第二章 招き猫

 玄関のドアを開けると、床の上に幸丸がちょこんと座っていた。


「ただいま、幸丸」

 と私が声を掛けると、

「ニャアァァ」

 と幸丸は愛らしい鳴き声を発した。


「お腹減ったでしょ。一緒に食べようね」

 私はスーパーで買ってきた食材をテーブルの上に置くと、幸丸の夕ご飯である猫缶を手に取って食器の中に入れようとした。


 と、そこで手が止まった。


 銀の食器には、昼ご飯用に入れておいたキャットフードが半分ほど残っていた。

 幸丸と一緒に暮らすようになってから二年五ヵ月経つけれど、私の記憶が確かなら、幸丸がご飯を残したのは初めてのことだった。

 私はしゃがんで、幸丸の身体を撫でる。


「幸丸、ご飯残してどうしたの? 身体の具合が悪いの?」


 幸丸は私の問いかけに対し「ニャア」と鳴いたあと、残っていたご飯を食べ始めた。

 食べ方を見る限り、体調不良ではなさそうだ。一安心である。

 私は猫缶を開け、空になった食器の中に入れた。そのあと、台所に向かう。


 今日の私の夕食は、唐揚げと海鮮サラダに白菜のクリームスープ。それらを作り終え、テーブルの上に並べている時、夕食を平らげた幸丸がやってきた。


「美味しかった?」

 と私が訊くと、

「ニャア」

 と幸丸は答えた。


 私がご飯を食べている時、幸丸は大抵テレビを観ているか窓際に座っているのだけれども、今は私の膝の上に乗ってゴロゴロと喉を鳴らしていた。その状態で私は食べ始める。


 何となく、幸丸の様子がいつもとは違うように感じられた。何かあったのだろうか。

 一日じゅう家の中にいるわけだから、《何か》はかなり限定されるわけだけれども……。


 それとも、単純に私に甘えたいだけだろうか。

 今はそうでもなくなったけれど、仔猫の時の幸丸は、とても甘えん坊だった。

 私がどこに行くにしても何をするにしても、常に引っ付いていた。

 でも、それも当然だと思う。幼くして母親とはぐれてしまったのだから。

 そんなことを考えていると、幸丸を保護した時の光景が甦ってきた。


 二年五ヵ月前。十二月に雪が降るのは数年ぶりと県内のニュースで報じられたその日、私は幸丸と出会った。


 大学からの帰り。自宅アパート近くにある自販機の傍らで、小さな黒猫が身体を震わせていた。

 辺りを見回しても、親猫の姿は見当たらない。恐らくはぐれたのだろう。震えていたのは、寒さだけが原因ではなかったかもしれない。


 私はどうしようか迷った。

 子供の頃に犬を飼っていた経験はあるけれど、猫との接触はこれまでほとんどなかった。

 せいぜい、友達の家で飼っていた猫と触れ合う程度。猫を飼う際の注意事項みたいなものを、私はほとんど有していなかった。


 それに、当時は大学一年生で、親から仕送りを貰って一人暮らししている立場。アルバイトはしていたけれど、お金に余裕があるわけではない。猫を飼うとどれくらい費用がかかるのかもわからなかった。


 でも、雪の降る中、震えている仔猫の前を素通りできるほど、私の心は強くなかった。

 幸い、自宅アパートはペット可である。

 とりあえず保護して、自分で飼えないと思ったら、大学の友人知人に猫を飼える人がいないか訊いて回ろう。そう決めて私は黒猫を抱き上げた。


 仔猫は威嚇することもなく、すんなりと私の腕の中に収まった。

 震える身体を優しく撫でながら、自宅へ向かった。


 部屋に入ると、黒猫は興味津々といった顔で室内を見回していた。ぴょんぴょんと飛び跳ねるように動いて、色々な物を触ったり猫パンチしたりするその姿はとても愛らしくて、見ているだけで私は笑顔になっていた。


