


(流石神様の遣い…いい毛皮してるねぇ…)


 猟師の娘として、毛皮の金額が頭を過る。流石に罰当たりなので頭を振って銭を追い出した。

 それにしても、大人しい獣だ。千鶴がこうして毛並みに触れても、嫌がるどころか嬉しそうだ。


(不思議だね。ついさっきまで何も考えられなかった…いや、考えたくなかったのに)


 父の仇を取るため、衝動的に山に入った。

 復讐心は確かにあった。しかしあれは自殺願望に近い気持ちだった気がする。

 猟銃を持っていた。使い方は知っていた。しかし問題なく使えたかと問われたら頷けない。きっと雨が降っていなくても、千鶴の抱えた猟銃は使い物にならなかった。

 猟銃が、ではない。命の脅威に抗う気持ちが、あの時の千鶴には欠けていた。


 ――――今も、そうだ。

 大人しいとはいえ鋭い爪と牙を持つ獣の傍に、無防備なまま座するのは…いつその爪に、牙に切り裂かれても構わないと…そう思っているからだ。


(この美しい獣に喰われて終わるなんて贅沢だ…なんて、神様の御使い相手に、罰当たりかね…)


 しかし山神様が千鶴に仇を討つなというのなら、その御使いの手で終わらせて欲しい。

 別に、千鶴は父を殺した「歪」が討たれるなら、自分の手でなくてもいい。絶対自分の手で仇を討ちたいと思っているわけではなかった。

 それなのに今日、山に自ら入ったのは…父と同僚の猟師達の決定に、納得いかなかったからだ。


 千鶴の生まれた珱国えいこくに棲む国民には「歪」を確認次第、早急に「討伐隊」に報告する義務がある。

「討伐隊」は「歪」専門の猟師のような存在だ。「歪」の存在解明はできていないが、放置できる存在ではない。屠るための組織が設立されるのは自然な流れだった。

 国は専門の機関を設立し、「歪」の存在を確認した者は早急に「討伐隊」に報告するよう義務づけた。討伐だけでなく、奴らの生態調査も含まれており、安全のために被害がなくても報告する義務がある。


 だというのに。

 猟師達は、報告義務を放棄した。


(「歪」は、どうやって増えるのかもわかっちゃいない。だから繁殖を防ぐためにも見つけ次第報告義務がある。それなのに)


 猟師達はその義務を怠った。

 ――――自分たちの狩り場を荒らされたくない。それだけのために。


(…おっとうが、死んだってのに)


 死人が出たのにその対応。

 猟師仲間が死んだのに、そんな不義理が許されるというのか。

 それでいて「山の御意志だから仕方がない」なんて千鶴に言って聞かせた。


(納得できるもんか。そんなこと、許されるもんか)


 千鶴が報告しようにも、千鶴は字が書けない。通信機とやらは偉い人が持っている。山の麓の村長も、何やら猟師達とこそこそ話し合っていて報告していないのだ。

 きっと、金の話だ。「討伐隊」への報告義務はあれど、そこから先は討伐依頼になる。「討伐隊」の滞在費や討伐代は義務とは別の話。

 金がかかるから、見てみないふりを選んだ。千鶴の父を犠牲に「歪」の出た山から遠ざかって。

 千鶴一人が騒いだところで取り合っては貰えない。


 男衆が「歪」を放置する道を選んだというのなら、父を殺した「歪」が次の被害者を出す前に。


(あたしが討つ…あたしが、討たなくちゃ)


 たとえ返り討ちにあったとしても、死者が増えたら討伐依頼に渋らなくなるだろう。明日は我が身なのだから。それを自覚すれば金がかかるなどいっていられなくなる。


(そう、相打ち覚悟で特攻すればまだ可能性が…)


 もふん。


「うぷ」


 白い毛並みが、千鶴の顔に押しつけられる。

 少し拭っただけであっという間にふわふわになった毛並み。寝そべっていた獣が首を伸ばし、千鶴の顔に胸毛を押しつけていた。

 そのまま首を折りたたむようにして抱き込まれる。千鶴は寝そべる獣の腹に囲われた。

 唐突な行動に戸惑うが、柔らかな毛並みは触り心地がいい。なにより。


(…温かい…)


