第四章(後編) 恩猫

 幸丸が入っているキャリーバッグは、顔だけ出せる作りになっている。

 外出する時、幸丸はいつも顔を出して外の風景を眺めていた。

 今日もそれは同じだったのだけれども、いつもに比べると、辺りを見回す回数は多いように見えた。


 十五分かけて動物病院に着く。

 受付を済ませると、私は長椅子に座って呼ばれるのを待った。

 土曜日ということもあって、待合室には犬や猫の姿が多かった。一人で二匹、三匹と犬猫を抱えている人もいた。


 待合室にいる猫たちは、顔を合わせて鳴いていた。


『これから注射されるんだよ助けてくれー』とか、『ワタシは注射余裕だけど薬飲まされるのが嫌なのよねー』とか、そういうやりとりをしているのかもしれない。そんな妄想をしていると、自然と笑みが洩れた。


「水原さん」

 名前を呼ばれた私は、キャリーバッグを抱えて診察室に入る。


 椅子に座っている獣医師は、二十代後半くらいに見える女性で、幸丸が仔猫の時から診てもらっていた。

 同性の私から見ても色気がある人で、会う度に私もこういう大人の女になりたいと思っていた。

 そんな素敵な女性獣医師に、私は来院の理由を説明した。


 今まで一度もご飯を残さなかった幸丸が、この二日間昼ご飯を残したこと。身体の具合が悪いのかと話し掛けたら普通に食べ始めたこと。心配し過ぎだとは思うけれど、念のために診察を受けにきたと話した。


 話を聞く分には、特に問題なさそうですけど。そう言って獣医師は診察を始めた。


 診察台に座っている幸丸は、いつもどおり平然としている。口の中を見られても、お尻の穴を見られても、泰然自若。

 視診、触診、聴診の結果、異状は見られないという診断が出された。五ヵ月前と同じで、極めて健康体ということだった。


 半ば予想していた答えではあったけれど、私は安心した。

 しかし、幸丸が二日続けて昼ご飯を残した理由は不明なままだ。


「たまたま、二日続けてお腹が減っていなかったのかもしれません。朝ご飯の量が多くて、それで十分に満たされているという可能性もあります」

 私の疑問に、獣医師はそう答えた。


 たぶん、それが正解なのだろう。朝ご飯の量が多いかもしれないというのは、心当たりがあった。

 私に限った話ではないだろうけれど、可愛いと思うあまり、ついご飯を多めにあげてしまうことがある。

 そのことを話すと、獣医師は笑った。


「わかりますよ。皆さん経験があると思います」

「明日から、少し朝ご飯の量を調整してみます」

 それから二、三言葉を交わし、私は動物病院を出た。


 見上げた青空は、どこまでも澄んでいた。そよ風も気持ちが良い。このまま帰宅して、一日じゅう家の中で過ごすのが勿体ないと思うほどの快晴。キャリーバッグから顔を出している幸丸も、気持ち良さそうに空を見上げていた。


 その顔を見ていると、たまには気分転換させるのもいいんじゃないかと思った。診察の結果には納得していたけれど、今の幸丸の状態とは関係なく、いつもとは違う景色を見せて、たくさん外の空気を吸わせるのは、精神的に良い影響を与えるのではないか。私自身も、この空の下をサイクリングしたい気持ちになっていた。