 この猫を自分で飼うと決めるまで、そう時間はかからなかった。


 猫を飼う際に注意することや、飼育にかかる費用等、自分の生活と照らし合わせた結果、きちんと育てていけるという結論に達した。

 命を育てるのには、覚悟が伴う。それを十分に理解した上で、一緒に暮らすことにした。


 名前は幸丸にした。

 母親の愛情を十分に受けられなかった分、幸せになって欲しいという思いを込めて命名した。


 幸丸は、私に保護されたことを感謝しているようだった。

 それは色んなところで感じられる。

 親バカと言われるかもしれないけれど、幸丸は人間の言葉をかなり理解しているようだった。


 たとえば、さっきだって、食べ残していることを心配する私を見て、幸丸は急に食べ始めた。心配するな、体調に問題はない、とでも言うように。


 まあ、こんな話をすると親バカ認定されるので、誰にも話さないけれど。

 最初の頃は、私という存在は幸丸にとって必要だっただろう。文字どおり、命が懸かっていたわけだから。

 でも、それから歳月が経ち、幸丸の存在もまた、私になくてはならないものとなっていた。


 幸丸と一緒に暮らすようになってから、幸運に恵まれているな、と感じることが多くなっていた。懸賞や抽選によく当たったり、両親が経営している店の売り上げが増えて仕送り金が増えたり。


 その中でも、最大の幸運は、第一志望であるS社の一次試験を突破したことだ。

 S社の就職試験は、一次が筆記試験とグループ面接、その次が二次面接、最後は社長が面接官になって最終面接を行う、という順になっている。


 一次面接も二次面接も、そしてもちろん最終面接も、簡単なものは一つもない。

 ただ、OGの話では、S社は一次試験が最も難しいという情報を得ていた。

 私自身、そこまで自信があったわけではない一次試験を突破できたことは、大きな弾みとなっていた。


 すでに二次面接は終えていて、今は結果待ちの状態。

 ここを突破すれば、いよいよ最終面接となる。

 まだ結果が出たわけではないけれど、二次面接の感触はすこぶる良かった。


 現在、五月九日。

 友人知人の中には、すでに内定を貰っている子もいた。


 私の第一志望であるS社は、特に女子に人気の高い会社で、その分競争率は高かった。

 うちの大学からも二十五人が就職試験を受けていたけれど、一次試験を突破したのは、私を含めて三人だけだった。

 例年だと、三分の一くらいは一次試験を通過するという話を聞いていたので、今年はかなり少ないということになる。


 もっとも、S社が一次試験の通過者を絞っているというわけではなく、たまたま、うちの大学からの通過者が少なかったという話なのだろう。


 ここまでくるのに、人並み以上の努力をしたという自負はある。でも同じくらい、幸丸にも感謝していた。


 もしかしたら、幸丸には不思議な力があって、私に恩返しをしているのかもしれない。そんな風に考える時がある。


 私にとって幸丸は、幸運を呼ぶ招き猫なのである。


 ただ、まだ全てが終わったわけではない。

 二次面接の結果は、もう少し先。

 もう一踏ん張り。最終面接にまで進めたら、持てる力を全て出し切って、内定を勝ち取りにいく。


 ご飯を食べ終えると、私はシャワーを浴びて、少しのあいだテレビを観た。幸丸も私の隣に座ってじっとテレビを観ている。


 幸丸はテレビやネット動画を観るのが好きだった。

 二時間くらいある映画でも、幸丸は飽きる素振りを見せずに画面を注視している。特に動きの多いアクション映画と怪物が出てくるホラー映画は、食いつきが良かった。


 ただしホラー映画に関しては、あまり多くは見せていない。

 私は、ホラー映画が好きだ。話題になっているホラー映画はすぐに観たいと思う。でも、一人だとなかなか観られない。


 なぜかというと、怖いから。

 だから映画館で観る時も家で観る時も、ホラー映画を観る時は常に誰かと一緒だった。


 その誰かは人間じゃなくてもいいと、幸丸と一緒に暮らすようになってから気づいた。

 怖いと思う感情は、そこまで薄れていないけれど、幸丸と一緒なら恐怖度の高いホラー映画も何とか観ることができていた。


 でもやっぱり、他のジャンルの映画に比べると、観る回数は少なめである。だって、怖いから。


 時計の針が二十三時を指す頃、私はベッドの中に潜り込んだ。幸丸も布団の中に入ってくる。


「幸丸、明日も私が二度寝しようとしたら起こしてね」


 一応、目覚まし時計はセットしているけれど、朝が苦手なせいでなかなかすぐには起きられない。

 だけど幸丸がきてからというもの、私は二度寝しなくなった。幸丸の猫パンチが強烈で、眠気が吹き飛ぶからだ。感謝、感謝である。


 私のお願いに、幸丸は短く鳴いて前脚をクイッと動かした。ふふふと笑って、私はベッド脇の電気を消した。

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