第四章(前編) 恩猫

 駅の構内を抜けて外に出ると、少し強い風が私の髪を揺らした。春の匂いのする温かな風。私は乱れた髪を直しながら、駅前の横断歩道を渡った。


 この辺りでは一番高い、高層マンションの前に差し掛かる。

 マンション前には自販機がある。幸丸を保護した場所だ。今もここを通る度に、震えていた小さな幸丸の姿が脳裏に浮かんでくる。


 マンションの前を通り過ぎると、向こうから二台の自転車がやってきた。中学生くらいに見える女の子二人が乗っている。


 電線に留まっていた一羽の鴉が、突然その二人の女の子の頭上を掠めるように羽ばたいた。女の子たちは悲鳴を上げて、私のいる方にハンドルを動かした。


 私は、まるでそうなることを予見していたかのように、素早い身のこなしで衝突を避けた。

 自分で言うのも何だけれど、カッコいい避け方である。ネットに動画をアップしたいくらいだ。


「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 女の子たちは自転車を停めて謝ってきた。


「大丈夫よ。気にしないで」

 私は笑って手を振る。


 女の子たちはほっとした顔になり、頭を下げて去って行った。

 視線を移すと、先ほどの鴉はマンションの内庭にある木に留まっていた。私の方をじっと見ている、ように見える。


 鴉って、知能が高いんだよね。さっきの動きは、女の子たちを驚かせようとしたのだろうか。それとも留まる場所をあちら側に変えただけなのか。


 まあいい。でも私にちょっかい出したら許さないからね。そう鴉に釘を刺して、私は再び歩き始めた。


 自宅アパートが視界に入ってきた。二階の窓に視線を向けると、ちょこんと座っている幸丸が見えた。愛らしい姿。私と目が合った幸丸は、前脚を窓に引っ付けて、上下に激しく動かし始めた。


 いつも私が帰ってくると、何かしらの動きを見せるけれど、今日は一段と大きなリアクションだった。

 うんうん。そんなに早く私に会いたかったのか。私は自然とにやけ顔になり、早足で階段を上がっていた。


 玄関のドアを開けると、幸丸が私の胸に飛び込むようにジャンプしてきた。胸元で頬ずりし、「ニャーゴ」と甘えた声で鳴く。


「ふふふ。なあに、幸丸。そんなに早く私に帰ってきて欲しかったの?」

 私の問いかけに、幸丸はもう一度甘えた鳴き声を出した。


「私も早く会いたかったよ」

 幸丸の頭にキスをして、台所に行く。

 幸丸が大好きな猫スープを作ろうとして、私は手を止めた。


 大学に行く前、銀の食器の中に入れておいた昼ご飯が残っていた。その量は、昨日よりも多かった。


「幸丸、お昼ご飯どうして残したの? 身体の調子が悪いの?」

 これも昨日と同じで、私が訊ねると、まるでそれが合図であるかのように幸丸は食べ始めるのだった。


 食べている幸丸の後ろ姿を見つめながら、なぜ幸丸はまた昼ご飯を残したのだろうかと考えた。


 具合が悪いようには見えない。さっき嬉しそうに私の胸に飛び込んできた幸丸の姿は、元気そのものだった。

 昼ご飯のキャットフードが不味いとか?

 でも今は美味しそうに食べているから、それはないだろう。


 一日だけなら、たまたまだと言える。だけど二日続けて昼ご飯を残し、私が帰ってきたら普通に食べ始める。これには何か理由があると思った。


 考えていると、幸丸が仔猫の時の出来事を思い出した。

 私が大学に行っているあいだ、幸丸は寂しがってよく鳴いていたらしい。

 隣の部屋に住むおばさんが教えてくれた。私が家に帰ってくると、今日みたいにダッシュで私の胸に飛び込んでくる毎日だった。


 昨日と今日、私が家に帰ってきた時の喜び方は、仔猫の時に似ている。

 昼ご飯を残したことと何か関係があるのだろうか。

 仔猫の時のように寂しくなって、食べる気分じゃなかったとか? それで私が帰ってきたら、食欲が湧いて食べ始めた?


 可能性としては、ゼロではないと思うけれど、決定打に欠ける気がした。

 私はきちんと幸丸に構ってあげているので、寂しがるような原因に心当たりは全くない。

 それに、寂しがって鳴いていた仔猫の時も、幸丸は昼ご飯を完食していた。ご飯を残したこと自体、昨日が初めてなのだ。


 結局、どれだけ考えても、二日続けて昼ご飯を残した理由は見当がつかなかった。

 今はしっかり食べているのだから、そこまで気にする必要はないのかもしれないけれど、それで良しとするには心が晴れなかった。


 念のため、動物病院に連れて行こうかと思った。


 私は毎年、夏と冬の二回、幸丸を健康診断に連れて行っている。


 五ヵ月前、動物病院に連れて行った時は、極めて健康体という診断を受けていたけれど、この数ヵ月で身体に異変が生じた可能性もある。

 ご飯を食べ終えた幸丸を撫でながら、明日動物病院に連れて行こうと決めた。




 目覚まし時計の音で目を開ける。

 私は起き上がって上体を伸ばす。

 隣では、幸丸が首を傾げて私を見つめていた。

 どうした? 今日は二度寝しないのか? そんな表情である。


「私もね、たまには一回で起きられるのよ」


 私は笑いながらベッドから出て、洗面所で顔を洗う。幸丸と一緒に朝食を食べたあと、土曜の朝に放送している幸丸の好きなテレビ番組を観た。

 九時になるとテレビを消して、私は猫用のキャリーバッグを幸丸の前に置いた。


「幸丸、今から動物病院に行こうね」


 その私の言葉で、幸丸は目を丸くして驚いた顔になった。時間が止まったかのように固まっている。初めて見る表情と姿勢だった。


「ちょっと、どうしたの幸丸?」

 その驚いた表情があまりにもおかしくて、私は声を出して笑った。


 ネットには、面白い表情や動きをしている犬や猫の動画がたくさんアップされている。

 その中には病院という単語を理解していて、嫌がったり固まったりしている犬や猫の姿もある。今の幸丸はその子たちと同じだった。

 でも、何でこんな表情になっているのだろう。


 仔猫だった頃も含めて、幸丸は病院に行くのを嫌がったことは一度もない。獣医師に身体を触られるのも平気だし、初めての注射の時も平然としていた。だから、何でそんな表情になっているのかわからなかった。


『病院に行くのは夏と冬だけなのに、何で今日行くの? 今は春だよね?』

 幸丸は賢い子だから、そう思っている可能性はある。


「幸丸、大丈夫よ。ちょっと診てもらうだけだからね」

 私は幸丸を不安にさせないように、優しく言葉をかけた。


 幸丸は、私の方を何度か振り返りながら、ゆっくりとキャリーバッグの中に入っていく。

 家を出ると、駐輪場に停めている自転車のカゴにキャリーバッグを載せ、私はペダルを漕ぎ始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る