 よし、決めた。

 私は、自宅とは反対方向にペダルを漕ぎ始めた。


 少し進むと、川の上に架かる橋が見えてきた。

 幸丸は橋の上を歩いたことがあるだろうか。橋がどういうものかを幸丸に説明しながら、私は進み続ける。


 橋を渡り切ると、緩やかな坂道を下って川沿いの道へと出た。陽光が反射してキラキラと輝く川を、幸丸は興味津々といった顔で眺めている。


 素敵な横顔である。

 川を見ただけでこんな表情になるのなら、これから定期的に外に連れ出して散歩するのもいいかもしれない。


 川沿いの道を抜けると、閑静な住宅街が目の前に現れた。将来はこんな一軒家に住みたいなあ、などと未来図を描きながら自転車を走らせ続ける。

 住宅街を抜け、しばらく進むと、道が二股に分かれている場所に出た。


 私はブレーキをかけて、一旦止まった。

 正面の道は平坦。左の道は長い下り坂。

 ここは初めてくるところだけれども、どちらの道を進んでも、自宅までの距離は大して変わらないだろう。


 先ほどの、川を眺めている幸丸の顔を思い出した。

 猫は好奇心の塊。

 平坦な道より、長い下り坂の方に興味を惹かれるはず。

 私は左へと曲がった。


 ――その瞬間だった。


「ニャアアア! ニャアアア!」

 幸丸が突然大きな声で鳴き出した。私は慌ててブレーキをかける。


「ど、どうしたの幸丸?」


 過去一度も耳にしたことのない鳴き方をした幸丸は、私と下り坂を交互に見ている。


「ニャアアア!」

 再び幸丸は大きく鳴いた。何かを訴えかけるような鳴き方にも聞こえる。


 私は幸丸と坂道を交互に見る。

 ふっと、ある思いが脳裏を過ぎった。

 もしかして……。


「幸丸、もしかして、あの坂道が怖いの?」

 私はニヤリとして訊いた。


 幸丸はなおも、ニャアアアと鳴いている。それが同意の鳴き声なのか、それとも反論の鳴き声なのかは判断しかねた。


 もしかしたら、坂道に対してトラウマがあるのかもしれないと思った。あるいは、単純にこの長い下り坂に恐怖を感じているのかもしれない。


 いずれにしても、この道を進んで欲しくないようなので、私は進路変更した。

 すると幸丸は鳴くのを止めて、再び進行方向に顔を向けた。

 やはり、長い下り坂が怖かったのだろうか……。


 前方の信号が赤に変わったので、私は右のブレーキレバーを握って止まろうとした。

 しかし、いつもの感触が伝わってこない。空気を握っているような感覚。スピードは全く落ちない。

 視線をブレーキレバーの方に移すと、ブレーキワイヤーが切れているのが見えた。


 ヤバい!

 慌てて左のブレーキレバーを握ったけれど、こちらも握った瞬間にブレーキワイヤーが切れてしまった。


 パニック!

 信号が赤色の横断歩道は目前に迫っている。


「ニャアッ!」

 幸丸の力強い鳴き声が耳に届いた時、私は反射的に両足を地面に付けて踏ん張っていた。


 幸い、そこまでスピードを出していなかったので、自転車は寸でのところで止まった。

 もう少しスピードを出している状態だったら、車に轢かれていたかもしれない。文字どおり危機一髪。危なかった。


 カゴの中の幸丸を見ると、不安そうな顔を私に向けていた。

 幸丸の鳴き声が、私の両足を反射的に動かしてくれた。

 私は幸丸の頭を撫でて、ありがとうと言った。


 横断歩道の信号が青に変わった。

 ブレーキの壊れた自転車には乗れない。私は自転車を押して帰ることにした。


 この自転車とは高校一年の時からの付き合いだけれど、かなりガタがきているようだ。

 三ヵ月前にパンク修理した時は、チューブだけじゃなくタイヤも交換した方がいいと言われていた。前輪も後輪も、裂けそうなくらいタイヤが傷んでいると。


 その時は交換せずに帰ったけれど、今回ブレーキワイヤーも切断してしまった。しかも二本。全部を修理・交換するくらいなら、新しく自転車を買った方がいいだろう。

 私は自転車のハンドル部分を撫でて、長いあいだありがとうと心の中で呟いた。


 緩やかな坂道を上り切ると、遠くに自宅アパートが見えた。今度は自宅に向かって坂道を下り始める。その途中、ある思いが胸に去来した。


 ブレーキが壊れた場所が平坦な道の上で良かった。もし、あの長い坂道を下りている時にブレーキが壊れていたら、そのまま大通りに出て車に轢かれていたかもしれない。


 想像すると、全身に鳥肌が立った。不測の事態が起こっても冷静に行動できる人なら対処できただろうけれど、私には無理だ。平坦な道の上であれだけパニックになったのだから。


 偶然とはいえ、坂道を下ろうとした時に幸丸があんな鳴き方をしなかったら、私は大怪我をしていたかもしれない。最悪、命を落としていた恐れもある。


「幸丸、助けてくれてありがとう。幸丸は命の恩猫だよ」

 私が頭を撫でると、幸丸は嬉しそうにニャッと鳴いた。

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