黒猫は予知夢を見る

世捨て人

第一章 猫も夢を見る

 目覚まし時計の音で目が覚める。オレは布団から出て、大きく伸びをした。

 布団の中では、育美がまだ寝息を立てている。

 高らかに鳴っていた目覚まし時計は、眠った状態の育美が無意識に止めていた。


 いつもの朝の光景。

 やれやれ。困ったものだ。

 オレは育美の頬に前脚を置いて、前後に動かした。


「……うーん。……あと五分だけ寝かせてぇ」


 この応答も、いつものこと。

 以前何度か、言われたとおり、従順な犬のように少しのあいだ待ってみたことがある。


 育美が起きたのは、それから一時間後のことだった。

 育美は起きるなり、『何でもっと早く起こしてくれなかったの!』と理不尽な怒り方をした。

 それ以来オレは、どんな手段を使ってでも起こすようにしている。


 オレは育美の頬を前脚で強く叩いた。

 人間のあいだでは、この行為を猫パンチと呼んでいるようだった。

 爪を出せば威力倍増となるが、それは可哀想なので止めている。女の顔に傷を付けてはいけない。それくらいの常識は、猫のオレでも持っている。

 今日はパンチ一発で起きなかった。だからオレは二発、三発とパンチを繰り出す。


「あー、わかった! 起きるからもう止めて!」


 育美は両手で顔を防御し、ギブアップした。

 前日の夜に、酒を飲んだ時などはもう少し粘るのだが、今日は割と早く降参した方だった。

 育美は布団から出ると、オレと同じように欠伸をしながら大きく伸びをした。


 オレと育美の朝は、毎日こんな風にして始まる。


 ベッドから下りて、オレが銀の食器の前に座ると、育美はその中に朝ご飯を入れてくれた。

 今朝は、カツオ味のキャットフードか。毎日同じじゃ味気ないからと、育美はオレの食事を毎日変えてくれている。

 食事の度に何が出てくるのかという楽しみが味わえるので、育美の気遣いは嬉しかった。


 育美は台所に立ち、朝食を作り始めた。すぐにいい匂いが漂ってくる。

 これは卵を焼いている匂いだ。作っているのは、卵焼きか目玉焼き。

 朝食を作り終えた育美は、いただきますをしたあと、物凄い速さで胃に流し込んだ。そしてすぐに洗面所に入っていった。


 オレはカツオ味のキャットフードを食べながら、その様子を眺めていた。

 もっとゆっくり噛んで食べろよと思うのだが、どうやら育美は、髪型を整えたり化粧をしたりする方に時間をかけたいようで、朝食はいつも高速のスピードで済ませていた。


 見た目なんて気にしないオレからすれば、他のことに時間をかけた方がいいのではと思うのだが、育美からすれば大切なことなんだろう。


 朝ご飯を食べ終えたオレは、育美がつけてくれたテレビの前に座る。いつも見る顔の人間たちが、政治・経済・事件のニュースを伝えている。


 オレは人間の言葉の多くを、テレビやネット動画から吸収している。その中でも、学校の授業のような番組が一番のお気に入りだ。言葉や知識を得るのに、とても役立っている。


 支度を終えた育美が戻ってきて、オレの隣に座った。オレを撫でながら、テレビ画面に視線を向けている。


「はあ……。暗いニュースばっかりで朝から嫌になるね」

 育美は溜息を吐いた。


 暗いニュースというのは、誰かが殺されたとか、子供が行方不明になっているとか、自然災害が起きて人々の生活が脅かされているとか、そういう類のことを指す。


 しかし、と思う。

 これはオレの認識が間違っているのかもしれないが、ニュースというものは暗い話題のものが大半を占めている気がする。明るい話題なんて、たまにしか見聞きしない。


 その暗いニュースの中に、オレも悲しくなるものがあった。

 人間に虐待された猫が相次いで見つかっているというニュース。その中には、毒が入れられた物を食べて死んだ猫もいるとアナウンサーは告げていた。


 猫に限らず、動物が人間に虐待されたというニュースは、しょっちゅう見聞きしていた。

 その度に、悲しさと怒りが込み上げてくる。

 そして昔の自分に思いを馳せる。育美に出会わなければ、オレも悪い人間に殺されていたかもしれないと。


 テレビの中のアナウンサーが、時刻は間もなく八時になりますと告げると、育美はテレビを消して玄関へと向かう。

 見送りするために、オレも付いて行く。

 靴を履いた育美が、オレの前にしゃがんだ。


「それじゃ、行ってくるね。今日はバイトがあるから、帰ってくるのは八時くらいになると思う。幸丸ゆきまる、お留守番よろしくね」


 育美はオレの頭を撫でると、玄関のドアを開けて出て行った。

 オレは部屋に戻り、窓際に跳んで外を見る。

 アパート前の道路に向かって歩いていた育美は一度立ち止まり、窓際のオレに向かって手を振った。

 オレも前脚を動かして応える。育美は再び歩き始め、やがてその姿は見えなくなった。


 育美が向かった先は、大学。社会に出るために勉強をするところ。

 現在、育美は大学四年生で、就職活動中。

 育美が一番就職したいと思っているところは、食品を作る会社のようだった。育美は料理を作るのも食べるのも好きなので、入社できれば、きっと活躍するだろう。


 就職活動については、オレは何もしてやれない。育美がその会社で働けるように願うだけだった。


 空を見上げると、鳥たちが自由自在に羽ばたいていた。

 人間は、空を飛び回る鳥を見て、自由でいいなという感想を持つらしい。

 育美も似たようなことを言っていた。鳥には鳥の辛さや悩みがあると思うが、鳥のように空を飛び回れたら気持ちがいいだろうなという感想はオレも持っていた。


 そんな自由な鳥とオレの環境を比べてみる。

 鳥に比べると、オレは自由ではないのかもしれない。この家から出る時は限られているし、家の中でできることも限られている。


