第三章 考察
目覚まし時計の音でオレは目を開ける。ほとんど同時に、眠った状態の育美が目覚まし時計を止める。
オレは依頼どおりに、育美の頬にパンチを叩きつける。
ジャブ、ジャブ、ストレート。
「もう止めてー」と言いながら育美は起き上がり、洗面所へと向かった。
いつもどおりの朝の光景だったが、オレの目覚めは最悪だった。
オレはまた、育美が車に轢かれる夢を見てしまった。
昨日の昼間に見た夢と全く同じ内容。
長い坂道を下りている時に、何かが起きて育美が慌てた顔をする。そのあと、横から出てきた車に轢かれ、倒れた育美はぴくりとも動かない。
なぜ同じ夢を続けて見たのだろうか。
そもそも、夢とは――。
オレの知識だと、夢に関して断言できることはほとんどない。
以前体験した出来事を見ることもあれば、現実では一度も目にしていない風景を見ることもあるとか、言えるのはその程度だ。
人間が見る夢と猫の見る夢に違いがあるのかどうかもわからない。
洗面所から戻ってきた育美が、オレの朝食を食器に入れてくれた。
昨日と同じで、たとえ夢の中の光景とはいえ、育美が傷ついた姿を見たあとでは、食欲は湧かなかった。
だがオレはキャットフードを食べ始める。
食べなかったり残したりすると、育美が心配してしまうからだ。
昨日、育美に体調が悪いのかと訊かれた時、残っていたご飯をすぐに食べたのもそれが理由だった。
朝食を食べ終えたオレは、毛づくろいしながら育美を見る。
育美が家を出て行ったあと、オレは何度か眠ることになる。
もし、眠る度に育美が事故に遭う夢を見るのなら、もうそれは普通じゃない。異常事態だ。
八時になると、育美は家を出て行った。見送ったあと、オレはいつものように窓際で外を眺める。暖かな太陽の光を浴びていると、段々と眠くなってくる。
意識するから同じ夢を見てしまうのではないかと思った。一回目の時はともかく、二回目の時は、またあの夢を見たら嫌だなと意識して眠っていた。それが影響している可能性もあるのではないか。
だからオレは別のことを考えながら眠ろうと努力した。
いつも食べ物をくれる育美に、生きたままのゴキブリをプレゼントしたら悲鳴を上げられた時のこと。
動物病院で初めて注射をされた時のこと。
記憶の奥底に微かに残っている母親と兄弟のこと。
それらの光景を思い浮かべながら、オレは眠りに落ちていく――。
オレの考えは間違っていたのだろうか。
別のことを意識して眠っても、オレはまたしても育美が事故に遭う夢を見てしまった。
しかも、今日だけで二度だ。
明らかにおかしい。尋常じゃない。
居ても立ってもいられなくなったオレは、室内をうろうろする。
一度も上がったことのなかった食器棚の上に座って室内を見回したり、滅多に脚を踏み入れない浴室の中に入り、空の浴槽の中で仰向けになってみたりした。
育美が見たら、病気にでも罹ったのかと心配したかもしれない。
どれくらい時間が経っただろう。
浴室の天井をじっと眺め続けていると、ふっとこんな思いが浮かんできた。
オレの見た夢、まさか現実にはならないよな。
すぐにバカバカしいという思いに包まれる。夢で見たことが現実になるなんて、そんなバカなことあるわけが……。
「ニャッ」
あることを思い出し、オレは思わず声を出していた。
今、オレの脳裏に浮かんでいるのは、育美と一緒に観た映画だった。
主人公は、自分の寿命と引き換えに未来を見ることができるという、特殊な能力の持ち主で、その力を使って悪い敵を倒すというストーリーだった。
あと一回、未来を見てしまったら寿命を使い果たしてしまうという局面でも、主人公は躊躇うことなく未来を見て、見事に悪い人間たちを倒した。そんな主人公の最期を観て、育美は泣いていたっけ。
思い出したことが、もう一つ。
この世界には、占い師という者が存在するらしい。カード等の道具を使って、対象者の未来を見ることを生業としている人間。
育美も、朝のニュース番組内でやっている《今日の占い》というコーナーを見て、毎日一喜一憂している。
未来を見る能力が本当に存在するのかどうか、オレにはわからない。
ただ、映画の題材として使われたり、占い結果を見て喜んだり悲しんだりする人間がいるということは、その能力自体は多くの人間に知られているのだろう。
仮に、そんな特殊な能力が存在するとして、それは人間だけが持つことのできるものなのだろうか。それとも、猫も同じ能力を持つことができるのだろうか。
もし猫でも未来が見える能力を持てるとしたら……。
オレの見た夢が現実に起こる出来事だとしたら……。
こんな飛躍した考え方になるのは、育美が事故に遭う夢を何度も見てしまったからだ。全く同じ内容の夢を繰り返し見たことで、何か意味があるのではないかと考えてしまう。
未来を見る能力の話はひとまず置いておいて、オレの見た夢が現実になる可能性が一パーセントでもあるのなら、育美が事故に遭う夢を真剣に考察した方がいいだろう。
結果、絶対に現実にはならないという確証が得られれば、安心して眠ることができる。
オレは起き上がり、浴槽を出た。部屋に戻って、窓際にジャンプする。窓の外の風景を見ながら、夢の内容を思い出す。
夢の中で、オレは自転車のカゴに乗っている。
育美がオレを外に連れ出すのは、動物病院に行く時か、実家に帰る時だけ。
動物病院に行く時は自転車に乗り、実家へ帰る時は電車に乗る。
だから夢の中の育美は動物病院に向かっているか、その帰りだろうと推測できる。
動物病院に行く回数は決まっていて、一年に二回、夏と冬にオレを健康診断に連れ出していた。
季節に関するオレの知識は、そんなに多くない。
夏は暑く、冬は寒い。春と秋は暖かい。春の次に夏がきて、その次は秋、そして冬がくる。知っているのは、そのくらい。
今日は何月何日だったか……。
朝のニュース番組では、五月と言っていた気がする……。
何月から、夏になるのだろう。七月からだったか……いや、六月からだったか……。
よく覚えていないが、育美はまだクーラーを付けていないし、扇風機も出していない。だからたぶん、まだ夏にはなっていない。
そこまで考えたところで、夢の中の違和感を一つ発見した。
このアパートから動物病院までのあいだに、あんなに長い坂道や川はない、ということだ。
動物病院への行き帰り、育美は毎回同じ道を通る。何回も往復している道なので、オレの記憶に間違いはない。
これまでの経験と、その矛盾を照らし合わせた結果、夢で見た出来事は現実には起こらないという結論に至った。
育美は事故に遭わない。
そう答えを出して、最近育美が買ってきた猫用の玩具で遊び始めたのだが、なかなか気分は晴れなかった。心の中に、わだかまりのようなものが残っている。
自分の出した答えに自信はあるのだが、一つだけ引っかかっている点もあった。
オレの見た夢は、一日の始まりから全て見えているわけではない。あくまでも一部分だけだ。
育美がオレを自転車のカゴに乗せて外に出る時は、動物病院に行く時だけ。しかしその動物病院は、夢の中に出てきていない。その一点だけが、不安として残っていた。
オレの脳裏に、倒れて動かない育美の姿が浮かんでくる。その光景は頭にこびりついて離れない。食欲は失せ、昨日に続いてまた昼ご飯を残した。
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