 不思議な気持ちだった。

 猟師の娘なので、たくさんの動物を見てきた。兎も狐も狸もそばで見てきた。

 しかしその大半は猟師達が狩ってきた獲物で、生きている状態で触れたことのある動物は犬の三郎くらいだ。

 鹿も、猪も、熊にも触れたことがある。しかしそれらは血抜きが終わった獲物たち。

 こうして触れて、生きている実感を得たのは、三郎以外では久しぶりなことだ。

 千鶴の父は、触れ合いの多い人ではなかったから。


(…なんだろうねぇ、さっきまで尖っていた気持ちが、解されちまった…)


 なくなったわけではないが、あっという間になだめられてしまった。ふかふかの毛並みと温もりに。


(神様の毛皮にそういう効果があるのかね…?)


 そっと手を伸ばして喉元を撫でてみる。獣は至近距離で、嬉しげにぐるぐる喉を鳴らした。

 ふわふわ、ふかふかした毛並みだ。三郎の毛並みは少しだけ硬いのだ。それも好きだが、今まで触れたことのない新感触に千鶴は夢中になった。


 しかしふと、その感触に既視感を覚える。

 こんな綺麗な毛並みをどこで触れたというのか。一度関われば、忘れるわけがないのに。


(いつだったか…そういえば小さい頃、言いつけを破って山に入ったとき…)


 幼い頃の記憶だ。だいたいは忘れ去られる。

 千鶴は靄がかかったような記憶をたぐり寄せ、既視感を追った。それは朝靄の中を進むような心細さともの悲しさを伴って、千鶴を切ない気持ちにさせる。そんな気持ちになる心当たりもないのに。

 幼い頃の記憶。低い視点で見上げた空。木漏れ日の光を追って飛び跳ねた小さい身体。跳ねて、跳ねて…落っこちた千鶴を助けた、黒い…。


「わんっ!」

「あ」


 考え事をしていた千鶴だが、気付けば獣の毛並みをわしゃわしゃと撫で回していて、白い獣はでろんでろんに溶けていた。そんな千鶴達の前で、三郎が抗議するように吠えている。今にも地団駄を踏みそうな勢いだ。

 そいつばかりに構うなという訴えを受け、千鶴は謝罪しながら友人の毛並みも撫で回した。


 水滴を落とし汚れを落としてから、獣の前に鹿の肉を置く。塩漬けにしていない、焼いただけの肉だが、獣は嬉しそうに食い付いた。直前になって動物に塩漬けはいけないと気付いて変更したが、もしかしたら気にしすぎだったかもしれない。


(神様の御使いだもんな…)


 なんだかどんどん大きいだけの猫に見えてきたが、こんな見事に白い毛並みの動物は見たことがない。そもそもこんな大きさの猫を見たことがない。だから御使いで間違いないだろう。

 千鶴と言葉も通じているし、明らかに知能が高いのも千鶴が相手を御使いと信じた要因の一つだ。

 肉にかぶりつく獣と、芋に齧り付く三郎を確認して、千鶴は外を見やった。

 千鶴達が家に入ってから小ぶりになった雨。恐らく暗くなる前に雨は止むだろう。


(…やっぱりあれは、山神様があたしを山から追い出すために降らせた雨だったのかね)


 切なくなるが、それが山神様の判断なのだろう。

 猟師の娘として、山の御意志は受け止めねばならない。


(だけど…だけど山神様。「歪」は放置しちゃならねぇ。そうでしょう?)


 それだけは、受け入れられない。受け止めきれない。

 千鶴はまだ、仇を諦めることはできなかった。

 御使いをやってまでの警告は、ご厚意は、受けられない。御使いが山に帰ったら、近いうちにまた千鶴は山に入る…そう思っていた。


 御使いの獣が、帰る気配を見せず居座ることになるなど、考えてもいなかった。


(か、監視かい…?)


 白い獣は、びったり千鶴にくっついて離れなかった。


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