第七章(前編) 以心伝心
猫は視力が低い。
テレビ番組で獣医師がそう言っているのを聞いたことがある。猫は数メートル先までしか見えていないと。
猫の目で世界を見たことのない人間に、何でそんなことがわかるのか不思議だが、その見立ては当たっている。
テレビを観る時、育美は離れていてもよく見えているみたいだが、オレは画面の手前まで近づかないと何が映っているのかよくわからない。
ちなみにその獣医師は、猫は人間の顔を区別できないとも言っていた。だから猫は飼い主を声や匂いで認識しているのだという。
以前、面白い猫の動画を観た。
猫を飼っている人間が、髪をばっさり切って部屋に戻ったら、猫は飼い主を見て威嚇し始めた。しかし飼い主が猫の名前を呼ぶと、威嚇を止めて甘えた鳴き声を出していた。
これは、前述の獣医師が言っていた説が正しいことを証明している。
他の多くの猫も、きっと同じなのだろう。
しかし、その説はオレには当てはまらない。
オレは育美の顔をきちんと認識できているし、他の人間の顔も区別が付いている。
育美の顔の特徴は、まず目が大きい。唇は、上と下が同じ厚さ。あとは、左目の下にホクロがあって、髪は肩くらいまでの長さ。これが、育美の容姿だ。似たような顔の女が現れても、オレなら見分けられる。
アパート前の道路は、毎日多くの人間が往来している。
オレの座っている窓際から道路までは結構離れているが、歩いているのが人間か犬かの区別は付いていた。
通りを歩く人間の中には、オレに向かって手を振る者もいた。
たぶん、猫好きな人間だろう。今日も何人か、オレに手を振っている人間を見かけていた。
いつもなら、特に相手が子供だとわかっていたら、オレも前脚を動かして応えてやるのだが、今はそんな気分ではなかった。
今オレが見たいのは、元気な育美の姿。
育美。頼む。早く帰ってきてくれ。
窓の外を見ながら、オレは育美の姿だけを思い描いていた。
空を旋回する鴉の鳴き声に混じって、チャイムが鳴り響いた。時報というやつだ。
アルバイトのない日であれば、育美はこのくらいの時間に帰ってくることもあるが、生憎今日はアルバイトの日だった。
大丈夫。今日の育美には何も起こっていない。
そう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようとするが、不安は消えない。
オレは自分でも気づかないうちに、カカカカカという変な声を発していた。ストレスが最大に膨らんでいるようだ。
人通りがめっきり減った道路を見ながら、オレは新しく見た夢の内容を思い出していた。
マンションの上から、何かが落ちてきて、育美の頭に直撃する。
今回もオレの見た夢は現実になる。そう思って行動することに決めた。
結果的に何も起こらなければ、その時は、ああ良かったで済む話。しかしオレが何も行動せずに、夢が現実になってしまったら、育美は死んでしまう。
二つの選択肢のうち、どちらを選ぶかなんて、考えるまでもないことだった。
今回見た夢では、育美の近くにオレはいない。
前回のように、鳴き声を上げて育美に危険を知らせるというような行動は取れない。
難易度という点では、ハードルは上がっている。
だが、オレが夢の内容を把握し、適切に行動すれば、必ず育美を助けられるはずだ。
オレが最も知りたいのは、夢の中の出来事がいつ起こるのかということ。ソレを知らなければ、育美は助けられない。
昼間にあの夢を見てから、オレは更に二度、同じ内容の夢を見ていた。その中で一つ発見をしていた。
今回の夢は、オレと育美が朝のニュース番組を観ているところから始まる。
夢の中の出来事がいつ起こるのか、という手掛かりは、そのニュース番組にあった。テレビ画面の右上に出ているもの。恐らく、それは数字というもので、その数字が日付を表しているのだと思った。
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《5/16(木)》 《7:34》
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これが、オレが夢の中で見た、画面の右上に出ていたもの。
このどちらかが、日付なのではないか。そして日付じゃない方は、時間を表している気がする。
そう思う理由は、ずっと画面に表示しているから。
人間は、時間を気にする生き物だ。特に朝は忙しいということはオレも知っている。だからテレビを観ている人間が仕事や学校に遅れないように、親切心で時間を表示しているような気がする。
ただ、全ては推測。確信はない。
数字や文字の読み方を覚えなかったのは、知る必要がなかったからだが、今になって後悔していた。こんなことなら、少しは数字や文字のことを勉強しておくべきだった。
だが、オレにとって何もプラスの材料がないわけではない。
部屋の壁に貼ってあるカレンダーは、日付を確かめる上で重要なアイテムだった。
数字の読み方は知らないが、カレンダーの役割は知っている。夢の中で見たものが本当に日付かどうか、カレンダーを使えばわかるのではないか。
育美はまだ帰ってこない。オレは窓際から下り、棚の上に跳んだ。
壁に貼ってあるカレンダーをじっと見つめるが、角度的にいまいち見づらい。
見やすくするためにカレンダーを壁から剥がして、絨毯の上に蹴り落とす。カレンダーの上に着地して、じっくりと数字を見つめた。
あった!
《5》と《7》と《16》と《(木)》の四つがカレンダー上にある。《5》に関しては、上の方に大きな《5》と下の方に小さな《5》がある。
しかし《34》と《/》と《:》はどこにも見当たらなかった。
カレンダーに記されているのだから、その四つは日付に関する数字や文字と見て間違いないと思う。
しかし、それ以上のことはわからない。
残りの三つが記されていない理由も、大きな《5》と小さな《5》の違いも、オレだけでは真実にたどり着けない。
育美の力が必要だ。
オレと育美が協力することで、夢の中で見た日付がいつなのかを特定できるはず。
それからしばらくして、窓の外から聞き覚えのある音が聞こえてきた。
この足音! 育美だ!
オレは急いで窓際へと駆け上り、窓の外へ視線を向けた。
育美の姿が見えた。いつもと同じ歩き方。怪我をしているようには見えない。
それまで重苦しかったオレの身体が、ふっと軽くなった。良かった。育美は無事だ。
オレは玄関へと駆け出した。
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