 でもオレは今の生活に満足している。外を自由に歩き回る生活は魅力的だが、育美に保護してもらって良かったと、心の底から思っている。


 雪が降る夜、野良猫だったオレは育美と出会った。


 オレには母親と兄弟がいて、毎日みんなと一緒に行動していた。

 その日も、母親に付いて歩き回っていたのだが、オレは何かに気を取られて歩くのを止めていた。

 ソレが何だったのかは思い出せない。犬なのか、鼠なのか、別の猫なのか。


 ともかく、そのせいでオレは母親たちとはぐれてしまった。それ以来、どれだけ鳴いて探し回っても、母親たちとは再会できなかった。


 この世界に生まれて、まだそんなに時間が経っていなかったオレは、どこへ行けば食べ物があるのかわからず、途方に暮れていた。連日雨が降っていたので、飲み水だけは確保できていたが、水だけでは限界がある。


 母親たちとはぐれて、どれくらいの時間が経っていただろう。

 寒さと空腹のあまり、オレはついに歩く体力もなくなっていた。最後の気力を振り絞って辿り着いたのは、自動販売機の下だった。そこは少しだけ温かさを感じられる場所で、オレはそこに蹲っていた。


 その日は凍えるような寒さで、朝から雪が降り続いていた。

 その時はまだ、死という概念は持っていなかったが、このまま自分が消えてしまいそうな感覚に包まれていた。


 そこに現れたのが育美だった。


 オレと目が合うと、育美はゆっくりと近づいてきて、オレに向かって手を差し出した。

 その手を舐めると、育美はくすぐったそうに笑った。

 そのあと、オレの身体を心配する言葉をかけながら、そっと抱き上げてくれた。


 母親のお腹に顔を埋めて眠っていた時のような、優しい温もりを感じた。

 今もその時の感覚は強く残っている。

 それから育美はオレに幸丸という名前を付けて、この家で世話をしてくれている。


 今から二年以上前の話だ。


 たまに考えることがある。

 もしも育美と出会わなかったら、オレはどうなっていたのだろうと。

 あの日、死んでいたかもしれない。あの日は何とか生き延びても、食べる方法を知らなかった頃のオレでは、長くは持たなかっただろう。


 育美はオレの命の恩人である。感謝の気持ちは、ずっと忘れない。

 そんな風に、昔の出来事を思い出していると、急に眠気に襲われた。



〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 目の前には育美がいた。あれ、いつの間に帰ってきたのだろうとじっと見つめていると、周りの様子がおかしいことに気づいた。


 そこは外だった。育美は自転車に乗っていて、オレはカゴの中にいる。猫用のキャリーバッグに入れられ、顔だけ出ている状態。


 それでオレは理解した。ああ、動物病院に向かっているのだなと。

 育美は定期的にオレを動物病院に連れて行き、診察を受けさせている。

 最初は病院の匂いや身体を触られるのが苦手だったが、今はもう慣れた。

 育美はオレの為を思って獣医師に診察させているのだ。人間の子供のように泣き喚いてはいけない。


 道と並行して、右の方に大量の水が流れているのが見えた。

 あれは、確か、川というやつだ。これまで実際に見たことはなかったが、テレビでは何度か目にしていた。


 おかしいと思った。

 こんな場所、今まできたことがないぞ。育美は、動物病院に向かっているんじゃないのか?


 やがて川が見えなくなり、育美は一軒家が建ち並ぶ道を進み続ける。

 道が二股に分かれたところで、育美は一旦止まった。少しして、左の道へと進む。


 目の前に現れたのは、長い下り坂だった。

 その坂道を下っている時、オレの目の前で何かが動いた。

 それは二つの細長い紐のようなものだった。これはいったい、何だろう。


 振り返ると、育美は今まで見たことのない慌てた顔をしていた。

 その育美の表情を見て、何かが起きたのだと察した。しかしその何かがわからず、オレも狼狽えた。


 顔を正面に戻した時、坂道の横から車が飛び出してきた。

 そう認識した次の瞬間には、育美とオレは自転車ごと弾き飛ばされていた。


 育美は地面に横たわったまま、ぴくりとも動かない。育美の元に駆け寄りたかったが、キャリーバッグの中のオレは、外に出ることができない。

 うつ伏せになっている育美の身体の下から、液体が流れ出してきた。


 血だと思った。

 育美は、死んでしまったのか……。

 そんな、嘘だ。育美が死ぬなんて、そんなこと……。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓



 突然、大きな音が聞こえた。

 何事かと、オレは飛び上がる。

 人間風に言うなら、心臓が口から飛び出しそうなほど驚いた。


 窓の外を見て、大きな音の正体が判明した。

 移動販売車と呼ばれる車が、売り物を宣伝している音だったのだ。

 全く、猫騒がせな音である。


 ……ん?

 そこでオレは気づく。

 今までオレは眠っていたのか……。

 ということは、さっきまでオレが見ていたのは、夢か。つまり、育美は死んでいない。


 オレは、心の底から、ホッとした。

 他の猫はどうか知らないが、オレはよく夢を見る。でもそのほとんどが、日常の光景だ。さっきのように、育美が事故に遭う夢は初めて見た。


 夢で良かったと思う反面、オレの中に引っかかるものが残っていた。しかしモヤモヤの正体はわからない。


 夢の中で見た強烈な光景が忘れられず、オレは食欲を失くしていた。育美が用意してくれた昼ご飯もほとんど食べなかった。ご飯を残したのは、育美の家にきてから初めてのことだった。

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